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寒空の下で

作者: 市田気鈴

寒いと考えずにはいられなくなる人が多いような気がします。

 俺の人生の中でも、あの婆さんとの会話は目が覚める思いだった。

 寒い日の朝であった。その日は土曜日であったが、前日に泊まりの仕事をした俺は体を震わせながら、勤務時間まで体を温めるためだけのコーヒーを飲みながら業務に当たる。9時に来た担当者に引継ぎをすると、さっさと荷物をまとめて職場を出て行った。

 俺はすぐに家に向かわなかった。泊り明けで気持ちが変な方向に昂っているが故の気まぐれだ。それにこのまま帰ってもやることはただ倒れ込んで眠るのが関の山だ。せっかくの休日にそれはもったいない。電車で通勤するのならば時間も気にするだろうが、我が家は歩いて30分程度の社員寮のため、寄り道にも抵抗は無かった。

 雪は降っていなかったが、吐く息は白く、職場から出た直後は眼鏡も曇った。体は疲れているはずなのに、足はぐんぐんと進む。そのくせ気分は一向に晴れなかった。まだ期間があるとはいえやるべき仕事をやっていなかったからか、上司の言うことに従っていることがか、泊り明けで苛立ちでもあったのだろうか…全部だろう。

加えて日常生活も面白くない。張りの無い毎日が、面倒な仕事によって時間をほとんど奪われる。休日も趣味に打ちこむことは無く、ただ怠惰に過ごすだけ。金がもっとあれば出来ることも増えるのだろうが。

なんにせよモヤがかかったような暗い気持ちを少しでも振り払うかのように、俺は大地を踏みしめて行く。

 行く当ては特になかったのだが、俺は駅の方へと向かっていった。このまま電車に乗るのも悪くないが、あまりにも目的が無さすぎる。しかも目的も無しに金をかけるのは、不本意この上ない。

 仕方が無いので、俺は駅近くの図書館へと向かった。こちらも目的があるわけでは無かったが、金はかからないし、柄にもなく本に触れるのも面白いかもしれない。最近の図書館は本以外にもいろいろ置いているらしいし…。

 ちょっとした興味を抱きつつ図書館まで来るが、残念ながらまだ開いていなかった。普段から利用していないので、開館時間など知らなかったのだ。土曜の早朝で利用するのならば受験真っただ中の学生が思い浮かぶが、その学生すらも周囲にはいなかったので閉館かも疑った。扉を見ればあと20分程度で開館とのことだったので、俺は仕方なく近くの広場にあるベンチに座り、本日2度目となる熱い缶コーヒーを飲んだ。先ほどとは違い甘いものを買ったが、味気ないのには変わりない。

 手すりに腕を下ろしながらスマホを取り出して、意味のないネットニュースに目を走らせていると、突然声をかけられた。


「すいません、お隣良いですか?」


 見上げると、ひとりの婆さんが立っていた。見た目は60代くらいで腰などは曲がっておらず、年齢の割にはエネルギッシュな存在感を示していた。その割には毛玉だらけの上着を羽織っており、持っているバッグも何度か直した後があった。誰が見ても貧相な身なりは、婆さんのシャンとした姿勢にミスマッチであった。

 あまりにも唐突のことで面食らった俺は、どもるような言い方で反応した。


「えっ?ああ、どうぞ」

「ありがとうございます」


 婆さんは軽く頭を下げると俺の反対側の端に座る。この広場はベンチの数は多くなかったものの、この早朝からか他にも空いていた。それなのに同じベンチに座られたことが、居心地が悪かった。こんなことなら真ん中に陣取る様に座ればよかったか。いや、もしかしたら婆さんは広場に来て、このベンチに座って一息つくのが日課なのかもしれない。だとすれば、他のベンチに移ることも考えたが、今やると露骨すぎて不自然に感じられる。

 結局、この状況を受け入れることしかできなかった。図書館が開くまでの辛抱だ。それに何かやましいことがあるわけでは無いのだから、人目を気にする必要なんて無いのだ。

 ちらりと横目で婆さんを見ると、小さなメモ帳に何かを書き留めていた。ゆっくりとペンを走らせ、手を止めたかと思うと再び走らせる。時々線を勢いよく引くと、今度は忙しなく動かす。婆さんがペンの動かすのを、俺はどうして観察しているのだろうか。自分がいかに暇なのかを理解して呆れたようにため息をついた。


「お仕事終わりですか?」


 再び、婆さんが俺に話しかけてきた。今度は会話のきっかけになるかのような聞き方であった。


「ええ、まあ。よくわかりましたね」

「早朝の外行きの服にしては整っていますし、表情がお疲れでしたから」

「ああ、それで。そうですね、泊りのある仕事で。いつもは早く帰るんですけど、せっかくの土曜なので少し歩こうかと」

「良いですね」


 ここで会話を終わらせておけばいいのに、俺はなぜかこの婆さんの素性が気になってしまった。不必要なのは頭でも分かっているのに、気づけば俺の方からも質問をしていた。


「いつもここに来ているんですか?」

「毎週来ています。ここだと俳句が思いつきやすくて」


 なるほど、彼女は趣味の一環としてこの場所に訪れているのか。だからなのか、目に輝きがある。表情もにこやかで、落ち着きを感じられた。俺が一生やらないような柔和な笑顔だ。


「楽しんでいますね」

「ええ、とっても。今の私は幸せですよ。昔よりも断然良いです」


 彼女の言葉に、俺の頭の中で戦争という言葉が一瞬よぎった。どうも老人の苦労というのは、同じような内容を思い浮かべてしまう。しかし年齢を考える限り、それはあり得ないだろう。むしろ就職氷河期とか、災害とか別のことだろうか。


「苦労なさったんですね」

「ええ。途方もない苦労でしたの」

「差し支えなければ、お尋ねしてもよろしいですか」

「あら、面白い話じゃないんですよ」


 笑顔を崩さずに、彼女は話し始めた。





 わたしは早くに両親を亡くし、妹との二人三脚で生きてきました。頼るところはありましたが、いつも疎外感を抱いたものです。

 妹は肺を患っており、彼女一人では生活もままなりません。わたしは身を粉にして働きました。人が嫌がる仕事を進んで引き受けましたし、女でありながら肉体労働もやりました。

 しかし得るお金は右から左へ流れるばかり、生活は苦しくなるばかりでした。日々の生活は苦しく、妹の容態も一向に良くなりません。

 それでも妹がわたしを見てくれるだけでも頑張れました。彼女がいるからこそ、わたしは懸命に生きられたのです。

 それでも変わらない日常が続けば、終わりは突然やってきます。わたしが28になる頃、妹は帰らぬ人になりました。それはとても辛いことでした。彼女がいなくなったその瞬間から、わたしには居場所が無くなったのです。

 妹がいなくても、生活は変わりませんでした。日々切り詰めて、それでも裕福からは遠い日常。そのうえ年々衰えていく体と、ついていくことも出来ないほど早く移り変わる環境に、わたしは疲弊していきました。

 あとは厳しい生活の中で死ぬのを待つだけと思われた人生でしたが、数年前からこの近くの喫茶店で働くことになりました。そこの店主から手ごろな値段のアパートを紹介していただき、今はそこに住んでいます。落ち着いて自分が生きる場所があることがこんなに嬉しいとは。しかも先日、町内ボランティアの会にも入ったんです。自分にお仕事を任せてもらえるというのは、身が引き締まるだけでなく気持ちも高揚しますね。

 お金も以前よりたくさん増えました。これを元手に何か新しいことに挑戦したいと思っているんですが、それ以上に自由に使えるお金を常に懐に入れられているのが幸せです。

 それに最近は、俳句にもはまっているんです。目に見えたものを言葉に込めて、ひとつの句に仕上げるのが楽しいですよ。何よりも落ち着きます。心に余裕ができるのです。

居場所があること、先のために使えるお金があること、安らぐ趣味があることがとても嬉しくて…昔よりもはるかに幸せですよ。



 彼女の話を聞いて、俺は押し黙った。彼女もそこで会話が終わったのかと思ったようで、笑顔を見せるとまたメモ帳へと顔を向けた。

 俺の心は大いに揺らいでいた。

 大学を卒業してから就いた今の仕事は金に困ることは無かった。むしろ泊りの手当ても出るので貯金できるほど金には余裕がある。ちょっと高い飯を食ったり、家電を買うといった贅沢だって出来る。

 彼女の話していた喫茶店については知っている。学生時代に友人がアルバイトをしていた場所だが、何かにつけてちょっと遊べば吹き飛ぶ給料の少なさを愚痴としてこぼしていた。もしその頃と給料が変わっていないなら、俺の方が遥かに稼いでいることになるだろう。

 社員寮はそれなりに長く住んでおり、いざという時は実家という帰れる場所もある。

職場ではまだ若造扱いだが、自分がいないと回らない状況だっていくらでもある。俺にはこの人の話すような居場所は、俺だって持っている。それなのに…。

 彼女は目を輝かせながら雲の少ない青空を見上げたり、葉のついていない枯れ木に目を映らせながら、メモ帳に文字を走らせる。その姿はこれまで自分が見てきたどんな存在よりも崇高で輝いて見えた。




 俺と彼女の違いは何だろうか。

 俺は彼女よりも金はあるし、生きるための仕事や居場所もある。趣味は無いがそれを気にするようなことはほとんど無い。何より彼女よりも若く、未来があるのだ。それなのに俺は明日が不安でしょうがない。どれだけ働いても生活が一向に良くなる節が無い。彼女よりも間違いなく豊かな暮らしをしているはずなのに。今の仕事には何度も嫌気が差すくせに、解雇されたらどうしようとか居場所を失うことにもびくびくしている。こんな状況だから体を休めても、心が休まることは無い。惰眠を貪るほど吐きそうな想いが胸にこみあげてくる。

こんなことをまともに考えたことなどあっただろうか。いや何度もあったのではないだろうか。それを俺は気にしないように、見て見ぬふりをしてきた。考えることをやめて、人生はそういうものだと受け入れた。全てが望み通りにいくものではないのだと。

満足できない。いつも足りない。不安がつきまとう。考えることが止まらないのだ…。


「お先に失礼します」

「えっ…はい」


 俺がふけっているうちに、彼女は創作を終わらせてどこかへ歩いていく。時計を見ればすでに図書館の開館から20分も過ぎていた。俺は缶の残りを飲み干した。口に残る甘さはへばりつくような気持ち悪さで、それでいてとても貴重なものに思えた。

 それ以来、人生の満ち足りた彼女と出会うことは無かった。


彼は今後も考えるのか、それともまた止めるのか…。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 何気ない場所での何気ない会話。短い中でも色々感慨深い物がありました。 『彼』だけじゃなく、読んだ人も色々考えるかもですね。
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