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少年バンシー  作者: 天月シンヤ
5/8

‐5‐

 歩いて十五分ほどの住宅地と商業地が切り替わるところに、その水族館はあった。

 白い外壁に館名とデフォルメした魚の絵が大きく描かれていて、ところどころペンキが剥げている。

 各地の有名な水族館に比べれば、特徴にとぼしくおとなしい外観だった。ただし、ここは一度取材のためにひとりで訪れたことがあるのだが、展示内容は見た目よりも充実している。市営なので入館料も手頃だった。

 入口の手前で、建物全体を眺めてユキが言う。

「ここが水族館なんですね……。はじめてきました」

 建物内に入ってすぐのところに入館受付がある。そこで、大人と子ども、それぞれひとり分のチケットを購入しようとしたのだが、受付の人に「お客様のほかにどなたかいらっしゃるのですか?」と訝しがられた。そうだった、隣に立っているユキの姿は私以外には見えないのを忘れていた。結局、大人ひとり分のチケットで、ユキも一緒に入っていくのを誰も咎めなかった。私はユキの分の入館料を、受付の隣に置いてある海洋生物保護の募金箱に入れて、中へと進んだ。

 まずは一定の間隔をあけて壁に埋め込まれるように展示されている、小型水槽のエリアが現れた。ピークの時間を過ぎているためか人はまばらで、思ったよりもゆっくり見られそうだった。

 やわらかくライトアップされているそれらをひとつひとつ眺めながら、さらに奥へと進んでいく。ユキは、ときおり水槽にはりついては「なんだろう、これ」とか「かわいい」とかつぶやいて、じっと中を見つめていた。

 展示エリアが変わり、急に通路が薄暗くなる。ぼんやりとした光の差し込む方向にひらけた空間があり、そこには巨大な水槽があった。真っ暗な室内にひろがる青く幻想的な風景の中で、白い半透明の浮遊体が、ふわりふわりと無数にたゆたう。

この水族館でいちばん人気のある、クラゲの大水槽だ。

 あまりにも静かで、深海にいるような錯覚を起こしそうになるほどに、それはうつくしかった。

 隣で見上げるユキの赤い目が、このときばかりは青くかがやいていた。ちかちかと、白いクラゲがうつっている。

 まばたきも忘れて、見入っていた。しばらくしてユキが水槽から視線を外したのを見計らい、小さくユキの名前を呼んで、次のエリアへと向かう。

 短い通路の先で元のように照明があかるくなって、広間の中央に、子どもの腰の高さほどの、蓋のない広い水槽が展示されていた。立て看板に大きく「海のふれあい水槽」と書かれている。水深の浅い水槽のなかでは砂浜や岩場が再現されていて、星形のヒトデやウニ、小型のカニに、得体の知れない何か……おそらくはナマコだろうか、とにかくさまざまな生物がひしめいている。看板には「海の生き物を触ってみよう」なんて書いてあるが、正直、触るのをためらう色や形をしているものもいる。ユキは子どもたちに混じり、興味深そうに身を乗り出してそれらを覗きこんでいるので、ひとつ、とびきりぶつぶつして赤と青のまだら模様のヒトデを水中から持ち上げてみせると、軽く飛び上がって頭を左右に振りながら後ろに引いてしまった。それがおかしくて思わず笑ってしまう。すまない、と小声で謝ると、ユキはなぜか珍しいものに向けるような表情で、ヒトデのほうではなく、私を見ていた。

 そのあと、私たちはアーチ状になったトンネル水槽をくぐり、色とりどりの熱帯魚が泳ぐ水槽を眺めていった。

 最後に立ち寄ったグッズの販売コーナーで、かわいらしい魚やイルカのぬいぐるみが並ぶなか、ユキは小さなヒトデのマスコットをじっと見つめていた。それも、赤と青のまだら模様のやつだ。そして珍しく、これが欲しいですとねだった。「それでいいのか」と訊くと「これがいいんです」と返ってきた。さっきはあんなに引いていたのに、ユキの趣味はよくわからない。

「ぼくが持っているときっと、ほかのヒトにはふわふわ浮かんでみえると思うので、これはセトさんが持っていてください」

 そう言って、私のカバンに購入したばかりのマスコットを取り付けた。ゆらゆらと揺れるヒトデを見て、ユキは満足そうに微笑んだ。私は、ユキが喜んでいるのだからまあいいか、という気持ちになっていた。


 水族館を出ると、わずかに太陽が傾いているものの、まだ十分に明るい時間帯だった。春になってから、日が昇っている時間がずいぶん長くなった。連休が終わればやがて夏がくる。例年のうだるような暑さを想像した。遠い記憶のようだった。

 軽く何か食べようかという話になって、道すがらのファーストフード店に入る。そこでハンバーガーとポテトを持ち帰りで購入して、すぐに店を出た。手に下げたビニール袋の中に入れられた紙袋が、歩くたびにカサカサと揺れた。

 見慣れた道を歩いていく。ほどよく暖まった空気も、やわらかな日差しも心地良い。ユキはいつだって私の半歩後ろをついてきていたが、今はぴったり隣を歩いている。ちらりと目線を向けると、同じくこちらを見上げていたユキと目が合った。私はビニール袋を逆に持ち替えて、空いた手を伸ばした。

「あ……えっと……」

 ユキは私の顔と手を交互に見て、おそるおそる細い手指を絡めてきた。耳まで桜色に染めて、その手に力が入ったり、ゆるんだりする。そんな様子に引きずられるようにして私自身の心拍も上がっていくのがわかった。指先から体温が、直に伝わってくる。

 大切な人をふたりも一度に失ったあの日からずっと、自分の気持ちの在り処をみずから覆い隠してきた。平静を保とうとすればするほどに、何がつらくて悲しいのか、自分が考え求めているものさえ曖昧になっていった。

 久しく忘れていた、自分の想いと、それを吐き出す感覚。ユキに出会って、今、ようやく思い出しかけていた。

 だから、最後くらいは、伝えてしまいたいと思う。それがどれだけ身勝手なことなのかを、そして、隣にいる少年を傷つけるかもしれないということを、わかっていても。

 やがて静かな並木道にさしかかった。ユキの手を取ったまま、昨日の公園へと向かう。

 今日もこの公園にいるのは私たちだけだった。昨日と同じように自動販売機で飲み物を買い、木陰のベンチに座って、ファーストフード店で購入したものを口にする。いただきます、と言って、ユキは小さな口でハンバーガーをほおばった。美味しそうに食べてはいる、が、どうも飲みこみづらそうだ。それは、私も同じだった。さっきから胸が詰まるような、言いようのない苦しさがあった。食が進まないのを飲み物で流しこんでごまかした。

「セトさん、なんだか、考えごとをしていますね」

 紙袋の中身をすべて食べ終わり、ユキはぽつりと口を開いた。

「だって、さっきからむずかしい顔をしています」

 風がざあっと音をたてて、公園の木々を撫でていく。

 酸素が足りないような心地がして、私は一度、静かにゆっくりと深呼吸した。

「……こういうときだけ、鋭いな、きみは」

「いつもは気づいても言わないだけですよ。……なんて。セトさんだって、ほんとうはけっこう顔に出るし、わかりやすいです。……ぼくは、セトさんのこと、よくみてましたから」

 今度こそはっきりと、心拍が上がっていくのがわかった。こんなとき、いつもならどうしただろうか。気のせいだと自分に言い聞かせて、何もなかったふりをしたのかもしれない。そうして目を逸らして流した日々を、平穏と名づけて安心していたんじゃないのか。

 だが、そんな平穏は仮初めでしかなく、いずれ無理が生じて破綻する。楽しいときは笑って、悲しいときは泣いてもいいのだと思い出させてくれたのは、他の誰でもない、ユキだった。

 だからこそ私はもう、感情の変化や苦しさをなかったことにはできないし、したくはない。

 たとえ胸の内に隠したままでいるのが正解だったとしても。

「今日が終わる前に、きみに伝えたいことがある。それはもしかしたら、きみを悩ませたり、苦しませてしまうのかもしれない」

 ユキは穏やかに微笑んで、小さく頷いた。

「いいですよ。なんでもきかせてください」

 遠くの空が、じんわりと黄金色に染まっていく。まばゆいほどにかがやく西日が山の向こうに沈んでしまえば、もうすぐ夜が訪れる。

「……今まで私は、ひとりで生きるのが当たり前で、毎日が平穏であればそれでいいと思っていた。寂しくはない、つらくもない、怖さも、恐れもない、特別なものはなにもいらない。……だが、それらは全部、嘘だった。きみの言うとおりだったよ。感覚を麻痺させて自分を守ってきたに過ぎなかったんだ」

 私は話しながら、まっすぐ遠くを見つめて、ユキと出会ってからの日々をなぞっていた。ユキの楽しげな声や、涙のたまった赤い瞳、ころころとよく変わる表情ばかりが再生される。

「きみがあまりにも素直に泣いたり笑ったりするものだから、思い出してしまったよ。ほんとうは、ずっと寂しかったんだと思う。今だって。ユキ……きみと会えなくなるのが、きみをひとりにしてしまうのが、つらくて苦しいんだ」

 ユキの手にはじめて触れたとき、その温度を知ってしまった。誰かが傍にいる安心感を、思い出してしまった。

 明日には消え去るものが想いを伝える愚かさを、どうか赦してほしい。

「ユキ、短い間だったけれど楽しかった。きみのことが、私は……好きだったんだ」

 隣に座るユキの目をしっかりととらえて、告げる。赤い瞳が、溶けた氷のように潤んでいた。

「……どうして、過去形なんですか。もう会えないみたいに言わないでください。ぼくも、セトさんが好きです。これからもずっと、好きです。今までいろんなヒトを見てきたけど、はじめてだったんですよ、契約の話をしたの。ぼくだって消えてしまうのは怖い。でも、そんなことどうでもいいって思えるくらい、ぼくのすべてと引き換えにしてでも生きてほしいと願ったのは、セトさんだけです」

 心臓の音が聞こえる気がして、視界が波打つ。水中で目を開けたときのように、ユキの顔も、草木もベンチも、空気さえもがゆがんだ。オレンジ色の西日が乱反射している。

 少し視界がクリアになるのと同時に、頬の上をぬるい水がつたう感触がした。それは重力に従って、ぽたりぽたりと落ちていく。

 私はいつの間にか、泣いていた。

「セトさん……セトさん……ぼくを、ゆるしてください」

 にじむ視界のなかで、ユキが身じろぐ気配がした。

 頬に細い指先がふれて、唇にやわらかいものがそっと押しあてられた。それは、ベンチのうえに膝立ちになって、重ねられた、ユキの唇だった。

 すぐに離れようとするのを追いかけて、今度はこちらからやんわりと重ねると、ユキの小さな声がもれた。

 まだ幼さの残る頬が上気して濡れている。ふたりぶんの涙の味が混ざって、ぴりぴりとしびれた。

 ユキの予言が、外れてしまえばいいのにと思う。

 明日が過ぎても赤毛の少年は現れず、私たちは拍子抜けして、ふたりで顔を見合わせて笑う。そんな未来が、どこかにあるのなら。


 その夜はひとつのベッドで手をつないで眠った。バニラエッセンスをうすめたようなほのかに甘い香りが眠りを誘い、夢の中まで届いていた。

 空がうっすらと白んで目が覚めても、ユキは私の手を握ったままだった。

 ついに、最後の朝がきた。

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