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少年バンシー  作者: 天月シンヤ
1/8

‐1‐


 ――ずっと、ずっと、悲しかった。

 どうすることもできないから。

 みているだけしかできないから。

 いつだって、ぼくは、無力で、どうしようもなくて。

 だから……。


 

 *


 春というには暖かく、夏というには涼やかな五月。世間は大型連休の真っ只中なのだろう。行楽日和と相まって、テレビ画面にうつる活発そうな女性のリポーターが、どこそこの観光地がたいへん賑わっていますだとか、この連休中にしか食べられないとっておきのスイーツだのと、やや興奮気味にしゃべり倒している。こう静かすぎるのもどうかと思って気分転換にリモコンのスイッチを入れてみたものの、やはりどうしてもそれらの情報は耳障りな雑音にしか聞こえなかった。私はうんざりして、つけてからものの五分も経たないうちにテレビの電源を切った。なんなら大元のコンセントからプラグを引き抜いてしまおうかという気持ちにすらなっていた。そんなことをしても締め切りが伸びるわけではないというのに。

 私、瀬戸修史はいわゆる物書きを生業にしている。フリーライターなどと言えば聞こえはいいが、実際のところは狭い自宅でパソコンに向かって小さな仕事を日々こつこつとこなしていくだけの、まあパッとしないものだ。もちろん、ライターという仕事がパッとしないのではない。私自身がだ。

 昔から文章を書くことだけはそれなりに好きだった。趣味で定期的に書き綴っていたブログからどういうわけか執筆依頼の声が掛かり、いつの間にかフリーのライターを名乗っている。こんな私でも食いっぱぐれないだけの仕事をもらえているのは奇跡に等しく思う。ただし、贅沢できるほどの収入があるでもなく、むしろギリギリの生活で、じゃあ時間は有り余っているのかといえば、そう暇でもない。幸いにも私は欲というものに疎かったので、毎日はそれなりに穏やかだった。いわゆる出世欲とか、承認欲、物欲、自己顕示欲などというものには縁遠い。多すぎても困りものだが、少しはあってもいいものだ。日々平穏に生きていられれば、すべて世はこともなし。

 だからといっては何だが、今、内心とても焦っていた。原稿の締め切りが近いというのに、納得できるほどの文章が降ってこないのだ。締め切りを破ればどうなるか。答えは簡単だ。信頼を失う。組織に属さないフリーランスにとって人脈と信頼はライフラインだ。それらを失うというのは、私にとって一番大切な日々の平穏を失うのと同義といえる。特に私の場合は、それほど人脈があるわけでもなく、ただひたすら誠実にこなして長く続けさせてもらっている仕事がいくつかあるに過ぎない。

 つまるところ、簡潔に言えば、ピンチだった。

「ううん、困ったな……」

 テレビの音さえ消えてしんとした部屋に、ずいぶんと自分の独り言が大きく響いた。無意味にパソコンのキーボードを叩いてみても空しい。すっかり冷めたコーヒーを入れ直す気にもなれない。そもそも、さっきから何時間も椅子に座りっぱなしでさすがに腰が痛くなってきた。さて、どうしたものか……。

 そのとき、手元からピリリ、と断続的な機械音がした。パソコンデスクの隅に置いてある携帯電話がぴかぴかと光って着信を知らせている。ついにきてしまった。

 私は携帯電話を手に取って、通話ボタンを押した。

「はい」

『ああ、瀬戸さん、お疲れさまです。依頼していた原稿の進み具合はどうですか? できれば明日の午前中までには頂きたいと思っているんですけど』

 明るくよく通る声は、クライアントの遠野知佳だ。私より二歳年上の二十九歳で、旅行関連企業に勤めている女性。今から五年ほど前に私のブログを読んで声を掛けてきた張本人であり、それからずっと何かしらの仕事を依頼してくれている。

 今回も原稿の進捗を心配して電話を掛けてきたのだろう。世間は大型連休だというのに、彼女もお疲れさまだ。ここで嘘をついても仕方がないので、私は正直に話すことにした。

「頑張ってはいるんですが、なかなか。でも、締め切りには間に合わせますので」

『ええ、わかりました。あまり無理はしないでくださいね。こちらでもできるだけ調整をかけますから』

「助かります。そうだ、頂いた電話で悪いんですが、原稿の内容についていくつか確認したいことが――」

 言いかけて、私は唐突に、会話を途切れさせてしまった。

 どこからか、おかしな音が聞こえた気がしたのだ。耳をそばだてると、どうもそれは人の声というか……泣き声? 小さく、しかしはっきりと、子供がすすり泣くような声がする。

『瀬戸さん? どうしましたか。もしもーし』

「あ、ああ、はい。……すみません、急用を思い出したのでいったん切ってもいいですか」

『もちろんそれは構わないですけど、大丈夫ですか?』

「大丈夫です。すぐに掛け直します」

 幻聴だとしたら私は全然大丈夫じゃない訳だが、それを問い詰めるでもなく、彼女はすんなりと電話を切ってくれた。ずいぶん無礼なことをしてしまった。

 しゃくりあげて泣く声は、電話を切ったあとも依然として聞こえている。どうも外からという感じではない。この部屋の中だ。私は椅子から立ち上がり、あたりを見回した。テレビは消えている。玄関も窓も施錠して閉めきっている。室内には下に隙間のないベッドと、パソコンデスクと、簡素なキッチンに小型冷蔵庫、それに本棚とタンスがある。押入れはスペアの布団などを収納しているので人が入れるほどの余裕はないはずだ。辛うじて可能性のあるトイレと風呂場のドアを開けてみたが、やはり誰もいない。狭いワンルームの自室にこれ以上、人が隠れるスペースなんてあっただろうか。

 ――……ひっ……ぐ…、うえぇ…ん……っ……ひッ…ぐ……

 そうこうしている間に、いよいよ声は大きくなった。立ったまま目を閉じて考え込む。もしや本当に幻聴なのか。ここのところずっとパソコンに向かいっぱなしだったから、どこかおかしくなってしまったのか。病院に行くべきか……。

 そうだ、疲れているのか……。私は短い溜息をついて、目を開けた。

「……ッ!?」

 驚いた、なんてものじゃない。

 目を開けて真っ先にうつったもの。たしかに数秒前までは誰もいなかったはずのベッドの上に、子供が座っていた。


    *


 そういえば幼い頃から、他人には見えないものをよく見ていた気がする。それは白いモヤだったり、揺らめく黒い陽炎だったりした。少し不気味ではあったが、まあ自分は他人より目が良いんだろう、くらいに思っていた。光に照らされて舞い散る埃が見えるようなものだと。

 いま思えば、それらはいつだってぼんやりとした不定形のものだったから、特に気に留めずに生きてこられたのかもしれない。

 目の前のベッドの上でひざを抱えている子供を見て、さすがに背筋が凍る思いがした。

「きみは、誰だ……」

 灰色のシーツのようなものを被っている子供は、はっとしてうつむいていた顔を上げた。少し外に跳ねた中庸な黒髪がやわらかそうに揺れて、これ以上ないくらいに目が合った。

 赤い瞳が潤んでゆらめいている。泣き腫らしたからではなく、瞳そのものが血液のような色で、くっきりと冴えていた。白い頬は流した涙で濡れている。

 子供は目を丸くして、困ったように眉尻を下げ、口を開いた。

「ああ……。ぼくのことがみえるんですね。はじめまして」

 頭痛がした。開口一番、見えるんですねときたのだから、当然だろう。裏を返せば普通は見えないということだ。嫌な予感が確信に変わって、私は首を振った。

 ……いやいや、待て。何かの間違いじゃないか。確信するにはまだ早い。落ち着くべきだ。

 こちらを見て目を合わせて喋ってきているということは、コミュニケーションが取れるらしい。相手は子供だ。そう、ただの、子供だ。

 自分に言い聞かせて、私は改めて子供に向きなおった。

「……ここはきみの家じゃないだろう。一体いつ、どこから入ってきたんだ?」

「ぼくは一週間くらい前から、ずっとこの部屋にいましたよ。たしか、あなたのあとを追って玄関から入ってきたと思いますけど……」

 今度は眩暈がしてきた。さあ、これで残された可能性は二つ。

 ひとつは、幻聴と幻覚を一度に発症しているという可能性。これは冗談抜きでまずい。即入院のうえ精密検査レベルだ。

 もうひとつは……。いっそ訊いてしまったほうが早い。

「わかった、単刀直入に訊こう。……きみは、人間なのか?」

 また、ひざを抱えたままうつむいて、何やら言いづらそうに口をつぐんでいる。少しの間を置いて、小声で「いいえ」と言った。ベッドの端からそろりと両足を下ろし、ソファのように座り直して、ひざに両手を揃えた格好でぴんと背筋を伸ばした。果実のように赤い目が真っ直ぐにこちらを見ている。

「ぼくは、あなたがたが、フェアリーや妖精と呼んでいる存在です」

「……フェアリー……妖精……」

 私は馬鹿みたいにそのファンタジックな単語をオウム返しした。聞こえた言葉が脳まで届かない。

「はい、そうです。幽霊とかとはちょっと違うんですよ」

 はにかみながらベッドから降り立つと、すらりと細い肢体が露わになった。思ったよりも背が高く、年の頃でいえば十二、三歳くらいだろうか。緑色のシャツとハーフパンツの上に、先程まで灰色のシーツだと思っていた大きな布を纏っている。それは背丈と同じくらいの丈がある、フード付きのマントだった。幼く中性的な顔立ちや肌の白さもあって性別はわかりづらいが、おおよその雰囲気や声からして、少女ではなく少年なのだろう。

「ほら、ちゃんと足もあるし、物に触ることだってできるんです」

 言いながら、ベッドサイドに置いていた目覚まし時計を手に取ってみせた。

「まわりのヒトが驚いちゃうから、できるだけ物には触らないようにしてるんですけど……。普通のヒトにはぼくがみえないですからね」

 困ったように笑う。頬に残る涙の痕はもう、乾いていた。

 こんなことがあっていいものか。ファンタジー小説の読みすぎだろうか。言うほど読んではいないが。

 とにかくまだ幻覚と幻聴のダブル発症という線を捨てきれなかったので、私はとある方法を試してみようと思いたち、本棚の端から取材用にいつも持ち歩いているデジタルカメラを手に取った。

「すまない、まだ、この状況を信じられないんだ。そのまま、そこに立っていてくれ」

「あっ。それ、カメラですよね。ぼく、知ってます。たぶん撮ってもらってもうつらないと思いますけど……」

「いいんだ。その目覚まし時計、持ったままにしてて」

 あっさり不穏なことを言われた気がするが、聞かなかったことにする。電源を入れると機械音がして背面の液晶モニターが灯る。カメラのレンズを、そわそわと立ち尽くす少年に向けた。

「……っ!」

 心臓が跳ねた。シャッターを切るまでもなく、早々に結論が出てしまった。

 液晶モニターには、中空に浮かぶ目覚まし時計だけがうつっていた。

 現実をまざまざと突き付けられた気分だ。

「ね、うつらないですよね」

 少年はまた、困ったように微笑んだ。

 念には念を入れて、シャッターを切った。ピピッと音がして、データが即座に保存される。すぐに再生モードに切り替えて、そのデータを確認した。やはり、胸のあたりの高さに浮かぶ目覚まし時計が、だまし絵のように表示されている。

 信じがたい……、が、デジタルデータはありのままの真実を無言で語っている。

 そうか。幻覚でも、幻聴でもないのか……。

「どうしましたか、顔色があまりよくないような」

「おかげさまでね」

「あ、ぼくが持ってた目覚まし時計。すごい、浮いてるようにみえますね。魔法みたい。でもやっぱり、ちょっと怖いですよね……」

 傍に寄ってきて、横からカメラの液晶モニターを覗いてくる。なぜかその言葉の後半には、わずかな戸惑いが含まれていた。

「……まあ、いいか……」

 投げやりにも聞こえる言葉を吐いてしまう。腑に落ちない部分は多々あるものの、とりあえずは理解した。現実だ、これは。

 この国には昔から座敷童という妖怪がいるじゃないか。あれはたしか、家に幸福をもたらすのだったか。妖怪と妖精という違いはあれど、少年からは嫌な気配は感じられないし、そう悪いものでもないんだろう。

 納得して落ち着くと、急に仕事を途中で放っていたのを思い出した。そうだ、電話。掛け直さなくては。

 本棚にカメラを戻して、パソコンデスクに置きっぱなしの携帯電話に手を伸ばした。

「今から急ぎの仕事を片づけるから、悪いけれど話の続きはあとにしよう」

 すると、少年の顔に不安の色が滲むのが見てとれた。わずかに震える手が所在なさげにマントの端を掴んでいる。

「……あの、こんなこときくのは変だってわかってるんですけど……。追い出さないんですか、ぼくのこと」

「きみに帰るべき家があるのならそうしているよ。まあ、出ていきたければいつでも出ていけばいい。鍵は内側から開けられるから」

 少年は意外そうに目を丸くして、ぱちぱちと数回瞬きをした。細やかな睫毛が揺れる。少し何か考え込んでいたかと思うと、やがてそろりとベッドの上に戻っていった。ひざを抱えた格好で壁際に座って、こちらを見ている。

「静かにしていますね」

「そうしてもらえると助かる」

 私は着信履歴から遠野さんの名前を呼び出して、通話ボタンを押した。

 そういえば、何か大切なことを訊き忘れているような……。

 ぼんやり浮かんだ考えは、電話に出た遠野さんと仕事内容について話を進めるうちに、頭の隅へと追いやられていった。

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