7.5話 顎クイ
「……ねぇ七哉、起きてる?」
夜も更けた頃、そんな言葉が聞えた気がした。
「もう、相変わらずの眠りの深さね……、
でも起きるまで止めたくない気分なんだなー」
その後グルグルと幾度かの平衡感覚への違和感と、くすぐったさやチクリとした甘痒い痛み、緩急のある圧迫に息苦しさを感じた気がする。
「う……ぐ…………?」
「お、やっと起きた?
まったくー、野営の時は珍しくスッと起きたと思ってたのに、やっぱり慣れない環境だったから起きられたのかしらねー」
「…………なんだ、敵襲か?」
ぼんやりとした頭で目をこすりながら反射的にそう尋ねていたが、悠々と俺の上に馬乗りになっている杏里と横から聞える規則正しい寝息から察するに敵襲の可能性は極めて低いだろう。
「わかってると思うけど、敵襲じゃないわよ。 お寝坊さん」
「…………では何だってこんな夜更けに? まだ全然、明るくもなってきてもない」
窓をから入ってくる光はほんの僅かな月光だけで、緊急でもないならこんな時間に起きる理由はない。
杏里ほどの能天気でパワフルな女に限って無いとは思うのだが――。
「……眠れないのか?」
「うーん、ある意味ではイエスね。 ちょっと顎クイして貰うの忘れてたなって思いだしちゃって」
「…………は?」
「顎クイよ、顎クイ! お昼にエルザちゃんにやってたやつ、お姉さんもして貰ったことないから後でやって貰うって約束だったでしょ?」
「そんなことで……というか約束なんてしたか? 少なくとも俺には承諾した記憶がないのだが」
「したした! したってー確かに、たぶん?めいびー?もしかしたら?」
「だんだん不確かになってきてるじゃないか……まあいい、アレなら大した手間ではない。
――これでいいか?」
これで満足したらすぐに寝かせて貰えるのならという思いで仰向けの体勢からクッと上を向いて考えに耽っていた風の杏里の顔をこちらに向ける。
なんとなく予想できるが、駄目だろうか……。
「……うーん、心の準備が出来る前のアプローチという点では悪くないわ……でもこう、もっと攻めっ気というか俺様感が足りないというか――そもそも体勢がNGね! 距離も遠いわ!」
「やっぱりダメか……サクッと寝直したかったのだが……しかし、攻めっ気?俺様感? どうしろと……」
意識外からのアプローチはそのままでいいとするなら……半覚醒の脳でダメだった点をロジカルに改善していく。
先ずは馬乗りになっている杏里をずらし、対面で座る形に修正する。
身長は遺憾ながら杏里の方が少し高いのだが、ペタンとした女の子座りで前傾姿勢の杏里なら俺が姿勢を正せば座高は上位に立てる。
あとは攻めいうのを意識して膝を立てて座ってみる。
後は意図せず杏里が俯くというか、下を向くタイミングと被せれば大体条件はクリア出来るだろうか。
「杏里、話は変わるのだが酔いはもう残っていないのか?」
「え? まあそうね。酔うのも覚めるのも早いから、今はもうバッチリシラフよ!」
「そうか、寝る前はまだ平常時よりはしゃいでる風だったからな」
「んー、アレは酔いのせいもちょっとはあるのかもしれないけど、殆どは新しく可愛い女の子が増えたぞー!やったーって気持ちでテンション上がっちゃってた感じかなー」
「なるほどな、しかし杏里はもっと慎重さというか落ち着きを持って行動してもいいんじゃないか?
実は起きていたとはいえ、俺が背負って連れてくるようなことになってしまったし」
「ぶぅー、何で急にお説教……」
「大体杏里は昔から要領や頭は良いくせに心配になることが多い。 常に俺が付いているわけではないからもっとしっかりと――」
「――やーもう、そんなこと聞きたくなーい!」
この辺りだろうか。
俺は目を閉じてイヤイヤする杏里の顎を掴み、グッと俺の方を向かせる。
拳一つ分くらいの距離で顔が近づく。
「ちゃんと目を見て話を聞け」
瞳に俺が映るくらいの距離感、杏里の瞳が一瞬泳ぎ――。
「あ、何だ……そういうこと……。
悪くない……悪くないけどもう一歩欲しいわね……」
そう言ってゆっくりと杏里の目が閉じていく。
いつのまにかシャツの胸元を掴まれていたようで、同時に引っ張られているのを感じる。
「なんだ、杏里も眠かったんじゃないか」
何だかんだでこの昨日は野宿だったし、やっと屋根のある場所で休めるということで急に意識が落ちてしまったのだろう。
俺は起こさないようにそっと杏里の膝裏と背中に手を回して抱きかかえると、揺らさないよう気をつけてエルザの眠るベッドに運んでいく。
エルザは寝相がいいようで、杏里が出てきたままであろうスペースにそのまま下ろし、捲れた掛け布団を首までしっかり掛けてやった。
もう寝言を言っているのかもにゃもにゃ口が動いているのが見えたがそっとしておく。
「おやすみ、杏里」
次の瞬間、ガバッと杏里がエルザに抱きついてエルザが寝苦しそうになるのを見えたが、心の中でご愁傷様とだけ呟いて何事もなかったように寝直すのだった。