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「フフフ。教えてくれませんか、ルゥさん。いったい私は、どこで間違えたんでしょうか?

 (はかりごと)は万事うまく進行していて、てっきりあなたたちこそが、迷える子羊だと決めつけていたんですがねぇ……」


 つややかな四方の鏡面は、

 鮮血の翼粘体スカーレット・スライムの非凡な偉力を、いくえにも射影している。


 闇色に明滅を繰りかえす粘液の体躯は、

 夜風にゆらめく外套のように、閑寂と波うっていた。


 炎天下の陽炎のごとく無色透明。

 解放されている魔力の波動は、いかめしい。

 虚しさはらむ空間の中央で、

 乱暴狼藉な威風へと変容して、吹き荒れていた。


 ひりつくような間接的な殺意は、

 ルゥの皮膚へと、

 ついばまれているかのような痛みを与えている。


 内側の存在意義が咆哮(ほうこう)する。

 猛り狂うのだ。

 種の根底たる生存本能が、内側で命令していたのだ。


 弱者の五体へと。

 矮小な心根へと。

 後退(あとずさ)れ。逃避するのだ、と。


 自然と生唾を飲みこんでしまう。

 ルゥの額には、脂汗が浮かんでは頬をつたっている。

 顎先からしたたっては、

 床の鏡面に、ちいさな水溜まりをつくっていた。


 しかしルゥは抗う。

 あくまでも、手向かうのだ。

 いまもなお、後退ろうとする足。

 すくみあがり固まる全身。骨身にしみる痛烈な痛み。

 そのすべてを真っ向から、

 一心不乱にも、

 脆弱なその身で受けて立とうとしていた。


 剥きだしのギザギザの歯牙。

 強烈な眼光をはなつ双眸のまま。

 妖異を見据えると口はひらかれた。


「誤想してはならないぞ」


 いつの間にか、

 全身の震えは消え失せていた。


 然りである。

 なぜならばルゥへと、

 とうに軍配は上がっているのだ。

 そしてこれを上回るほどの重圧を、

 慈悲深き波動を既知して、慣れていたのだから。


「端的に言って、貴様はなにも間違えてなどいないのだから」


「……それでは、どうして?」


「元来、僕も同様だったのだ。

 なればこそ、貴様の気持ちは透けてしまう。

 手に取るように理解できてしまうのだ。

 高をくくるのも、見下げ果ててしまうのもまあ、然りだ。

 詮なきこと、といえるのだろうな。

 なぜならば僕も貴様も、言うほど愚かではないだろう?

 その、はずだ。たんに比較対象を間違えただけ。

 普遍的に鑑みれば、僕たちはそこまで、滑稽な愚者たりえたわけではないのだから」


 スカーは反応を示さなかった。

 ルゥは、右手に掴むステッキ。

 そのグリップを手のひらで(もてあそ)びながらも、

 神妙な面持ちで言った。


「貴様は運が悪かった。

 そう、相手が悪かっただけ、なのだよ。

 決して相手取ってはならぬ妖魔の御前に、あろうことか、真正面で座すという偽体(ていたらく)なのだからな。

 それは負けるだろう。死ぬだろう。

 然り、だ。

 その瞬間に、貴様の命運は尽きていた。こうなることはもはや、運命(さだめ)だったのだ。

 あるいは、必然と言い換えてもいいのだろう。

 なぜならば類い稀な妖魔が、神算鬼謀の王がそう、さだめたのだぞ?

 そう、仕向けたのだぞ……?

 では、自明の理ではないか。まさに、灼然たるものといえよう。

 フッ。貴様は知らぬ間に操縦されていた。王の暗意に、背けなかったのだ。

 自身が思索して行動しているつもりが、背けぬ下命により、強制されていたのだよ」


 ルゥは皮肉めいた笑みを浮かべた。

 胸の前に左手を持ってくる。

 すると不規則にも怪しく、五指を挙動させた。

 さも、不可視のナニカを操作しているかのように。


「糸で操られるマリオネットのごとく、な」


 だが、渾身の嫌味は空をきった。

 スカーは余裕綽々を感じさせる声で言う。


「フフフ。あの変態野郎が王、ですか。

 これはこれは、おおきく出たものですねぇ。

 では、差し詰めルゥさんは神算鬼謀の王の、頭脳明晰な宰相。

 もしくは、燕尾服から連想するに執事、とかいかがでしょうか?」


「フッ。宰相に執事か。愉快なことを宣ってくれるではないか。

 だが、愚にもつかぬ世迷い言、などではないのだぞ?

 あのお方は、生まれついての王だ。僕は心の底から、信じているのだ。

 浮き世のたわけた風習、唾棄すべき(ルール)などねじ曲げて、王へと。

 どのような経緯を経ようとも、必ずしも至るのだ、と」


 半円状の瞳は、

 盲信に似た色を宿していた。

 たまらなく愉快だ。

 と、ルゥは笑みを隠せない。

 身ぶり手ぶりをまじえて力説していった。


「貴様は知らんのだ。

 隠れ家(ここ)にたどりつく以前の、狡猾にすぎる驚天動地な謀略の数々を、な……。

 だからこそ信じられない。夢物語だと鼻で笑ってしまうのだ……。

 これは、予言だ。

 だが、後の未来に起こる事象を語っているにすぎない。

 ……獲るのだ、ぞ?

 泣く子も黙る、南密林エリア(スパイン・ジャングル)を。

 その手中におさめるのは火を見るよりもあきらか。

 アンリ様は、王なるべくして王になる、希代の器であるのだから」


「まさか、ルゥさんに、そこまで言わしめるとは……。

 これはこれは、大変なお方にケンカを売ってしまったようですねぇ。

 戦闘能力も抜群でいて、なおかつ、神算鬼謀の頭脳を持っている。

 そして、種族は伝説上にだけ記される、闇の妖精族(ダークエルフ)、ですか。

 それならばつまり彼は、数百年前に現れたとされる、忌み子の王の再来、といったところでしょうか?」


 禁忌の象徴。大災厄(ディザスター)

 ……忌み子の王。


 なんという。

 なんという、痛快な科白なのだろうか。

 とルゥは息を荒くしていた。

 身を支配するかのような熱量。滾りを抑えられなかったのだ。


「ほんとうにめんどうですねぇ。

 あなたも、彼も。

 ……思い返せば、心当たりはあるんですよ。

 出会った当初から、彼は私を怒らせつづけていた。

 ルゥさんは私の(がわ)へ立ち、ともに糾弾しながらも、仲良くなろうと画策していたんですねぇ。

 おそらく、(はかりごと)のはじまりはそこ。

 私の目的を調べるためだけに、お二人が仲違いしているように見せかけていた、ですか?

 ですが騙されていた私にも、感づくためのヒント。

 後戻りできる分岐点は残されていたんですねぇ。

 それは、彼の執拗なまでの行動。

 私とルゥさんを、やっきになって二人きりにしようとしていた。

 そこに感づけられれば……。

 ……ですが、たとえ気づけたとしても無意味、ですか。

 フフフ。あそこまでのさりげない誘導、演技力のまえでは厳しい。

 私ごときの頭脳では、不合理に近いともいえますからねぇ」


 翼粘体(コイツ)め……。

 頭脳のほうもやるではないか。

 まことに癪にさわる、小賢しいスライムだ。


 と、ルゥは内心で焦慮していた。

 だが表面上では、満足げにうなずいてみせる。

 遺憾の意など、みじんも感じさせぬ所作で陳謝した。


「済まないな。許してくれ。

 僕も貴様をいささか、蔑みすぎていたようなのだ」


「いえいえ。誉め言葉ですよ、それは。

 ほんとうに、恐悦至極にございますねぇ」


「むろん、貴様の想察のとおりだ。

 しかしこころやましいが、僕も全容を把握しているわけではないのだよ。

 合議などなしに、急性的に始動された目論見なのだからな。

 しかれども、僕にも想起できることはある。

 それは脆弱な僕は囮であり、貴様の奥深き心胆を、本懐を推し量るための一駒という真実。

 そして何十手先をも見通した、未来を先読む慧眼から導かれた布石なのだよ。

 ……すなわち」


 ふいに言葉を切った。

 読み取れない感情。

 浮遊する、翼の生えたオーブは沈黙したままである。

 そこへとルゥの、

 憐憫の眼差しが突き刺さっているかのようだった。


 眼前に比類なき妖異。

 確たる敵手が顕在しているというのに、ルゥは目を閉じる。


 一拍ののち、ゆるりと開くと、

 左手をおうような仕草で前方に出した。

 緩慢にゆり動く五指。とがった爪先。

 それはまるで、荒波でも表現しているかのようだった。


「いましがた、貴様の目論見は哀れにも、曝され呑まれ、流されたのだよ。

 アンリ様という名の、前古未曾有の大波に、な」


 ルゥの蔑視(べっし)じみた所作。

 侮蔑の感情を張りつけた口許は、

 スカーの感情を逆撫でするにいたったのだろうか。


 反響する声が消え失せていく。

 時間が制止したかのように錯覚した、瞬間だった。


 静黙を保ったままだった妖異。

 不穏なる闇色の明滅が、

 より濃度を高めてきらめくと、照射されたのであった。


 体躯。円に覆われる内容物。

 ナニカが落下したかのよう。

 超強酸の流動体は、

 飛沫を上げつつも、体内の壁面に飛び散った。


 鮮血じみた粘液は、

 円球を深紅に染めあげている。

 慣性にしたがい、ドロリと這いずり落ちていった。


 突如、声が発せられた。

 もの静かだが、いやにクリアでおぞましくもあった。


「吠えるなよ、ゴブリン風情が」


 吐き捨てるような口舌を合図に、

 周囲には陣風が生じていた。


 ルゥの短めの頭髪がさらわれる。

 明快なまでの殺意の風。

 突風は、強烈な吐き気までもをもよおわせていた。


 かろうじて、

 ルゥは立ちつづけている。

 息も絶え絶えとした様相だが、

 挑発的なうすい笑みは、張りつけつづけられていた。


 それこそが、ルゥにできうる精一杯の抵抗であり、

 強がりでもあった。


「ルゥさん。さきに、言っておきましょうか。

 私は、忍耐づよくはない、と。

 ですから、軽口なんてたたかないほうが身のためですよ。

 なにかの拍子で、なにかの手違いで、あなたを溶かしてしまうかもしれないんですからねぇ。

 フフフ。ですが、ルゥさんが図にのっていられるのも理解できます。

 たしかに薄氷のうえ、なんですから。いまの私を取り巻く現状というものは……」


 のこる余韻は、

 剣呑な気配をただよわせていた。


 吹き荒れる風に対抗して、

 ルゥは脚部へと力を入れつづけている。


 そのようなおり、

 スカーは一語一語、子供に言って聞かせるように話した。


「フフフ。そ、れ、な、ら、ば」


 前触れもなく、

 吹きすさぶ暴風が消散したすえであった。


 銀鏡の一室に、

 深紅の強烈な輝きがほとばしる。

 ルゥの視界全体を遮蔽したのであった。


 そのような閃光の原因。

 球状の体躯は、不安定な稲光がはしっている。

 猛烈な速度で回転し、

 轟音をともなって震動していた。


 やがてグネグネと、

 うごめきながらも、引き伸ばされて押し潰された。


 そのような工程をたとえるのならば、

 粘土をこねまわして、泥人形でも創作しているかのようだ。

 じょじょに体積は、

 周囲の空気を取りこむかのように肥大していった。


 そして、出現させてしまった。

 憐れな子羊と化したルゥは、

 触れてはいけないものに触れたのだ。

 安穏とした常世へと、

 その姿形を顕現させてしまったのであった。


 鮮血の翼粘体スカーレット・スライムの本性。本体。

 それはあられもない人型を模していて、

 純然たる比類なき妖異。


 そして、

 現世に存在してはならないほどに図抜けた、

 至大な領域に棲まう粘体(スライム)であり、無垢な少女でもあった。


 百六十センチほどの身長。

 衣服などは身につけてはいない。生まれたままの出で立ちであった。


 キメ細やかな皮膚はぬけるように白く、しなやか。

 均整のとれたスタイルは、グラマラスな女神の彫像のようであった。


 膨大な毛量の深紅の頭髪は、

 顔にも身体にもカーテンをかけているかのよう。

 ゆるくウェーブがかっており、膝付近まで伸びていた。


 もちろん、

 すべてが亜人種というわけではない。

 種族の残骸は残存していた。


 背には漆黒。おおきな蝙蝠の二翼。

 おびただしき髪の毛は、

 根本から先端に向かうにつれて、一寸きざみに透きとおっていた。


 亜人種に類似してはいるが、違う。

 周知して喧伝しているのだ。

 彼女は、まがうことなきモンスターであるのだと。


 ふいに二翼がはためく。

 すると瞬間、つむじ風が発生した。

 顔をおおい隠す深紅の前髪が、

 ふわりと両サイドへとさらわれる。

 そして、全貌があらわとなった。


 まるで、紅玉(ルビー)をほうふつとさせる瞳。

 それは穏やかな色彩を放ち、かすかに湿っていた。


 いやみのない高い鼻筋。

 あでやかなこぶりな唇。

 きわめつきは、たわわに実りすぎた胸郭である。

 まさに巨大と形容せずにはいられぬ、

 ある種の至宝と呼称しても差しつかえなどなかった。


 説得力のある至宝。

 その真上の皮膚には、ひし形が半透明で縁どられている。

 優美高妙なる、淑女然としたたたずまいであった。

 けれどもあどけなさも残っている。

 天真爛漫な少女の名残が包含されていた。


 ルゥは震えおののいている。

 もはや、立っているのさえも精一杯の有り様であった。


 彼女には聞こえていたのだ。

 見えていたのだ。

 うす暗闇から、自身へと忍びよる死の足音が。

 死神の外形が。鋭利な大鎌のまぼろしが。


 然りである。

 鮮血の翼粘体スカーレット・スライムは、あるまじき真実を教示していたのだ。

 身が焼かれている。

 と錯覚してしまうほどに、ルゥへと示唆していたのだから。


 邪気の感じられぬ、みやびやかな微笑み。

 スカーはたおやかな動作により、

 口に手を当てると言った。

 友達に、たあいもない世間話でもしているかのような声で。


「……ルゥさん。時間を取らせてしまい、失礼しました。

 外形変換(フォーム・チェンジ)。これは久しぶりに使用した、私の切り札なんです。

 下品、だと思いますか?

 ……フフフ。ええ、ええ。ですが私も、なりふり構ってはいられなかったんですよぉ。

 亜人形態(こちら)のほうが、保有魔力量も攻撃性能も、飛躍的に上昇をとげるんですよねぇ。

 それでは、頭脳明晰なルゥさんに問題です。

 その意味、わかりますよね? 感じ取れて、いますよねぇ?」


 あでやかな微笑みは刃物のよう。

 ルゥの心奥をたやすくえぐり取る。

 脳裏が白んでいった。


 単純明快である。

 そう、知覚してしまったのだ。

 眼前の妖異は、

 アンリ様の保有魔力量すらもを上回っているのだ、と。


 優勝劣敗の法則は曲げられない。

 ルゥの想定は、観念は違ってなどいないのだ。

 ほんのすこしの隔たりが曲者であり、

 それは大地の裂け目と似ている。

 自身で実感してしまったのだ。痛烈に痛感してしまったのである。


 間接的な暴力は無慈悲だ。

 凶悪なる魔力の波動は、ルゥの全身をつつみこむ。

 すこしずつゆっくりと、削ぎおとしてでもいるかのよう。


 震えおののくのも当然。

 脳が白みゆくのも自明の理だった。

 盲信していた後ろ楯はいましがた、

 愚にもつかぬ張りぼてと化してしまったのだから。


 そのような様子を見てとって、

 スカーは愉快そうに笑う。

 目許はらんらんと、愉悦の色に染まっていた。


「これはこれは、ルゥさん。ぐあいでも悪いんですかぁ?

 さっきまでの威勢の良さは、どこにいっちゃったんですかねぇ?」


 アンリとの邂逅時と同様だった。

 ルゥの焦げ茶色の瞳は、ゆれてにじむ。

 噛み合わせていた歯牙は、ガチガチと音を立てていた。


 膝が笑ってしまう。

 右手から力がなくなり、

 ステッキが床へと落ちた。

 小気味のいい音を立てて、床を転がっていく。


 全身から力が抜けた。

 無様にも腰から落ちてしまう。

 へっぴり腰の体勢のままに、

 死神(スカー)をただ、慈悲を乞うように目していた。


 怜悧なる頭脳が輝きを失っていく。

 モノクロに切り替わる視界。

 壊れかけた世界に、侵食されていく心奥。

 それらはすべからく、

 ルゥの目には異様にきれいに映りこんでいた。


 ……そう、か。

 なんの因果か。

 僥倖に邂逅して、一日と幾許かは生きていられた。


 しかし僕は、死ぬ運命(さだめ)だったのだろう。

 唾棄すべき人生を手放して、

 黄泉の国へと旅立つ時期にきていたのだ。

 ……そう、だ。そうに、違いない、のだ。


 どのようにあがいても無力。

 光明など見えぬ、絶望的な差異。

 比類なかったはずの大妖魔(アンリ)の、想定外な敗北。


 受け入れがたい事実は、

 あるまじき真実は、ルゥの人格を破壊していった。


 おもむろに上半身を起こす。

 死という一種の救いを求めて、

 震える右手はスカーへと差しだされた。

 スカーは意図が掴めなかったのか。

 ほがらかな面持ちで、ゆるやかに小首をかしげた。


 しかし、終幕とはならない。

 ルゥの凄惨な死を、運命は望まなかったのだ。


 スカーに触れるか。

 触れないかの瞬間だった。


 こきざみに震えていた右手が、

 とたんに、ピタリと制止したのであった。


 突如として、怜悧なる頭脳が再生していく。

 熱を生みはじめる。

 白んでいた世界はやがて、あざやかな色彩で塗られはじめた。


 すんでのところだった。

 ルゥは卒然と感じとったのだ。

 暖かくて、至大なる魔力の波動を。

 おごそかにも、

 隣室から絶えず放たれつづけている、愛おしさすら感じる勢威を。


 まるで、そっと寄り添うように。

 壊れかけていたルゥの心根を、

 正常化し、優しく回帰させたのであった。


 そう、だ。僕は忘失していた。

 アンリ様だ。アンリ様はどうして微動だにしていない。

 どうして、逃避していないのだ。


 想起、しているはずだ。

 理解しているはずだ、貴方でもコイツには……。


 まさか、僕、か?

 慈悲深くも、僕の存在が足枷と化してしまっているのか?

 しかし、それは許されない。

 貴方は王になる器なのだ。

 塵にひとしき、無力な僕など差しおいて……。


 いや、違う。異なっている。

 僕のか細い常識に乗っ取り、断定してはならないのだ。

 ……ならば、なにかあるというのだろうか。

 この最悪の状況をくつがえしうる方策が。光明(ナニカ)が。


 も、もしや、抑止力、か。

 正体不明のアンリ様の存在こそが、

 コイツへの抑止力となりえているとでもいうのか?


 そう、か。然りではないか。

 そうだと仮定するのならば……。

 コイツは僕を。僕を、殺せなくなるのだから。


 あるいはまことに、

 お力を隠匿しているという蓋然性もあるが……。

 しかしどちらにせよ、だ。

 現下として、僕の為すべきことはひとつなのだよ……。


 伸ばされていたままの右手。

 勢いよく引く。力強く握りこんだ。

 ゆっくりと立ち上がる。

 燕尾服の(そで)で目許をぬぐう。

 心からの嘲りの笑みを浮かべつつも、スカーを見据えた。


 そうだ。信じるのだ。

 ただ僕は信じて、助力していればいいだけなのだから。


 僕の常識で推し量ってはならない。

 照らしあわせてもならない。

 かならず、神算鬼謀の王は打開するのだ。

 彼のお方にとっては想定内。

 この薄氷を踏んでいるような窮地も、予定調和にすぎないのだから。


 なればこそ、だ。

 僕がそれを察しているかなど詮なきこと。

 現下においての僕の仕事はひとつだった。

 それは、コイツを(かどわ)かす。

 誤想させることに、ほかならなかったのだから。


 想定外の反応だったのだろう。

 スカーは目をほそめる。不満げに軽口をたたいた。


「おやおや、ルゥさん。

 もしや、狂ってでもしまったんですかねぇ?」


「いいや、違うな。

 僕は決して狂ってなどいないぞ。

 まあ正確には、狂いそうにはなっていたが、な」


 ルゥは自嘲ぎみに笑う。


「それならば、どうして……。

 頭脳明晰なルゥさん。あなたであるのならば、とうに理解しているはずでしょう?

 たしかに、それはほんの少しの差。

 ですがそのへだたりは、絶対にくつがえすことのできない歴然の差となる、と。

 そしていまの私は、彼よりも少しだけ上の境地に立っているんだ、と」


 当然の帰結であった。

 無実なる隠れ家(ブラン・カシェット)の管理人。

 今現在の最上位者たるスカーは、ほがらかな笑みを浮かべた。


 しかしルゥは我関せず。

 腰を曲げると、落ちていたステッキをひろった。

 上げられた顔には、意味ありげな嘲笑が張りつけられていた。


「滑稽、だな」


「はい?」


「滑稽だな、と言ったのだよ。

 たしかこうだった、よな?

 スカーは亜人語を話しているんですが、疎通は取れていますか?」


 じつに不格好な声真似である。

 それは三者の邂逅時に、

 スカーがアンリへと言った台詞であった。


 歯に衣着せぬもの言い。

 あきらかな挑発の声に、

 流麗なる少女は激昂したのか。

 とてつもなき形相をあらわにすると、怒声をあげた。


「ああ……! ぶち溶かすぞ!! 雑魚がぁ!!」


 ルゥは柳のように受け流す。

 それはまるで彼の王。

 アンリをほうふつとさせる、能面のような表情であった。


 おもむろに、

 人差し指を一本だけ立たして見せつける。

 つかの間のすえだった。

 いっさいの説明のつかぬ振る舞い。

 自信に満ち満ちた容貌のままに、

 ルゥは声高らかに詐称した。


「いまもって、アンリ様は微動だにしてはいない。

 ん? なぜだ? どうして一目散に逃避せんのだ?

 うむ、そうだな。それこそ少々の思慮で十分。まさに灼然たるもの。

 つまりは、な。

 アンリ様も持ち得ていたのだよ。貴様の言うところの、外形変換(フォーム・チェンジ)を、な」

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