鮮血の翼粘体
衣装室は広々としていた。
ガラスをふんだんに使用し、
装飾された花びら型のシャンデリアが、天井から吊りさげられている。
室内を煌々と照りかえしていた。
壁面も天井も、
見渡すかぎりすべてが鏡ばり。
ほかに家具は置かれていない。
明かりを乱反射する空虚な空間は、異色をはなっていた。
ルゥは梅の香りを嗅ぎながらも、
染みいるようなうす気味の悪さを感じていた。
「さあさあ変態野郎、こっちですよー! ここまで来てしまえばこっちのものですっ!」
「……息づく矜持がさぁ」
「聞こえませーん。スカーはなにも聞こえてはいませーん!」
「ええー……」
最奥部にて、
等間隔にならんでいる二枚の見慣れた扉。
そのさきが、目当ての場所なのだろうか。
スカーは、こぶりな翼をはためかせている。
言語道断とまっしぐらだ。
体躯は、あざやかな赤色の明滅を繰りかえしている。
断固とした否決をあらわしていた。
ひとえに、往生際の悪い男である。
アンリは罵倒をうけて、
うら悲しげな面持ちで肩を落としていた。
ルゥはというと、我関せずだ。
周囲に、訝りの視線をはわせている。
口を真一文字に引き締めつつも、内心でひとりごちる。
奇々怪々なる、
無実なる隠れ家とは一体。
考えれば考えるほど深みにはまりゆく、
底なし沼のようだ。
皆目、見当もつかないのだ。
目的も。意図も。所在地も。
僕たちを招きいれるにたる、
もしくは、招きいれなければならぬ事由があるのかさえも……。
知覚から得られる情報は、僅少にすぎていた。
さしあたって僕は、
いずこの地を踏みしめているのだろうか。
たける懐疑心が、
うるさいほどに騒いでいるのだよ。
隠れ家は一体、
どこのエリアに建築されているのか、と。
南密林エリアなのか。
それとも、大森林内部のどこかなのか。
じつに不明にすぎる。
だが、摩訶不思議な扉をもちいた転移魔法により、
見知らぬ異国へと飛ばされたわけではないのだろうな。
その事由はしごく簡単だった。
たんに甘くないのだよ。
冥界たりうる、大森林からの脱出は。
暮夜のたびに、
上空へと展開されている、正体不明の魔力の波動。
それが転移魔法など、
いとも簡単にかき消してしまうのだから。
そして謎が謎を呼ぶ固有名詞。
リオ様なる存在とは一体……。
把握していることはわずかだった。
無実なる隠れ家を創造したが、
現下ではその姿を隠しているという情報のみ。
だが、ある種の推測は可能なのだ。
僕の導きだした答えは、至大なる化け物。
他の追随を許さぬ具眼の士。
であるという、
単純明快なことこの上なき一点だった。
然り、だ。
そのような強者でもなければ、
地獄で命脈を難なく保ち、
ものを創造せしめることなど不可能なのだから。
何の因果か。
裏づける事実を僕は探りあてていたのだよ。
それは僕の智覚に、
感度のいちじるしき変化に起因していた。
じつに不可解ではある。
あるのだが、スコールにずぶ濡れにされてからというもの、
妙に感覚が敏感というか、
研ぎ澄まされているのを実感していたのだよ。
それは明らかな差、だった。
以前の僕には並外れた魔力の差異。
強弱などは推し量れなかった。理解すらもできなかった。
しかし今は、くっきりと。
明確に感知できているのだ。
アンリ様のとてつもなき勢威のほどを。
まるで天を衝かんとするようなまでの、高貴なる偉力のほどを。
まことに尋常ではなかった。
とほうもなき尋常のなさが、
いまの僕には細部にいたるまで、
鮮明に把握することができているのだから……。
アンリ様とは比べるべくもない。
が、僕も日々、成長しているのだろうか。
強く、なっているのだろうか。
そして、その飛躍的な成長。
進化じみた要因は、言わずもがなだった。
わかりきっている。
わかりきっているではないか。
僥倖。慈悲の光。
それは狂暴でいて暖かく、
つつみこむような魔力の波動に相違などない。
ありがたくも、僕は与えつづけられていたのだよ。
なればこその、必然の成長といえるのだろう。
目前にて、
重力に逆らい浮遊する妖異。
鮮血の翼粘体。
端的に言って、この粘体は猛者だ。
まがまがしき魔力の波動が、
そのちいさな肉塊に流れる血潮に内包されて、
かすかに溢れでていた。
格上、だ。わかってしまうのだよ。
密林の覇者よりも、
ソーン川の殺戮者よりも、
彼女のほうが数段、優れているという事実が。
だが不幸中の幸いだ。
アンリ様とは比べられない。劣っているのだよ。
それは微細。ほんの少しだけの隔たりだった。
なれど、現下の僕ならばわかる。
その、ほんの少しが曲者なのだ。
その微差は圧倒的なのだよ。
喩えるのならば、
やすやすと飛び越えられはしない、大地の裂け目と似ていた。
なればこそだ。
このお方の領域に足を踏みいれたいのならば、
必死の覚悟で臨まなければならない。
だが、しかしだ。
このような超凡な化生に、
ああも慕われている超越者。
リオという者はいかほどのものか。
どれほどの境地に、足を踏みいれているのだろうか。
まあ、そうだな。
もしかしたら、
リオなどという者は元から存在せず、
スライムの謀りの虚言という蓋然性もあった。
だが疑念を拭えない。
心より信じてはいるのだが、
ただただ竦んでしまうのだよ。
もしもリオはアンリ様を、
神域を超えていくほどの化生であり、
僕たちへと、虎視眈々と的を絞っているのだとしたら。
「あっ、いま、逃げようとしましたねっ!
スカーの知覚範囲はひろいんですよ!
あなたが一瞬、振りかえろうとしていたのを見逃してはいませんよー!」
「スカー。きみは思い違いをしている。すこしばかり、用をたそ」
「嘘つきです! 嘘に決まっています!
スカーは騙されませんよ。
やっぱり、変態で性格破綻で露出狂の嘘つき野郎です!
キィ! あと、スカーと呼ばないでください!」
罵詈雑言を吐きつづけるスカーに、
露出狂の嘘つき野郎。
うち震えている様子のルゥと、
まさに混沌な三者三様であった。
かん高くも鳴りやまぬ喧騒のなか、
釣りだしているのだよ、いまもなおも。
とルゥは隠れてほくそ笑んだ。
そう、
彼女は事細かに了知しているのだ。解明しきっていたのだ。
アンリの比類なき頭脳から弾きだされた、
闇に潜むように隠秘されている謀略を。
うむ。
アンリ様の類い稀なる策謀。
それを説明するには耳慣れない種族。
とうとつにも姿形をていした、
鮮血の翼粘体に触れなければならなかった。
自明なことにだ。
僕は当初から、彼女をみじんも信用してはいなかった。
当然だ。然りではないか。
奪わせない。決して、僕の心は奪えやしないのだよ。
なぜならば、
血をわけた双子の実妹も。
実父でさえもを、僕は信認したことなどないのだから。
まあ、うむ。
刻下としては亡き母上とアンリ様。
という二人の例外をのぞいて、ではあるが。
それはそれは、情け深き口舌だったのだよ。
未来永劫として、宿泊してもかまわない。
ようするに無償でいて、
危難に遇わぬ安泰なる棲家を、
コイツは提供すると提唱していたのだから、な。
フッ。まやかし。
そのような戯れ事が、
よもやこの魔境で適用されるはずがないのだよ。
浮き世でさえ過酷なのだぞ?
耽美なる虚言には裏があるもの。
しごく当然ではないか。
厭忌に満ちた過去を、
僕は身を持って体験してきているのだから。
まったく、奇っ怪にすぎる。
どうなっているのだ。確率がおかしいではないか。
アンリ様でも、
すぐには信用できなかったのにもかかわらず、
次の日には、無償の慈悲がもうひとつだと……?
ほぼ同時刻に今度は、
スライムが僕を救ってくれるというのだから、な。
フッ。苦笑せざるをえんな。
……そのような蓋然率があるか!
おかしいではないか!
みな、すべからく死にゆく魔境で!
どうして僕ばかりに! 幸運が! 僥倖がおとずれつづけるのだ!
そして、それは正解しているのだ。
アンリ様の一挙手一投足が、
如実に物語っていたのだから。
それは螺旋階段の方向から、
スライムが出現する直前のことだった。
とてつもなき威圧により、
僕はただただ気圧されていた。
まるで、喉を素手で掴まれているかのよう。
そのような緊迫のなか、
アンリ様は眼光するどくも、
深刻な面持ちのままに言ったのだよ。
このままではいけない。ぬ、と。
途切れてしまったその科白。口舌が、
なにを指そうとしていたのかなど明々白々。自明の理。
強敵たりうる、
鮮血の翼粘体の出現を感知していたからだろう。
そしてこれこそが、
まことに震天駭地と言えよう。
あのアンリ様が、
悠々と常識の枠組みの外をあゆむ大妖魔が、
眉間にシワを寄せてまでの危惧をしたのだから……。
大猿も鰐も、
酷悪たる大森林さえもを、
悉く歯牙にかけなかったお方が身構えたのだよ……。
それは、鮮血の翼粘体か。
謎多き、リオなる者か。
どちらにせよだ。
ようするに、
臨戦態勢をとらなければならぬ対者がいる。
という、証左にほかならなかったのだよ。
ついぞ、声には出せなかった言葉。
ぬ、からはじまるワード。
瞬時に、僕は紐解けていた。
「このままではいけない。だが、臆するな。抜かりはない」
そう、暗唱していたのだよ……。
つまりは。
「ルゥ。臆するな。
どのような強敵が現れようとも、俺はお前を守りきる」
慈悲に満ち満ちた、
雄壮さあふれる科白は、
夢物語に登場する騎士のごとし。
そしてアンリ様には、
未来を先読む賢者には、
後退の二文字などなかったのだよ。
なればこそだった。
アンリ様は即座に転じる。
瞬刻も、相手に考える隙など与えなかった。
まことに驚嘆すべきことにだ。
偶然さえもを、
計謀に組みこむ頭脳。
その柔軟さは常軌を逸していた。
むろんのこと、それは全裸だ。
いまやもう、このための全裸だったのか。
とさえ誤想してしまいそうになるが。
ちくいち、
裸を武器とし煽る、煽る。
怒濤の勢いにより、
スライムを衝き動かさんと嘲ったのだよ。
それはまるで、
フィッシングに似ていた。
アンリ様という餌に食いつき、
滑稽にも釣りだされたスライムを、
意図的に激昂させつづけていたのだから。
激怒させている理由は明晰だった。
心奥の根本。人格。
本性というものは、
いくら仮面を張りつけようとも、
激情により顕になってしまうものである。
とアンリ様が、息を吸うように解していたからだった。
そう、つまりは、
奴の心胆を探っていたのだよ。
敵にまわるのか。
もしくは、味方となりうるのかを。
開いた口が塞がらない。
とはこのことだろうか。
なぜならばアンリ様は、
さらなる勢力の拡大を狙っていたのだ。
強力なる粘体。
飼い慣らせそうにもない妖異さえもを、
その手に、軍門へと降らせようとしていたのだから。
然りではないか。
思い返せば、
隻眼の大猿に対してもそう。餌付けをしようとしていたのだから。
やはり、勢力の拡大を狙っている。
泣く子も黙る南密林エリアを、
手中に納めようとしているのは明々白々だった。
なればこそ、だ。
僕は返す刀により、計謀に呼応したのだ。
その役目はひとつ。飴と鞭の役割にほかならない。
アンリ様が鞭を担うのならば、
僕は飴。
その役割は自明と言えよう。
スライムと、親交を深めることに相違などなかった。
いささか、
多少の本音は混在してはいた。
だが、それが良いスパイスとなったのか。
共感という概念が背中を押して、
スライムはこちらへと心を開きつつあった。
そしてこれは、
まがうことなき共同作業と言えよう……。
初めてだったのだ、僕は。
ただ守られる塵でしかない僕が、アンリ様のお役に立てているのだ……。
こんなに、嬉しいことは、なかった……。
ひとえに、
ルゥは滾りに滾ってしまう。
その震える瞳は、
多大なる奉謝の念とともに、
アンリの隙だらけな背中を映しだしていた。
ようやく、最奥の扉の前につく。
三者が立ち止まった瞬間だった。
壁面の鏡に映るルゥの姿を、
アンリがまじまじと見つめていたのである。
さりげのない視線に、
ルゥが気づいた一瞬であった。
ニヤリと、アンリは口角を吊りあげたのだ。
サイン。
なんらかのアイコンタクト。
そのように理解したルゥは驚く。
ちいさな声がもれそうになったが、
なんなく平静をよそおった。
なにかを仕組むのか。
一体、どのような奇術で本性をあぶりだすのだろうか。
とルゥは思う。
そのようなさなか、
スカーは高らかに宣言した。
「さあさあ、この扉のさきですよ!
ルゥさんと、底が見えない変態野郎の衣服があるのはー!」
衣装室に響く甘々な声音。
さきんじて、アンリは動く。
なに食わぬ顔のままにつぶやいた。
「見るからに、扉は二枚あるようだけどひとりずつ入るのかい?」
「ええ、ええ、それはそうです。
おふたりともまとめてでも構わないんですが、せっかく二枚あるんですから! 右がルゥさん、左が変態野郎としましょうかっ!」
アンリはルゥへと振り向く。
ふいに笑みをこぼした。
その笑みが、
ルゥにはどこか愉しげな嘲笑に見えていた。
「すまないな、ルゥ。
ほんとうは一緒にいたいんだけど、離れることになってしまうみたいだ。
だけど安心してくれ。
スカーに着いていってもらうからね。良いかな?」
「それはかまいませんけど。
きちんと着替えをして来ないと、あとかたもなく溶かしますからね!」
「ありがとう、スカー。
そのほうがルゥも安心だろう」
すまない、とは一体。
ぼ、僕もともにはいたいが、
異性同士なのだから当然ではないか。
それならばそこには、
なんらかの深き趣意が隠されているのは明々白々。
その時だった。
ルゥの身体中に電流が走りぬけたのである。
ハッとした顔になると、
アンリの横顔に釘づけとなった。
ぼ、僕を囮として、
翻意をあぶりださんとしている、のか?
アンリ様は強い。
然りだ。そこに議論の余地は、はさめないのだから。
そうだ。
スライムが、
敵対者だと断定してみればよく理解できるのだよ。
殺されるとわかっているのにもかかわらず、
上位者に手をかけんとするバカがいるか。
しかし、それでは翻意を嗅ぎとろうなど夢のまた夢。
だが、僕ならば倒せる。
スライムの力を持ってすれば、片手間で殺せるのだ。
まさに諸刃の剣というべき計謀だ。
奴を僕と二人きりにすることにより、
その奥深き心胆を推しはかろうとしているのだから。
なんという狡猾さ、なのだろうか。
だがそれでは、僕が危険にさらされる可能性がある。
それに対してのすまない、との台詞なのだろう。
しかし、そのような道理はない。
貴方に僕は、尊き生をもらった。多大なる恩恵を受けた。
思索する蓋然性など、はなからないのだ。
貴方が行けと命令するのならば、
僕は地の果てにだって向かう所存なのだから。
一世一代。やり遂げて見せる。
とルゥの瞳に気迫がこもる。
そのようなおり、スカーが言った。
「ですが、そうですねー。
まずは、仕組みを説明しなければいけませんし。
はじめは同じ部屋に、みんなでいっしょに入りましょうか!」
ルゥは転けそうになった。