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怜悧なるゴブリン

 先刻の一波乱からは、様変わりしている。

 ガルディード大森林の夜更けは、幽寂としはじめていた。


 周囲を取りかこむように、

 屹立(きつりつ)している木々のあいだ。砂地。

 ぽっかりと開けていた中央には、火がたかれている。

 あたりには、枝葉の焼けこげる匂いがただよっていた。


 くすぶるたき火の前に、

 アンリは手ごろな岩を用意すると、腰かけていた。


 身に染みる暖かさからか。

 アンリは目を細めている。

 しきりに、燃えカスを木の枝でつっついていた。


 ゆらりと、煙りは立ちのぼる。

 上空にて、

 面妖なる魔力の波動にはばまれて、かき消えた。


 ここでひとつ。

 単刀直入に言おうではないか。


 あまりにも、

 非常識にすぎた光景。行為である、と。


 なぜならばここは、大森林。

 イングリード島においての終焉の代名詞。

 なみ外れた悪鬼羅刹どもが住まう、今生の魔境なのだから。


 なればこそである。

 このようなアンリの行動はもはや、狂気の沙汰と言えよう。

 とち狂った、自殺行為にほかならなかった。


 言わずもがなである。

 このような所業は、血に飢えたモンスターたちに対して。


「だれか見つけてくれー。SOS」


 などと叫んでいるようなもの。

 居場所を知らせるシグナルを。

 狼煙を上げているがごとき状況だったのだから。


 摩訶不思議な邂逅(かいこう)を果たした、もう一方。

 褐色のゴブリンはというと、すこしばかり距離を取っている。

 胸中は、暗澹(あんたん)たる思いでいっぱいであった。


 ごらんのとおりである。

 そう、このゴブリンは愚かではなかった。

 顔に似合わずひどく聡明なのだ。

 たぶんに、怜悧(れいり)なる気質を包含していたのだから。


 だからこそ、このような蛮行。

 気狂いじみた行為には、賛同しかねる。

 同調など、もってのほかなのであった。


 それを為せるという者はイカれた狂人か。

 ただたんに大馬鹿者なのか。

 はたまた、とほうもなき忠義心からなのか。


 どのようにせよ、

 このゴブリンには、とうてい当てはまらなかった。


 目前の愚者然としきった大妖魔(アンリ)

 少年を凝視しつつも、

 いつでも逃避できるようにと、

 ゴブリンは立ったままで、心のなかで独りごちた。


 この眼前の亜人種。

 超凡なる妖魔は一体、何者なのだろうか……。

 いや、知っている。

 知識としてならば認識していた。教示はされていたのだよ。


 アンリと呼べと、

 おだやかに(のたま)った男の、種族だけは。


 闇の妖精族(ダークエルフ)

 それはいわゆる、禁忌の象徴だ。


 はるか昔に、

 淘汰(とうた)されて、根絶していたはずの種族であり、

 がんらい、陳腐なお伽話(とぎばなし)のなかにだけ、登場する化生だった。


 ひるがえって、

 僕は普遍的な聖の妖精族(エルフ)

 そのような存在に、遭遇したことなどなかった。


 が、しかしだ。

 初雪のように真っ白な皮膚に、

 銀色の頭髪を有していると、認知してはいたのだが。


 そうであるのならば、話は明瞭。

 そのような解になる。答えに、なってしまうではないか。


 異色めいた褐色の皮膚に。

 闇夜を凝縮したかのような頭髪。


 その要素から(かんが)みるに、

 目先の妖魔はすなわち、大災厄(ディザスター)

 そのような、物騒な二つ名を冠するだけの悪鬼であり、

 熾烈なる大妖魔にほかならない。

 という、ゆるぎのなき真相に……。


 ゴブリンは戦慄してしまう。

 ならびに、釘づけとなるのも自明の理であった。


 伝説上の影が、眼前にいるのだ。

 昔話にて、語られている姿形。

 在りし日に繁栄し栄華し、

 近隣諸国に対して、暴虐のかぎりを尽くした。

 と、叙述されている大災厄(ディザスター)が。


 怖い。もの恐ろしい。

 そのようなたあいもない情感は、とうに越えていた。

 畏怖めいた感慨すらもを、もよおしてしまう。


 いまだに……。

 身震いが止められない。

 想起するだけで、錯乱してしまいそうになるのだ……。


 いまだ間もない戦慄の情景は、

 僕の脳裏へと、鮮明に焼きついていたのだから。


 (たと)えるのならば、

 虫けらを見やるかのごとく。

 その妖魔の眼光は冷たくも鋭利。

 わずかな、感情の色すらもが抜け落ちていた。


 あまつさえ、

 至大なる魔力の波動は、絡みつくかのようだった。

 僕の四肢にまとわりつくと、

 否応もなく、動作を抑制しつづけていたのだから。


 そしてさらに、

 驚嘆すべきことに、

 僕は視認していた。見舞われていたのだった。


 それは、稲光の怒りライトニング・ストライク

 ここ。大森林という魔境。

 その密林エリアの制空権を支配している、炎上する怪鳥。

 照臨扇鷲(ドミネート・イーグル)の必殺魔法だった。


 これは、粗雑にも一考するにだが。

 下級モンスターどもが、

 どれだけ大群になり挑もうとも、無駄骨。

 いとも簡単に消滅されるであろう、必殺魔法すらもを。


 この大妖魔は気にもとどめない。

 関心すらもを、示してはいなかったようなのだから。


 そのような道理などはないが、

 まるで気づいていない。

 察知してすらも、いなかったような振る舞いだったのだ。


 それはまさに王者の風格。

 威風堂々という言葉を、体現しているかのようだった……。


 ふいに、

 ゴブリンの片目が痙攣しはじめた。

 ジンワリと、額に汗がにじむ。

 早鐘(はやがね)を打つ心臓。鼓動のリズムが、やけにわずらわしく聞こえていた。


 鈍痛が響く胸元に、

 そっと左手をそえる。

 ひとりでに、心のうちで感嘆の声がもれでていた。


 (しか)りではないか。

 異ならない。(たが)わないのだよ。

 アンリという名の大妖魔。

 現世を逸脱せしめる超越者にかぎっては……。


 僕も……。

 僕など触れるだけで滅せられる、照臨扇鷲(ドミネート・イーグル)も。

 あの、幻惑鳥翅揚羽イリュージョン・スワローテイルも。


 変わらない。不変で等しいのだ。

 せいぜい路傍のすみを、

 踏まれぬようにと、

 おそるおそる歩む些末な蟻に、すぎなかったのだから……!


 もとより前提条件が違う、のだ。

 生物としてのカーストが。

 クラスが。立ち位置が。


 だからこそ、奇異に映る。

 大妖魔の常軌を逸した奇行に。

 僕は混乱する。フラフラと翻弄されてしまうのだ。


 なぜならば、

 僕はつちかってきた経験則。知識。

 ひいては、当たり前の常識に乗っとり思索する。

 物事という事象を判断、判別しているのだから。


 なればこそだ。

 そのような愚かなゴブリンには、荷が重かった。

 いや、はなから不可能。

 たどりつける事由すらもが、皆無だったのだよ。


 なぜと問うに、違うのだ。

 僕と彼。そのへだたりは甚大。

 推し量れているものの差が、明瞭に異なっていたのだから……。


 そうだ。そう、だったのだ。

 眼前にて、

 断行されつづけている愚行。

 気狂いじみたたき火も、そうだったのだよ。


 フッ。そこらの蟻に。

 脆弱なる忌み子のゴブリンに。

 ひいては、ただ飛翔しているだけの小鳥や虫けらに、

 嗅ぎつけられたからといってなんだというのか……。


 彼は有しているのだよ。

 唯一無二にも想起してしまう、偉力のほどを。


 そうであれば事足りるのだ。

 そのような小物など、

 片手間にでも、蹴散らせてしまえばいいのだから……。


 弱肉強食。食物連鎖。

 それは絶対の(ことわり)なのだ。

 偶然の入りこむ余地のない、必然の掟なのだから。


 指し示すように、

 ここ、彼の存在を基点に、

 密林エリアの勢力図が、変容しはじめていた。


 唯我独尊を、

 絵に描いたような魑魅魍魎(ちみもうりょう)ども。

 その凶悪なる魔力の波動が、

 じょじょに、遠ざかっているのを知覚できていたのだから。


 痛快なことに、

 明快なことこのうえなき真実。

 示されていた、ゆるぎなき真相はこうだった。


 それは純然たる、逃避。

 生存本能が騒いだ。

 けたたましき警鐘を鳴らしたがゆえの、逃走だったのだよ。


 思いつくかぎりの総ての要素が、

 したたかにも、後押ししてくれていたのだよ。


 僕の考えうる全容が、

 まがうことなき正解であるのだ、と。


 このゴブリンはいまだ子供。

 未成熟な小児ではあるのだが、

 醜怪な外見とはうらはらに、怜悧狡猾(れいりこうかつ)でもあった。


 それゆえにこそ瞬時に、

 自身の生死にかかわる問題点。とある危惧に感づいてしまった。


 焦燥感がたける。

 背筋に冷たいものが走りぬけた。

 ボソリと、ゴブリンは胸中でのみつぶやいた。


 そのような惨事。

 憂き目になど遭遇したくはない。


 しかれども、

 彼を(こく)するほどのモンスターが、

 顕現(けんげん)したさいには、どのように処すればいいのだろうか、と。


 地震は断続しつづけている。

 たき火にくべられた枝が爆ぜた。

 小気味のいい音とともに、ちいさな閃光がまたたく。

 うす気味の悪い、虫の鳴き声も響いていた。


 両者のあいだを、

 涼しい夜風が通りぬけていった。


 あおられる火煙(かえん)に、

 アンリは顔面をいぶされながらも、押し黙っていた。

 うつらうつらとしたまなこは、

 じつに隙だらけである。

 おおかた、睡魔にでも襲われているのかもしれなかった。


 一方、ゴブリンは呑まれている。

 胸部の鈍痛により、か細いうめき声をもらしていた。


 それにしてもこれはまずい。

 いただけないのだ。

 教育上、けっしてよろしくはない光景だったのだから。


 なぜならば、うす暗闇のなか。

 しきりにハアハアと、

 ゴブリンは、荒い吐息をこぼしつづけていたのだから。


 あまつさえ、

 いぜんとしての凝視も継続中なのだ。

 燻製(スモーク)ダークエルフの後ろ姿を、

 穴があくほどに、注視しまくっていたのだから。

 そのような姿はさながら、

 春先に出没する変質者かのようであった。


 まさに混沌(カオス)である。

 しかしそのようなおり、

 とうとつにも、ゴブリンは全身を強ばらせた。


 半円状に縁どられた双眸が、

 ゆっくりと見開かれていく。

 脳裏にらんらんと、

 明滅していたのはとある真相。ふたつの解であった。


 ゴブリンの持つ稀代の頭脳を、

 フル回転させたすえに、謎を氷解してみせたのだ。

 つまりはようやく、

 全体像の構図へとたどりついたのであった。


 いやおうもなく、

 ゴブリンは我を忘れてしまう。

 浮きあがるような高揚感により、その身は緊縛されていった。


 そう、だったのだ……。

 この男は愚鈍ではなかったのだ。

 ましてや、無知蒙昧(むちもうまい)などでもなかったのだから。


 なぜならば、

 眼前のたわけきった愚行。

 いまもなお、お披露目されつづけているたき火。

 それこそが狂人の過信であり、

 絶対的強者の(おご)りでもあるのだと、

 愚劣なる僕は認識し、鵜呑みにしていたのだよ。


 しかれども、違う。

 明瞭なまでに異なっていたのだよ。

 そう、この僕こそが、明々白々なる白痴だったのだから……。


 総ては計算づく。手のひらの上。

 彼の描いていた絵図に、

 僕は翻弄されていた。

 滑稽にも、踊らされていただけだったのだから。


 類い希なのは戦闘能力だけだと、解釈していた。

 頭脳面にかんしては、僕のほうが優れているのではないか。

 そのように自惚れていた。


 だが、そうではない。

 そうではなかったのだ。

 目前の彼こそが、正真正銘の切れ者。まがいなき傑物。

 二つ名のとおり、大災厄(ディザスター)だったのだよ。


 そうだ。

 総てを超越していたのだ。

 常識という枠組みの外から、(トラップ)を張りめぐらせていたのだから……。


 第一の計謀。

 彼の類い稀なる策略を説明するのならば、

 まずは僕がひるんだ理由。

 明晰なる危惧に、触れなければならないだろう。


 それはこういう事由。憂慮だった。


 あまねく強敵のなかには、

 こちら側に感知されぬように、

 保有魔力量を隠蔽しうる知恵者がいるかもしれない、と。


 ようするに、

 霧のごとく顕現(けんげん)せしめては、

 来襲せんとするものの可能性は否定できない、と。


 だが、しかしだ。

 やはり僕の危惧など、

 愚にもつかぬ憂慮など、杞憂にすぎなかったのだよ。


 なぜと問うにだ。

 僕が地を這う蟻であるのならば、

 彼は亜人種だったのだ。

 いや、そのような低劣なる種族ではない。

 我が物顔で空を翔る、ドラゴンと同義だったのだから。


 それならばたやすい。容易なのだ。

 痴れ者の魔力の迷彩など一瞬。

 いともかんたんに看破してみせるだろう。

 あるいは、看破しうる方術を体得しているのだよ。


 それがゆえの脱力。

 悠然自若なる振る舞いだったのだ。

 そうでなければこの冥界で、

 このような自然体では、いられぬはずなのだから……。


 そして、第二の計謀。

 その比類なき謀略を解説するのならば、こうだった。


 不埒(ふらち)なものの誘因。

 当面の安全の確保。おまけに、己という存在の誇示。


 まさに、強欲なまでの策略と言えよう。

 それはまるで、誘蛾灯の役割と類似していた。


 忍ばされていた奈落の底。

 把握した時にはもう、あとの祭りだ。

 すでにゆるりと、

 死神の鎌は(くび)にそえられていたのだから。


 知らぬ間に、僕は騙されていた。

 ゆらりと手招く陥穽(かんせい)に、(いざな)われていたのだ……。


 そして、

 密林エリアのモンスターたちの(ことごと)くも、一律に試されていたのだよ……!


 まさに、悪魔のごとき所業だ。

 彼は裏の顔。

 内面の嘲けりなどおくびにも出さずに、

 意図的に、意識的に、滑稽な姿をさらしていたのだから。


 つまりは、

 己を囮と化すことにより、

 総てを同時並行的に探っていた。

 あまねく不穏分子どもを、浮きぼりにせんとしていたのだよ。


 まさに、妙手とていせざるをえない。

 自らを駒として一指しし、

 むろんのこと僕もふくめて、

 不確定な数多の造反者たちに宣言していたのだ。

 このように、暗に(てい)していたのだから……。


「お前は誘蛾灯(オレ)にむらがる、雑多な(てき)か?

 それとも、逃げの一手をうつのか?

 あるいは盤を放りだして、俺の軍門へ降るのか?」


 ふいに、一陣の突風が吹く。

 両者の黒髪がざんばらにゆれた。

 くすぶるたき火のなか、

 火種は不規則にもゆらめいていた。


 そのおぼろげな光量が、

 アンリの流麗なる容貌を照らしだしている。

 頬に、幾何学的な陰影をかたちづくっていた。


 ゴブリンは(ほう)けた。

 一種の絵画を思わせる情景に。

 狂乱めいた昂りも、

 胸の痛みでさえもを、無意識裏に置き去りにして。


 アンリは強引にも、

 前髪を後ろへとなでつけていた。


 それゆえに、とおった鼻筋。

 ピンと伸びた耳。

 灰色がかった蒼き瞳は、露呈されていた。


 いぜんとして、

 泥や血液はこびりついたままではあるのだが、

 漠然とした神々しさをにじませていた。


 凶暴なる魔力の波動。

 比類なき、慧敏な頭脳。


 それらは幼げな体躯とは不似合い。

 じつに、不釣り合いな要素ではあるのだが、

 そのコントラストは異様だ。

 異質でありながらも、あでやかさまでもを内包していた。


 明晰なことにである。

 ゴブリンは魅入られてしまう。たやすく呑みこまれていった。


 己とのありのままの対比に。

 羨望にも似た憎悪に。

 執着じみた依存に。降って生まれた幸運に。


 どうして。

 どうして、これほどまでに違うのだろうか。

 生来の(とが)。忌み子。

 道理も条件も、僕とは異ならないはずだというのに……。


 どうして。

 どうして、これほどまでに流麗なのだろうか。

 狂おしいほどに。

 このまま、息の音を止めたくなるほどに……。

 閉月羞花(へいげつしゅうか)の加護を有する、容姿端麗な母上のように……。


 どうして。

 どうして、大森林(ここ)にいるのだろうか。

 一体、いつから魔境(ここ)に。


 ここで、

 生誕したのだろうか。

 もしくは、僕と同様に捨てられてしまったのだろうか。


 それとも。

 生きづらく厳格な現世など手放して、

 無秩序で、不変な常世に救いを求めたのかもしれない。

 わからない。わからない……。


 どれほどの時が流れたのだろうか。


 思考の渦に際限などはない。

 そのようにすら思えたのだが、転じた。


 ゴブリンが自我を取り戻したのだ。

 勢いよく、首を左右に振る。

 うつろだった瞳には輝きが、

 強烈なる意思が宿りはじめていた。


 わからない。

 知る由すらもないが、しかしだ。

 目的を忘失してはならない。己を逸してはならないのだ。


 なぜならば僕には、

 やり遂げねばならぬ宿願があるのだ。


 苦汁を舐めようが、

 悪鬼羅刹に成り果てようが、いとわない。


 宿願を、

 為さぬうちには死ねないのだ。

 無価値にも、落命するわけにはいかないのだから……!


 しかれども、現実は無情だった。

 ありていに言って、

 僕の力量ではお話にならないのだ。

 この魔境から脱するなど、夢のまた夢だったのだから。


 なればこそだ。

 ありのままの実状を、

 直面している現実を認めよう。甘んじて、許容してやろうではないか。


 そのうえにより、

 のうのうと生を謳歌している怨敵。

 奴のもとにたどりつくには。宿願を為すためには。

 不可能を可能にするナニカ。

 いわゆるひとつの僥倖。奇跡という名の事象が、必要不可欠なのだよ。


 そう、だ。僕は目しているのだ。

 なんの因果か、

 そのナニカ、と幸運にも邂逅していたのだよ。


 彼、だ……。

 降って生まれた奇跡(アンリ)に、

 どうにか、力添えを乞うことができうるのならば。


 あるいは人心をあやつり、

 悪用することができうるのならば……。


 ……棄ててきた、はずだ。

 道徳的観念になど価値はないのだ。

 刻下の本筋から背反している。逸脱しているのだから。


 僕の有している要素はひとつ。

 拠り所となりうるものは、頭脳しかないのだよ。


 なればこその思慮。

 で、あるからこその(くわだ)てなのだ。


 そうだ。

 彼を、(たばか)るのだよ。

 感心をひく。

 信を得て懐に入るのだ。

 それが最低限必要。僕に残された活路は、もはや……。


 だが、しかしだ。

 一体、どのように(かどわ)かせと言うのだろうか。


 くだんの相手は、完全無欠。

 そのように想起してはやまない、大妖魔なのだから。


 そのような鉄壁なる心肝を、

 ゆり動かす手段。

 (たぶら)かさんとする方術とは、一体……。


 うむ。そうだ、な。

 エルフの美的感覚など知らんし、

 推し量れもしないのだが、

 色仕掛け、などの奸計(かんけい)も及びがたいだろう。


 あまつさえ、

 ほのかな情愛ですらも、僕には……。


 然りではないか。

 このような劣悪なる面貌ではお話にならない。

 手枷(てかせ)と化すのは、自明の理なのだから。


 ああ、母上。

 母上のような容姿が、

 優艶なる容貌が、僕にも備えられていたのならば……。


 つまるところ、

 ゴブリンには光明が見えなかった。

 自身の有する特徴。

 忌々(いまいま)しき要素に悲嘆し、いらだった。


 すると、その瞬刻である。

 ゴブリンが目を見開いたのだ。

 心臓を、鷲掴みにされたかのような衝撃をおぼえて。


 なぜならば、両者の目線。

 たがいの視線が交錯していたのだから。


 うつらうつらと、

 船をこいでいたはずのアンリが、

 珍妙にも、うすい笑みを浮かべていたのであった。


 たちどころに、

 ゴブリンは呑みこまれていく。

 ひどい猜疑心により、さいなまれていった。


 その理由はひとつだ。

 ふいのアンリの冷笑にあったのだ。


 それがすなわち、

 詮索の嘲笑に見えていた。

 こちらの機微でも探っているかのように、

 ゴブリンの視界には映りこんでいたのだから。


「分不相応にも、腹芸か」


 などと言わないばかり。

 辛辣(しんらつ)なる慧眼は、手厳しいものであった。


 なればこそだ。

 ゴブリンは錯覚してしまった。

 心の奥底までもを、覗きこまれたかのように。


 しだいに、ゴブリンは堕ちていく。

 あわてふためく心模様。

 怜悧(れいり)なる頭脳は深みにはまっていった。


 さ、察知された、のか。

 よこしまな魂胆を、見透かされたとでもいうのだろうか……。


 ……いや違う。誤想、のはずだ。

 十中八九、この嘲笑の含意は、

 僕の意思を問いただしているのだ。

 つまりは、指針の如何を問うているだけなのだから……。


 だが、ぬぐえないのだ……。

 いぜんとして、

 僕は滑稽な道化のままで、

 総てを、見透かされているのではないかという疑念が……。


「お前の悪巧みなど、とうに把握しているぞ」


 とでも、

 暗唱しているかのようではないか。


 たしかに、理解はできる。

 蓋然性(がいぜんせい)はあるのだよ。


 なぜならば僕が、

 彼の立場で思慮するのならば、第一に疑うだろう。


 信認などもってのほかなのだ。

 然りではないか。

 僕は、卑しきゴブリンに相違などないのだから……。


 ぬぐいきれぬ疑心暗鬼は、根深い。

 ゴブリンの全身は硬直していた。

 額からほほへと、冷や汗が流れ落ちていく。


 しかしながら、

 そのような苦慮こそが無意味と言えよう。


 もとよりゴブリンには、

 選択の余地など残されてはいないのだ。

 逃避や闘争といった愚行は即刻。

 逃れられぬ死を、確定づけてしまうのだから。


 だからこそである。

 ゴブリンはひとつ、息を吐いた。

 口を真一文字に引き絞める。

 おっかなびっくりな足取りにより、寄っていった。


「ようやく、来てくれたようだね。

 そうか。そうか。きみは恥ずかしがり屋さんなのかな?」


 アンリは無表情ではあるが、

 ぎこちない笑みにより出迎えた。

 おもむろに、自身の横の岩へと手をむける。


「じゃあ、ここにすわってく……ん?

 一体全体、きみはなにをしているんだ?」


 さもありなん、

 岩ですらもなかったのだ。


 ゴブリンはキョドりつつも、

 小柄な体躯を、より一層ちいさくたたむ。

 礼儀正しくも、地面に正座していたのであった。


「え? ギ?」


 絶対者(アンリ)の疑問の声に、

 なおのことさら、ゴブリンは萎縮しているのだ。


 そのせいにより一瞬、

 え? である。

 流暢な、亜人(イングリード)語が首をもたげていた。


 どうにかこうにか、

 超越者の機嫌を損ねないように。

 との意思によりゴブリンは、

 不器用な愛想笑いを浮かべていたのだが。


 アンリは肩を落とす。

 残念そうに、ため息をつくばかり。


「いや、さ。

 俺たちのあいだに、どちらが上とか下とかの関係性はないだろう?」


「はぁ? ギ! ギギィ!」


「ん? いま、なんかハァって聞こ」


「ギィ! ギギ!」


 想定外の言葉に、

 ゴブリンはひどく狼狽(ろうばい)した。


 またもや、はぁ? である。

 無礼な亜人(イングリード)語が、口をついて飛びだしていた。


 けれども、

 冷や汗を流しながらも、

 意味不明なボディランゲージにより、事なきをえていた。


 アンリはあいも変わらずだ。

 見るからに不満げである。

 納得がいっていないのは、昭然たるものであった。


 と、唐突にも、

 なにを吐いているのだ? コイツは……。


 やはり、常識を知らんだけの愚者なのか?

 あるいは、頭が気狂ってでもいるのだろうか……?


 上下関係がない、だと……?

 フッ。なるほど。

 そのようなわけがあるか! あってたまるものかっ!


 前提としてだ。

 コイツはまがうことなき上位者。

 僕の、生殺与奪の権利を握っている飼い主なのだよ。


 そして、この僕はだ。

 その恩恵にあずかり、

 庇護を受けようとするだけの弱者なのだよ。

 ようするに、なかばペットのような立場なのだぞ……?


 然りではないか。

 逆鱗に触れれば最期。

 待ち受けているのは、無様な落命にほかならないのだから。


 いや、それどころではないのだぞ?

 不合理な理屈で害されようとも、

 うらみ言ひとつ吐けない立場なのだからな、僕は。


 ことは繊細に過ぎるのだよ。

 緻密に冷静にだ。

 行動しつづけなければ、僕に明日はないのだよ。


 なればこそだ。

 たぶんに、様子見もかねてはいるが、

 最低限の礼儀なりが必要なのは明晰だった。


 そうでなければ、滑稽にすぎる。

 滑稽にすぎているではないか。


 大妖魔(コイツ)に。

 不必要な刺激をあたえぬようにと、

 亜人(イングリード)語さえもを、隠しとおそうとしていた僕とは一体……。


 だ、だが! そうか……!

 うむ。さすがだ。

 で、あるのならば了知できうる。すんなりと得心が入ったぞ。


 ……そう。

 翻意(ほんい)のほどを、試されていたのだよ。


 やはり、比類なき知恵者だ。

 より一層として、

 気を引き締めなおさなければならないようだな……。


 一方、アンリは悲しげな雰囲気だ。

 不憫なほどに、その顔は曇りまくっていた。


 や、やるではないか。

 し、しかし無意味!

 そ、そのような形相では!

 ぼ、僕を(かどわ)かすにはいたらなかったようだな!


 と、ゴブリンには大打撃である。

 クリーンヒットにより、

 なけなしの温情が騒ぎ立ててはいたのだが。


 それでもなお、頑固者である。

 がんとしての正座を、固持しつづけていた。


 まさに混沌(カオス)である。

 混沌(カオス)と言わざるをえない闘争は、ながらくつづいていった。


 得体のしれぬ地震も継続中。

 木々の上方。

 その太い枝に座りつつも、

 こちらをおそるおそる見つめているモンスター。

 四本腕の大猿(カオティック・エイプ)たちが困惑しているさなか、決着はついた。


 むろんのこと、

 ゴブリンがとある事実に気づいたからであった。


 現状として、

 コイツは主のようなものなのだ。

 そのような奴の命令を、

 かたくなに拒否していては、粛清の対象にされるのではないか、と。


 ゴブリンは長めの嘆息をする。

 戦々恐々といった面持ちにより、岩に腰かけてみた。


 すると、つぎの瞬間である。

 アンリは年相応の少年のように、

 花が咲いたかのように、破顔したのであった。


 そこには、害意も毒気もない。

 超凡なる大妖魔が、あらわにしたとは思えぬ差異が、

 表情が、すぐそばに。

 体温さえもが、感じられそうなほど間近にあったのだ。


 然りである。

 ゴブリンはというと、完全にフリーズしていた。


 な、なんだ、コレは。

 なんという、愛くるしさなのだろうか……。

 あまりにも、流麗にすぎているだろ。

 もはや、フザけている。いい加減にしろ……。


 ……しかし、負けん。

 (かどわ)かされはしないぞ。

 (たばか)ろうとしているのだよ、僕を……。


 そうだ。そうにきまっているのだ。

 でなければ、理解に苦しむ。

 付言しておくが無価値だ。

 利用価値すらもが一切ないのだぞ、僕は。


 あまつさえ、

 下劣にすぎるゴブリンなどに、

 笑いかける亜人種などいるはずがないのだから……。


 自虐的な発想に、

 ゴブリンは暗然としてしまうが。


 アンリは快活に一笑した。

 ちゃめっけたっぷりの所作により、口をひらく。


「そう、それでいいよ。

 遠慮なんてものはいらない。俺たちは同じ、なんだからさ。

 ……それにしても、数奇な巡り合わせだと思わないか?

 同様に帰るところもない。

 願わずとも、余計な背景を背負わされた二人は奇しくも、こんなバカげた場所で出会うんだよ。

 だけど物語りは、はじまらない。あるのは序章だけ。

 定められたルールに乗っとるんならば、悲しきかな。

 忌み子は非業の死をとげなければならないんだから、ね」


 まるで、対岸の火事のような科白だった。


 アンリの双眸は柔和に、

 どこか愉しげにも、ゴブリンを見つめていた。


 うす汚れた前髪が夜風にゆれる。

 忌々しげに、片手で後ろへ流すと、

 笑みを消した。


「じゃあ、抗おうか。運命に。二人で。

 痛快じゃないか。

 俺ときみはただあがいて、生きつづけるだけでいいんだ。

 それだけで。

 こんなにもつまらない、世界のルールを曲げつづけられるんだから」


 ゴブリンは息を飲む。

 明瞭なまでの熱情を生んでいた。


 まるで、言葉ひとつひとつが粒子となり、

 かたくなな心を(ほぐ)そうと、

 まとわりついてでもいるかのような錯覚をおぼえて。


 二人で。

 運命に。抗おう、だと?

 それは真摯な言葉、なのだろうか……?


 如何なる事由があろうとも、

 たわけた風習により、

 忌み子は大森林送りと定められているのだ。

 それはすなわち、

 死罪とひとしき所業だった。


 ハッ。しごく当然だ。

 どこの誰が、

 このような魔境で命脈を保てるというのだ……!

 拒絶などできようもない。たあいもなく、すべからく死ぬ。


 僕だってそう、だった。

 そうなるはず、だったのだ。


 どれだけ抗おうが、(くわだ)てようが無意味。

 頭脳を駆使したところで、

 無為に終わるのは宿命だったのだよ。


 宿願など果たせるわけもない。

 うちに秘めたままで、

 あっさりと死んでいたのは、必然だったはずなのだから……。


 むろん、ではないか。

 僕は脆弱ではあるが、そこまで愚かではない。

 とうに、承知していたのだよ。


 密林の覇者が。

 酷悪なる(けだもの)が。

 四本腕の大猿(カオティック・エイプ)が、被食者(ぼく)へと的を絞っていたのは。


 それならばなぜ、だ?

 なぜ奴らは、

 (けだもの)の理念そのままに来襲してこないのだ?


 フッ。そこまで、愚かではない。

 わかりきっている。わかりきっている、ではないか……。


 そう、彼だ。

 アンリが盾となり、抑止力となり、

 まるで騎士のように、傍にいてくれていたからだ……!


 (つい)えている。

 僕、一人ならば潰えていた。

 一夜すらも越えられずに、唾棄すべき生涯を終えていたのだ。


 しかし僕は、生きている。

 生きていけるのだよ。

 まだ見ぬ未来へと、僕は……。


 虫酸の走る世のなかの、(ルール)をねじ曲げるのだ。


 と、彼は高らかに宣言した。

 世から比べれば、

 些末な一介の個人であるはずの少年が、言明した。

 愉悦にそまる形貌のままに、のたまったのだよ。


 本来、

 それは一笑に伏すべき戯れ言だが、

 雄々しくも重たい。

 得体の知れぬ魔力が、こめられているような気がした。


 まことに、

 なんの因果なのだろうか……。


 ほぼ同時刻に、

 彼が密林にいてくれた。


 彼が僕に、

 忌み子が忌み子に、戯れに関心をよせてくれた。


 彼が僕に、

 強者が弱者に、救いの手を差しのべてくれた。


 安易な語呂は使いたくはない。

 だがこれはまさしく、奇跡、だ……。

 天から遣わされたかのような使者。高貴なる閃光。

 奇跡(アンリ)と邂逅していなければ、僕は。


 しだいに、

 ゴブリンの心境は変化しはじめていた。


 最たるものはふたつ。

 アンリに対する感謝の気持ち。

 ならびにある種の、

 崇敬の念すらもをおぼえはじめていた。


 しかしながらである。

 相反する感情にも囚われていた。

 凝り固まった心が、

 裏切られた過去が、信じられぬと反発していく。


 ……嘘、だ。

 絵空事だ。計謀、ではないのか。


 そうだ。

 おかしい。おかしいのだ。

 どうして、僕、だけに。

 みな、すべからく死にゆくような魔境で、

 このような偶発的な幸運が、僕だけに降るはずがないではないか……。


 ……それならば、なんだ?

 この僕を、籠絡(ろうらく)しようとでもしているのか?


 だが、彼になんの利益が……。

 矮小(わいしょう)なるゴブリンを懐柔して、

 いったい、なんの利益が彼に……。


 心奪われまい。

 と、ゴブリンは必死に抵抗するが、

 怜悧(れいり)なる頭脳はとうに理解していた。


 僕に(くみ)しても無価値。

 彼には、一分の利益すらもがないのだ、と。


 それならばそれは、

 この世に存在してはならぬ真実。

 まがうことなき、無償の慈悲にほかならないのだ、と。


 迷う幼子のように。

 ゴブリンの内情はゆれ動く。右往左往しつづけていた。


 それを知ってか、知らずか。

 アンリはたたみかけるかのように、

 にこやかに微笑んだのであった。


「きみの名前を教えてくれないか?

 ……ああ、そうだったか。もしかして、ギしか話せないのかな?」


 言い終えると、

 残念そうに肩を落とした。


 ゴブリンはまばたきを繰りかえす。

 逡巡(しゅんじゅん)ののち、おずおずと口を開いた。

 心と同様に、

 放たれた声はか細くも震えていた。


「……ルゥ」


「ん? ルーかい?」


「ル、ゥ」


「ルゥ。そうか。……ルゥか。

 素敵な響きの名前じゃないか」


 それ以外に、

 なにも持ってはいない。

 なにもかもを奪われて、穢れた姓をもかなぐり捨てた。


 だが、たった一つだけ。

 かけがえのないものだけは、持ちこめていた。


 ルゥルゥ。

 それは、亡き母が名づけてくれた宝物。

 だれにも告げずに、

 だれにも名乗らずに、死ぬのだろうと思っていた。


 たちまちのうちにルゥの、

 焦げ茶色の瞳がこきざみにゆれた。

 こらえきれなかった涙が一筋、こぼれ落ちていく。


 ひとりでに、決壊しはじめる涙腺。

 それを見てとったのか。

 アンリは穏やかに微笑んだ。


 ルゥの短めの黒髪。

 こきざみにゆり動く頭頂部に、

 そっと右手を置いた。


 泥や汚れで凝固している毛髪。

 その一本一本をほぐすように、優しくなでつづける。


「ルゥ。明日はさ、川にでもいこうか。

 魚でも釣って食べようじゃないか。こーんな大きなやつね。

 起きてから俺さ、なにも食べてないんだよ。

 あと、さすがに俺臭いだろうし。

 やはり文明人としては、身体は清潔にしとかないと、なぁ」


 ルゥはこらえる。

 喉から出そうになる音を消して、うめきもしなかった。


 つちかってきた人格。

 ゆずれはせぬ矜持(きょうじ)が、邪魔をしていたのだ。


 顔も上げられなかった。

 下を向いたままで、

 震える身体とともにちいさくうなずいた。


 星空は見えない。

 奇っ怪な上空へ、

 アンリは視線をそらすと、穏和に微笑んだ。


 笑い声がこだます未明。

 恐れおののく大猿という客。

 オーディエンスの御前で、アンリは不本意な称号を得ていた。


 小鬼族を堕とせし者( ゴブリンハンター)

 それは目がくらむほどに、

 らんらんときらめく誇らしき称号だった。

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