新たな珍種
せせこましき銀鏡の一室は、
むごたらしき空間へと変わり果てていた。
疑いなどなく、
血なまぐさい争いを繰りひろげたわけではない。
だが強大な台風でも、荒れ狂ったかのようだった。
豪華絢爛だった、花びら型のシャンデリア。
その大部分は欠け落ちている。原型をとどめてはいなかった。
スス汚れたガラス片は、床に散乱している。
侵入者の足の裏を傷つけんとする、
まきびしの罠へとあらたまっていた。
あたりを照らす光量もいささか、心許ない。
くわえて、美術的価値は底をついていた。
いまやもう、
照明という役割を粛々とこなせるぶん、
黒鉄の松明のほうが有意義であった。
天井、壁面、床。
六方の鏡面もひとしく、散々たるものである。
バリエーションゆたかな裂傷が、何重にも刻みこまれていた。
幽鬼が、狂騒に呑まれ荒ぶっていた地点。
そこはというと、信じがたいことにわずかにえぐれていた。
あまつさえである。
黒く変色して、焼け焦げてまでいたのだ。
まことにけた外れ。悪神じみた偉力のほどであった。
そのような様相は、
スカーという個の異常さを、明晰なまでに物語っていた。
まがうことなき、
想像を絶する領域に棲まう、妖異であるのだ、と。
閑散とした廃墟のごとし。
そのような寂寞感がただよってはいた。
しかしすべてが、破壊しつくされているわけではない。
珠玉の逸品は平穏無事である。不変であった。
さすがは超越者製作。
魔王お手製の、マジックアイテムの数々であった。
役目を終えて、
黒色へと移り変わった品性の水晶玉。
それは上下に、ゆるやかにも浮遊しつづけていた。
侍るように護衛する、
二対のマネキンたちもご健勝だ。
我関せずとたたずんでいた。
装われている衣服。
執着のドレスにも、傷ひとつついてはいなかった。
あいもかわらず、
うちに秘める獰猛な息吹きを、あからさまに放ってはいたが。
静謐なる水晶玉。
その御前で、
双方の手はしっかりと繋がり合っていた。
多種多様の思惑が、
脳裏を駆けめぐっているのだろう。
それは一方の底意地の悪い微笑。
ひいてはもう一方の、
たおやかなる微笑みによりあらわとなっていた。
優雅だったスカーの容貌は、
病人のように青白い。
深紅の瞳は充血している。
よりいっそうの赤みを増して、腫れぼったくなっていた。
しかし断固として、
その手を離す気はないようだ。
周囲に、快活な少女然とした声がひびいた。
「フフフ。これでほんとうに、私のはじめてのお友達となってくれましたね」
センチメンタルな台詞。
情景はひときわ、感動的であった。
しかし、ルゥは眉をひそめている。
いいから手を離せ。
と怪訝そうなまなこにより、相手を睨みつけていた。
「お友達、だと……?
なにを宣ってているのだ、お前は。
僕たちはそのような間柄ではない。
友というよりかは、そうだな。
我らが王をともに補佐し、押し上げていかんとする、同僚のようなものではないのか?」
ぐうの音もでない正論である。
もの柔らかな配慮などはいっさい、見受けられなかった。
スカーは呆然自失な風体のまま。
弱々しき、絶えいるような嘆きをもらす。
「た、ただの同僚だなんて、そんなひどい……」
またしても、
悪い男に騙された女性じみたセリフであった。
スカーは魂が抜けでたかのよう。
弛緩しきると、
ガックリと肩が落ちていく。
くわえて目の光りも、だんだんと失せつつあった。
それにしても、過剰な反応である。
毅然とした態度により、
手を離さないことから鑑みるに、
わざとらしい演技にも感じられていた。
さりとて、相手も手強いものだ。
当然のように、
ルゥは意にかいしてなどくれない。
不必要と判断した空気など、読んではくれないのであった。
ルゥは不審げな面持ちのまま。
悲嘆に暮れる少女を凝視しつつも、
事の推移を見定めていた。
どうやら正論により、
落胆しているように察せられるのだがなぜだ?
手を取り合う同僚とはつまり。
志をひとしくして団結する友。
といっても過言ではないのだが、な。
あの聡明だった頭脳はいずこへ。
そのようなことも、
理解できぬほどに落ちぶれてしまったのか、コイツは……?
もしくは、煽られている。
ようにも想起させられるのだが、まったくもって難儀な奴だ。
まあ、これからの道筋を鑑みるにだ。
コイツとの絆を深めるのに、ことさら異存などはないのだよ。
いや、むしろ真逆だ。
深めていかんとする行動こそが、必要不可欠とも言えるのだから。
ならば、いたしかたないか……。
ルゥは、とても煩わしそうな形相ではある。
しかしひとりでに、
口許は照れ笑いの形で曲げられていた。
「団結すべき同僚、であるのは変わらない。
だが、しかしだ。
……まあ、残念ながらではあるが、奇遇でもあるが、だ。
ぼ、僕に取ってもはじめての友、と呼んでもいいのかも知れんな。
だ、だが、誤想するなよ!
僕はその、貴様などどうでもいいが、あれだ……」
ぶっきらぼうなもの言い。
純然たる照れ隠しであった。
やおら、ルゥはそっぽを向く。
なにやらゴニョゴニョと、口は開閉を繰りかえしている。
だがその声量はちいさく、聞きとれなかった。
スカーには、
予想外な反応だったのかもしれない。
天の邪鬼へと、視線は釘づけ。
喜色満面と、うち震えてでもいるかのようだ。
紅き瞳孔はらんらんとしている。
狂騒に逆巻いていた以前と比べても、遜色はなかった。
「えっ! なにっ? なんなのっ?
このかわいい生き物は!
こんなにも愛らしい生き物が! 大森林に存在していたというのっ!?
いまならば、わかる! わかるんですよ!
アンリさんの気持ちが! いともかんたんに! 手に取るようにっ!」
「……貴様、僕を馬鹿にしているようだな?」
たちどころに、
暴走状態におちいるスカー。
繋がれたままの手を、
自身の両手でやんわりと挟みこむ。
そのまま勢いよく上下に振った。
とてつもない苛烈さである。
満面の笑みから推測するに、そこに悪意などはない。
だが腕力には、歴然としたひらきがあるのだ。
ルゥに取ってそれは、猛然とした攻勢と同義であった。
「おい! 止めろ! 危ないではないか!」
ルゥは、たたらを踏みながらも耐えつづけている。
しかし脆弱な身体は無力なのだ。
しだいに右手を軸として、
上下左右に、いやおうもなく振りまわされていた。
宙を舞う小鬼族に、
怪力を発揮している粘体。
それはじつに奇妙な場景ではある。
しかし、至高なる友情のカタチでもあった。
ルゥの視界のなか。
目まぐるしくも去りゆく景色。
本心は半泣きの様相である。竦みあがっていた。
しかし、やられてばかりではいられない。
気高きプライドは、泣き寝入りを許さなかったのであった。
恐怖心などかなぐり捨てる。
顔中を真っ赤にしながらも、激昂した。
耳をつんざくような怒声が、あたりに響きわたる。
「おい! 離せ! 離すのだ!」
しかし即時に、
ルゥは考えをあらためた。
なぜならば遠心力は、
そうとうな領域にまで足を踏みいれているのだ。
いま離されてはまずい。
王国を建立するよりもさきに、生涯のほうが潰えてしまう。
壁に激突させられた向後。
その無情な結末がよういに想察されて、ルゥは青ざめた。
狡猾なるふところには、
微小にしか存在せぬ温情。
それを最大限にかき集める。
子供に語りかけるように述べた。
「い、いいや、ダメだ。ダメだぞ。
いまは離すな。離してはならないぞ」
「ああっ! わ、私はなんということを」
スカーはようやく我にかえったのか。
しおらしくなると平謝りである。
「る、ルゥさん、ごめんなさい!
ちょっとばかり興奮して、心がヒャーとなってしまって、それで……」
「そうだ。スカー、ゆっくりだ。
いいぞ。そうだ。ゆっくりと、下ろすのだぞ」
要望通り、床へと下ろされる。
ついぞ、制御のきかぬ、
中空の世界からの生還を果たした。
顔面は蒼白のままではある。
だが、どうにかこうにか、
手を離してもらえたこともあいまって、
安堵の息をひとつもらした。
しかしながら、
憤怒めいた情念は鎮火していない。
くすぶるどころか、果てしなく燃えさかっていた。
またたく間にである。
醜怪な面貌は、
ゆでダコのように真っ赤に染まっていく。
平謝りしているスカーへと、
震える指先を何度も指しつつも、大声で説教をしはじめた。
「今回ばかりはもう我慢ならん!
このさい、お前には言うべきことがあるぞ!
一体、ヒャーとはなんなんだ! ヒャーとはっ!
はっきり言うが、ヒャーとなっていたのは! 振りまわされていた僕のほうだろうが!
それにたわけたヒャー道の……、なんだったか? 求道者、か?
……まあ、どちらでもいいだろ。
ヒャーだかヒェーだか知らんし知りたくもないが!
亜人語を話せ! 話せるはずだろうが!」
言い終えて、
ルゥは肩で息をしている。
しかし、返ってきた言葉は意外なものであった。
スカーは能面のような表情で、
ボソリとつぶやいたのである。
そこはかとなく、反抗的な態度を示しつつも。
「……伝道師です」
「はあ? なんだ? なんと言ったのだ? 申し開きがあるのならば」
「求道者ではありません。私は伝道師ですので」
「くどう、でんどう。はあ? はあ!?」
得意中の得意たる疑問符。
その連呼は、荒廃した一室へと反響していった。
ルゥはまぬけな顔をしている。
全身を硬直させながらも、フリーズしていた。
だがやがて、これは煽り。
ものの見事な挑発の類いである。
と見なすと、
せきを切ったようにヒートアップしていった。
「な、なんだとっ!
だ、だが、まあ、その点は僕が間違えていたようだ。
しかし、そのような末梢的な事柄ではないのだ!
僕が言っているのはな」
「ですが、私は伝道師ですので」
「しか」
「伝道師ですので」
「なん」
「伝道師ですので」
強情なる一点張りであった。
スカーは、凍りついたかのような無表情のまま。
絶句するルゥを直視していた。
余談ではあるが、
忌み子たるルゥには生来として、
頭頂部に生えているはずの角は、影も形もなかった。
しかしながらである。
憤怒の情を身にまといし形相は、
深淵の底から顕現せしめた赤鬼かのようだった。
おぼろげに震える体躯のまま。
怒声を上げそうになるが、止まる。
己を寡黙にも律しつつも、深呼吸を繰りかえしていた。
そう、緻密に冷静にだ。
怒りに身を任せてはならない。
それは、聡明にすぎた敵の思うツボなのだから。
「うむ。なるほど。そうだな。
伝道師と求道者では、目指す指針はおおきく違うのだから。
なればこそ、だ。
貴様の言い分も理解しようではないか。
だが、な。スカー」
間を置くことにより、
ルゥは落ち着きを取りもどしていた。
その胸中は、凪のように閑散としている。
おもむろに口角を吊り上げた。
沈黙したままの強情者。
彼女をルゥは見やった。
勝ち誇ったかのような顔により、口をひらいていく。
それは自称、
たおやかなる淑女に対しての禁忌。
決して言ってはならぬ、禁句であった。
「貴様はゴリラだ。
現下として、僕は気づいた。気づかされたのだよ。
もはや、目前の女はゴリラ。
ゴリラ以外のなにものでもないのだ、とな」
「ご、ゴリラ……?」
「うむ。毛むくじゃらでないのが残念ではある。
が、その膨大な頭髪によりトントンだろう。
しいて言うのならば、背丈の低さから子ゴリラだろうか」
「ざ、残念な子ゴリラ……」
「しかし、そのような差異はいまはどうでもいいのだよ。
どうか。どうか、事解してはくれないだろうか。
貴様はゴリラであると同時に、貴様の腕力もゴリラ並みなのだと。
そう、密林に夥しくもはびこる、毛むくじゃらどもと比べても遜色はないのだ。
いや、それどころではないか。
言うなれば、貴様はゴリラを超越せし淑女。
つまりはゴリ女、なのだよ」
「ご、ゴリ女だなんて……、なんという暴言を……」
効果は抜群のようだ。
そのように推察したルゥは、花が咲いたように笑った。
面白いようにうろたえるゴリ女。
スカーをしり目に、鷹揚な動作で両手を広げていく。
再度、果敢に斬りこんでいった。
怜悧なる頭脳がはじきだした、新たな角度の挑発をたずさえて。
「しかし、どうだ?
僕の身体を見てくれ。
華奢にすぎるとは思わんか?
まことにこころやましいが、僕は脆弱にすぎるのだよ。
ようするに、だ。
ゴリ女にとっては、わずかなじゃれつきであっても、僕にはまさに致命的なのだ。
触れられるだけで潰える。
いとも簡単に落命してしまう偽体、なのだからな。
で、あるからこそだよ。
眼前のゴリラ然とした、たおやかなるゴリ道師様に、僕は頭を下げようではないか。
金輪際として、僕に触れないでくれないか、とな」
ゴリラ然とした、
たおやかなるゴリ道師様であった。
よどみのない動きにより、下げられていく頭。
それは、純然たる扇動以外のなにものでもなかった。
然りである。
ルゥは暗に示していたのだ。
自らはか弱い女性なのである、と。
ゴリラ然とした、筋骨粒々にすぎるゴリ道師とは違うのだよ、と。
これはいけない。
つい先刻の騒動に、逆戻りしてしまうかに思えたのだが。
やおらスカーは、両手で顔を覆いこんだ。
うつむくと、鼻をすする音が聞こえてくる。
まるでひしひしとむせび泣く、可憐なる少女のようであった。
「ご、ゴリ女。ゴリ道師だなんて……。
ほんとうにひどい……。
このようなたおやかなる淑女をつかまえて、あたまのイカれた、ゴリラ並みの怪力女だなんて……」
烈火のごとく憤るに違いない。
と、ルゥは想察していたのだ。
なればこそである。
少しばかり言い過ぎたかもしれないと、焦慮していたのだが。
「あ、頭がイカれたなどと、そこまでは言っていないだろうが」
やはり、スカーも手強い。
負けず劣らずの、したたかな淑女であった。
一拍ののちである。
唐突にも、スカーの顔が上がったのだ。
もちろんそこには、涙のあとなどみじんもない。
優美なる微笑みを、口許に浮かべていたのだから。
「フフフ。ルゥさん、許しませんよっ!」
即座に、行動に移る。
「これまではさんざん、いいようにやられてきましたが、今回はそうはいきませんっ!
ほんの少しばかりの意趣返しを、受けてもらいますからね!」
ルゥの隙だらけの右腕。
そこに狙いをさだめたのか。
スカーは目にも止まらぬ速度により、右腕を掴む。
力強く引いた。そのまま横へと半回転させる。
「お、おお!」
まるで、社交ダンスのようだ。
反応などできようもない速度。
クルクルと、ルゥはされるがままであった。
目の前まで、
まんまとやってくるちいさな背中。
そこへと、スカーはおぶさる。
その両腕両足は絡みつくように、
ルゥの首と腰へと、きつく巻きついていた。
それに、二人の身長差は歴然。
ルゥの身長はわずかに、
百四十センチほどしかないのだ。
なればこそである。
押し潰されても、おかしくはない状況だ。
ところが膝にかかる負担は、たいそうに軽いものだった。
かといって、
ルゥが許容するわけもなく、
あらんかぎりの力でもって暴れたのだが。
「は、離せ! 離すのだ!」
いっさいの身動きはとれなかった。
夥しくも、波打つ深紅の頭髪。
それはカーテンのようだ。
ルゥの姿態をまるごと、秘し隠すようにかけられていた。
むろんのことである。
ルゥは目隠し状態だ。
視界全体は、紅で遮蔽されていた。
はたから見るにそれは、
珍妙なる毛むくじゃらの物体だ。
紅毛の人型を模した、新種のモンスターのようだった。
小鬼族と粘体。
両者は合体を果たす。
新たなる珍種が誕生したおり、室内に静寂がおとずれていった。
やがてルゥは、
暴れても脱出は困難である。
とすみやかに観念。諦めの境地に達していた。
とりあえず視界を確保せねば。
と両手を動かしていく。
まるで、のれんをくぐるかのようだ。
無表情、無感情のまま。
視界を遮蔽している髪の毛を、そっとかきわけた。
静けさただようほど。
奇々怪々なるヒトコマであった。
おおよそではある。
あるが最初に、
紅髪のロングヘアーとなった最下級小鬼族。
ルゥはというと面倒そうだ。
見事な仏頂面であった。
傷だらけの鏡面に映りこむ、
自身の哀れな姿を目撃して、辟易としていた。
密着されている背後。
ほのかな柑橘系の香りも、気持ちが悪い。
直で、背中に当たっている違和感。
豊満にすぎる胸の感触も、腹立たしくてしかたがなかった。
無情なことにだ。
生来の凹凸の加減。
アンフェアなる絶壁を維持、保全しつづけているルゥ。
彼女は動揺しつつも思った。
ま、まさか……!
これが狙いだったとでもいうのか!
やるではないか!
やってくれるではないか! うす汚いスカーめぇ!
まさしく小賢しい。
さすがの聡明さと、言わざるを得なかった……。
なぜならば、
持つ者と持たざる者の違いは歴然なのだよ。
滑稽にも巷の女どもとは、
胸のおおきさにより、個の優劣を比較している。
と、書物で読んだことがあったのだから。
なればこそではないか。
分不相応にも、卑劣にも、
やりかえしていたのだよ、この脂肪の塊まりは……!
もはや、灼然たるものなのだ。
僕の姿形を鑑みた場合において、
胸などに、コンプレックスを抱いていると想起するのは。
だが、しかしだ!
見誤ったようだなぁ、スカー……!
フッ。僕には胸など不要なのだよ。
あのような肩がこるだけのゴミ。
下劣なる脂肪の塊まりなど、
断じて、僕の宿願には不要なのだからな。
胸中ではゴミ。不要。
そのように力説していたルゥ。
だがみるみるうちに、顔中は真っ赤に染まっていった。
全身どころではない。
容貌すらもが、深紅により統一された珍種。
紅毛でデフォルメされた小鬼族は、
声高らかに、激情を白日の下にさらした。
またしても、
泥沼に引きずりこまれうる、ヤッカイな禁句をたずさえて。
「退けぇっ! 退くのだぁ!
許さん! まことに許さんぞぉ、貴様ぁ!
それに重い! なんという重さなのだっ!
僕と貴様の! 身長差をわきまえろっ!
それにまったく!
以前から思っていたが! なんだその奇っ怪にすぎる巨大な胸は!
いい加減にしろ!
一体なにを食したら! そのような木偶の坊に成長するのだ!」
なにをいい加減にするのか。
それはさだかではない。
そのうえ、ある種の改善方法。
胸をおおきくする方法について、
質問しているようにも聞こえてはいた。
だが、お相手は女性なのである。
体重にかんする話題は禁忌的。
虎の尾を踏むような、タブーであったようだ。
背後霊の目は、
妖艶なまでのきらめきを、放射しはじめていた。
「ほう、またまた、ルゥさんはいけない娘ですねぇー。
ほんとうは羨ましくて、羨ましくてしようがないクセに」
「な、なんだとっ!」
「それに、聞き捨てなりませんねぇ。
それは、アレですかぁ……?
私は胸がおおきいだけの肥満体であり!
自分は細くて軽い、優雅な身体なんだとっ!
そのようにアピールしているんですね! あなたの性格上、ぜったいにそうに決まっていますよっ!
やっぱり、ほんとうに困った娘ですぅ。
まさに淑女に対する禁句ですよ、ソレはー。
もう、許してあげませんよ……!」
タコのように絡みつく、両腕と両足。
それは二度と離さぬとばかりに、力を増していった。
しかし特段、
絞め殺そうとしているのではないようだ。
見るからに戯れているだけ。
指し示すようにいくども、
上下左右へと、ルゥの身体をゆらしつづけていた。
「おい、止めろ! 止めるのだ!
というか! なあにをいけしゃあしゃあと! そのようなものを羨む道理などがあるかっ!
撤回しろぉ! すぐに撤回して、ついでに押し当てるのを止めるのだぁ!
その不必要に実った、虫酸のはしる脂肪の塊まりをなぁ!」
「ええー。ナニガナニヤラ。
スカーにはなんのことやら、わかりかねますねぇ」
スカーはご満悦のようである。
背中へと、愛おしそうに頬ずりまでしていた。
幸運にも、
ゆするのは中断してくれたようだ。
だが今度は無言のまま。
甘ったるくも熱い吐息を、うなじへと吹きかける。
という拷問を開始していた。
「……な、なんなのだ、コイツは。
う、うす気味悪い奴なのだ……」
暗雲につつまれるかのよう。
そのような気色の悪さを、ルゥは覚えていた。
肌が総毛だってしまう。
身震いもしてはいたが、
たちまちのうちに激怒していった。
強引に暴れて、振りほどこうとする。
だが対者は、格段に格上の妖異なのであった。
まるで自身の身体が、
大岩にでもくくりつけられているかのようだ。
ピクリとも動きはしなかった。
じつにうっとうしいものだ。
だがいちおう、精神面以外は無害なのであった。
ほどなくして、
ルゥはお手上げの心境へといたる。
気を鎮めようと息を整えた。
やにわに、深いため息がつかれる。
後背にひっついている変態。
記念すべき変質者二号へと、つぶやいた。
むろんのこと一号。
それがだれを指しているのかは、言わずもがなであった。
「まったく、まことに難儀な奴だな。
わかった。わかった。まあ、僕が悪かった。
たおやかな淑女を自称している者に、宣うセリフではなかったのだよ。
さあ、これで満足だろう? さっさと離してはくれないか?」
「……うーん。そうですか。
まったくといって良いほどに、反省している者の台詞とは思えません。
ですがまあ、良しとしましょう」
「うむ。ならば離」
「それではって、あっ!
ルゥさん、アンリさんが! あのアンリさんが、ようやく重い腰をあげたようですよ!
まるで、はかったかのよう。そうは思いませんか?」
「なぜ、二度言ったのかはわからん。
そのうえアンリ様に、あのをくわえる意味もわからんが、話しをそらすでない。
お前はまことに……。
しかし、僕も知覚してはいたぞ。
なにやら、部屋のなかでやられているようだな。
一体、なにをしている?
しかし、おそらくは……。
時を待たずして、こちらへと向かわれるのは明々白々」
うむ。やはり、か。
なんらかの方策により、
この場の顛末を知り得ていたのは、
昭然たるものではないか。
それはこのタイミングの良さが、物語っているのだから、な。
とルゥは内心でつぶやく。
鼻歌を口ずさみたくなるほどに、上機嫌であった。
しかし、そうは問屋はおろさない。
怜悧なる頭脳は即時に、
かん高い警鐘を鳴らしはじめたのだから。
そう、己の取り巻く現状。
残念にすぎる惨状を、思いかえしたからであった。
このような二人羽織を。
珍妙なる仮装を、まじまじと正視されては一大事なのだ。
手早くも、早急にだ。
問題を解決できなければ、それは死と類義である。
と、ルゥはあわてふためいた。
「おい! いますぐだ! いますぐに離れるのだぁ!
状況を考えろ! 状況を!
我が王を! アンリ様を! このような奇っ怪なる扮装でお迎えできるかっ!
あまつさえ! お前のとち狂った竜巻のせいにより! 燕尾服はシワシワの状態なのだぞ!?
それを整えるだけでも、どれほどの時間がかかってしまうか……。
もしも、笑われでもしてしまったら、僕は……。
そのような場合、貴様はどのように責任を取るのだ!?」
しかし、背後霊はどこ吹く風。
ピクリとも、動きはしなかった。
それどころではない。
誘惑するように、提案まで提唱しはじめる始末であった。
「ルゥさん、安心してください。
あなたも言っていたではないですか。
あの、アンリさんの、器は大海並みなんだと」
「おい、あのを強調するな」
「それならばこのような些事。
取るにたらない小事に、怒ると思いますか?
そのうえルゥさんは、このままのほうが好都合なんですよ」
「完全に無視されているようだが、ほう。
燕尾服がシワシワなほうがいい、その心は?」
「現状として、私は抱きついてしまっています。
そのためにほんとうに、燕尾服がシワシワなのか。
それを、うかがい知る方法はありません」
「ならば離れて見ろ。
と叫びたいのはやまやまだが、どうせ無視されるのだろうな」
「ですが、ですよ?
そのほつれた燕尾服こそがアカシとなり、証拠となるんですよ。
なぜならば、一目瞭然となっているんですからねぇ。
ええ、ええ。ルゥさんの渾身のがんばりが」
「ほ、ほう……」
「いやーそれはそれは、アンリさんの感動もひとしおでしょうねぇ。
やはり、さすがは俺のルゥだ。とさわやかにも」
「おおう」
「お褒めの言葉をいただくだけではあきたらずに、ですよ?
もしかしたら、むせび泣くほどに、喜んでくれるかも知れないんですよ?」
もはや、あからさまである。
秘める魂胆は、透けて見えてはいたのだが。
「そ、そうか? そうなのか?
ま、まことに、お褒めにあずかれるのだろうか?」
ルゥは焦慮しているのだ。
まんざらでもない顔をしていた。
「し、しかし、俺のルゥだ。は、言いすぎではないか?
あまりにも無礼かつ、不遜な発言でもある。
しかれども、なんという魅力的な提案なのだろうか……」
「そうでしょう。そうでしょう」
「フッ。やはりお前は、じつに老獪なようだな。
いまだ八歳の僕とは違い、二百年以上も、生を繋げてきただけのことはあるではないか」
「フフフ。ルゥさん?
あなたの言葉は、猛毒かナニカですか?
淑女に年齢は禁句なんです。
まったく、とんだヒャーなゴブリンさんですねぇ」
「フッ。すまない。許してくれ。
そういう意味合いで、述べたわけではないのだよ」
それにしても異様な光景であった。
二人羽織状態により、
悪巧みをしつつも、たがいに笑いあう姿形は。
しかし、そうは問屋はおろさない。
唐突にも周囲に、否決の叫声がとどろいたからであった。
「い、いいや、いかん! いかんぞ!
危ういところだった!
貴様の不埒な思惑に乗るなど、言語道断!
それにお前は僕を! 主君を騙さんとする不忠者へと! 成り下げるつもりなのか!?」
ルゥの背後。
自称、たおやかなる淑女の方向からは、
正体不明の舌打ちが鳴っていた。
「それに、無為な企てに終わるのはわかりきっているのだよ。
僕たちの悪しき魂胆など一瞬だ。
アンリ様は息を吸うように、解されるのは確定的なのだから。
それにしても、だ。
仲間となったそばから、お前はそのような企みを……!
お前は己の王を! 謀ろうとしているのだぞ!?」
「いえ、いえ。
そのような心づもりなんて、ありませんよー。
ですがすこしだけ、引っかかる部分が残っていまして」
「……なに?」
「私はたしかに決断しました。
あなたの手を取ったんですから。
それってつまりは、アンリさんが、私の王ってことになるんですよね」
「然りだ。当たり前ではないか。
お前は重々承知していたはずだ。
それがゆえに、僕の手を取ったのではないのか?」
「それはそうなんですが……」
「なんだ?
完全無欠なるアンリ様の、どこに不満があるというのだ?
もしや、アンリ様では王に足らんと、不服だとでも宣うつもりなのか?
だとするのならば……」
「いえ、いえ。本心から、そのような心づもりもいっさいないですよ」
「…………」
「前提として私より、ほんとうに強いのかという疑問はぬぐえてはいません。
ですが、王は戦わなくていい。
後方で、自信満々に座しているだけでいいんですから。
それにまあ、前に出たとしてもですよ?
かんたんに彼を殺せる者なんて、そうはいない。
それこそがようするに、アカシなんです。
十分すぎる実力がそなわっているという、証左ともいえるんですからねぇ。
といいますか、たとえか弱かったとしても、私に不満なんていっさいありませんよ。
なぜならば、彼には頭脳がある。
おぎなってあまりある、神算鬼謀の頭脳を持っているんですからね」
「うむ。よく事解しているようで結構。
ならば、引っかかる部分とはなんだ?」
「実感、ですよルゥさん」
「ふむ。実感、か」
「ええ、ええ。
あなたたちとならば、実現できそうだと思えるのが不思議です。
ですが、一から王国をつくろうだなんて夢物語。
しかもガルディード大森林に、ですよ?
あとは、接し方ですかねぇ。
私には、どのような顔をしてお迎えすればいいのか、わからない。
一度は敵意を向けてしまった私には、わからないんですよ……」
「うむ。どうやら、真剣な話しのようだな。
なればこそ、まずは離せ」
「あ、はい」
スカーは思い詰めた様子であった。
ようやく解放されたことに、ルゥは安堵する。
少しだけ距離を取ると、向きなおした。
シワシワとなった燕尾服。
その裾を整えつつも、ニヤリと笑った。
「普段通りでいいのだ」
「ええ? 普段通りで、いいんですか?」
「ああ。なにも心配などいらない。
あまつさえお前が、もうひとつ引っかかっているだろう部分。
ゆるがぬ忠誠心すらもが、いまは不必要なのだよ。
肝要なのはひとつだ。
それはアンリ様が、お前を欲したという事実にほかならない。
つまりは、だ。
軍門に降ってはいるのだが、お前はお前らしく在ればいいのだよ、スカー。
なぜならば、彼のお方の器量は天井知らずなのだから。
なんらかの不都合があれば、その都度おっしゃるだろうしな」
「そう、ですか。私らしく、ですか。
なにか自信がわいてたような気がしますが、それが一番、ヤッカイな難題のようにも思えますねー」
暗雲晴れたかのよう。
スカーはニッコリと微笑んだ。
ルゥも居丈高な微笑により、呼応してはいた。
いたのだが、つぎの瞬間である。
スカーが大声を張りあげたのであった。
「る、ルゥさん!
もうすぐ、アンリさんが来てしまいますよ!
時間が! 時間がありません!」
「お、おお! そ、そうだった!
このような、なんの意味もない不用品。
脂肪のかたまりをぶら下げた者に、この僕としたことが無様にも、拐かされるところだったではないか!」
とんでもない罵詈雑言であった。
スカーはほがらかに微笑んだ。
あわてふためくルゥ。
彼女の背中側へと、音を消してにじり寄った。
「アンリさんが、ほんとうは怒り心頭で、とてつもない形相で肉薄されたらどうしよう……。
すみませんがちょっと、ルゥさんのほうに寄っておきますねぇ」
ひとつしかない部屋の扉。
入り口の方向へと、
ルゥを前面に押しだしては、盾にしているかのようだった。
深い裂傷を負った壁の鏡面。
そのまえでルゥは、せっせと身だしなみを整えてはいた。
しかしアンリよりもさきに、
彼女のほうが怒り心頭である。
変質者一号いわく、
とても愛嬌のある面貌を、赤く上気させつつも怒鳴りあげた。
「おい! この期におよんで僕を、人質にするでない!
僕たちをイカれている、イカれているなどと宣っていたが!
心底イカれているのはお前のほうだ、スカー!」
「ええー。だって私、怖いんですよー」
その声色はなだらかである。
ちっとも、怯えているふうには見受けられなかった。
それどころか、
あたふたとせわしない背中へと、スカーは額を押しつけていた。
ルゥは跳ねのけようとする。
だが力が足りていないのだ。
そのうえ、時間は待ってはくれないのであった。
これまた、諦めの境地により無視。
鏡面を凝視するまなこは鋭い。
身だしなみのチェックには、余念がなかったのだが。
「……ああ」
つぎの瞬間であった。
銀鏡に映りこむ自信の装いに、とある変化を発見したのだ。
飛びあがるように錯乱した。
「……ああ! ああ!」
「おお!
ど、どうしたんですか、いきなり! 心臓に悪いですよっ!」
スカーはギョッとしていた。
「ない! ないのだ!」
「なにか、大事なものでもなくしたんですか?
こ、これは私のせいですかね……」
「どこだ? どこへいった!?」
ルゥはあたふたと忙しない。
うら悲しげな視線は上下左右。行ったり来たりしていた。
そして、見つける。
切実に探し求めていた、星形のソレを発見した。
スカーの不可視の竜巻。
その暴風により、吹き飛ばされていたのだろう。
ソレは無情にも、うす汚れている。
ガラス片にまみれた姿により、床に落ちていた。
ルゥの顔面は蒼白である。
一声すらも出せなかった。
親の亡骸でも視認したかのよう。
一歩一歩、進んでいった。
ガラス片で、傷を負う可能性もいとわない。
床へと、ガックリと両膝をついた。
わざわざ、両手をもちいる。
ソレを優しく拾いあげていった。
後悔の念により脱力しきった風貌。
その震える姿態からは、寒々しき悲壮感がにじんでいた。
「な、なんということだ。
ぼ、僕の桔梗の花、飾りが……。
一番に、アンリ様にお見せしたかったのに……」
「こ、コサージュだったんですか……。
私てっきり、親の形見でも壊してしまったんじゃないかと、怯えていたんですが」
穢れなき乙女のような科白。
セリフには、スカーも拍子抜けしているようだった。