繋がり合う手と手
「不可解に、すぎる。あまりにも不可解ではないか……」
ルゥは眉間にシワを寄せていた。
さも不審げな面様だ。
右ななめうえの虚空へと、視線は向けられている。
両腕を組みつつも、左手は顎先にそえられていた。
右手に掴まれているステッキ。
その先端は、床の鏡面を一定感覚でつついている。
まるで、懐中時計が時を刻むかのようだ。
コツコツと小気味のいい音が、あたりへと響いていた。
スカーは不思議そうに問う。
「ええっと、なにがでしょうか?」
「うむ」
亜人を形取る粘体へと、ルゥは向きなおる。
思案に明け暮れているかのような形相のままに。
ふむ、とひとつ嘆息してみせる。
首を横に振ると、
不可解にすぎる難問を提唱した。
「言わずもがな、リオの不可解にすぎる動向にかんしてだ」
「リオ様の、ですか?」
「ああ、まことに不可解なのだよ。
ありていに言って不自然。
与えられた僅少な情報から鑑みるに、な」
「……それは」
ようやく意図を汲み取ったのか。
指し示すかのように、
スカーの容貌はとたんに陰っていった。
それは、憂愁めいた感慨からにほかならない。
とルゥは即時に判断してみせる。
よどみのない声により疑問をていした。
「それこそ知れたこと、ではないか?
二百年にわたる永き日々は、苦汁を舐めるかのよう。
で、あるのならば、煩悶にさいなむ生を送ってきた貴様こそが、もっとも知覚していなければならないのだから」
「……ルゥさん。バカな私には、わかりませんよ」
純然たる否定の科白。
それはうむを言わさぬ、迫力をともなっていた。
それ以上、つづきを言わせない。
それがゆえの暴圧なのか。
鳴りをひそめていたはずの偉力。
無色透明なる魔力の波動は、まがまがしい。
突如として、
真っ白な皮膚の毛穴という毛穴から、漏出しはじめていた。
根本から毛先に行くにつれて、
一寸きざみに透き通っていく頭髪。
夥しき紅の毛髪はうつくしい。
海底で、水流の影響を受ける海藻のようにうねっていた。
紅玉をほうふつとさせる深紅の瞳は、重々しい。
憂慮じみた情動で、
にごっているかのように察せられていた。
数メートルさきに位置する相手。
妖異の出方を、ルゥは注意深く見据えていた。
ステッキのグリップは、
か細くもとがった指先により、愉しげにもてあそばれている。
怜悧なる頭脳は、妖艶にもきらめく。
熱い滾りを抑制するようにつとめていた。
さあ、絶望にうちひしがれるのだ。
内面では獰猛な獣が、
歯牙を剥きだしにして咆哮している。
そのようなさなか、
ルゥは生真面目な表情により、さとすように断言した。
「いや、貴様は知覚しているのだ」
スカーは無言だった。
重々しい雰囲気をまといながらも、
微動だにせず対者を見つめていた。
「絶対の必定であり、理なのだよ。
大森林内に、おごそかにも選定されている序列は。
で、あるのならば、最上位に属しているはずの魔王たるリオは、無敵の看板を背負っているにひとしいのだぞ?
あまつさえ、長命種。
いまだに寿命が尽きていないという事実は、ひとえに暗唱しているではないか。
その渦中にあって、二百年もの永き期間、ただの一度も、我が子同然の貴様に顔を見せ」
はじかれるようにスカーは言った。
「……ルゥさん! お願いです! それ以上は……!
わかっています! わかってはいるんですよ! 臆病な私は、気づかないようにしていただけなんです……!」
いまにも消えてしまいそうな金切り声。
それは判然なまでにうち震えていた。
胸廓上の斜方形は、
濃密な黒が混成する緑色により、繰りかえし光を放っている。
ひきつる容貌。
荒くなる息づかいはひときわ、優艶であった。
つぶらな瞳には、微量の水分がにじんでいる。
刺々しき悲壮感がありありと、表れているかのようだった。
しかしこの現状も、
ルゥの描く絵図の範疇を逸してはいなかった。
上げて落とす。落差こそが肝要。
いまは馬鹿のひとつ覚えのように、
反復しつづけることが必須である、と考えていた。
なればこそ、遠慮はしない。
かぎりなく煽動しつつも、温情するのだ。
無防備にちぢこまる情感を、
浮き彫りにさせることこそが、目的なのだから。
スカーは力なく立ちすくむ。
顔をふせていた。
ルゥは気にもとどめない。
真正面から相対していた。
左手を腰に当てる。
緩慢な動作で左寄りに小首をかしげる。視線が合うのを待った。
しかれども、顔は上がらない。
ルゥは痺れを切らした。
やむを得ない。
と再度、無慈悲にも希望をちらつかせにいった。
こころみたのだ。
悲歎に暮れる少女の胸臆へと。
ずかずかと、あけすけにも浸入しようとばかりに。
「おい、誤想するなよ」
「は、い?」
スカーは呆気に取られていた。
しごく、当然である。
予想外な発言もそうではあった。
だが驚愕せざるを得ない、
もうひとつの仕草を目視してしまったのだから。
それは、ルゥには不似合い。
難解なことこのうえなき、かすかな照れ笑いであった。
「なんと説明すれば良いのか……。
うむ。そうだな。こういう場合は思考をまとめるのが肝要だろう。
第一にだ。
僕は嘘偽りなどなく認識している。貴様はまがうことなき敵者だと、な。
だが、もうひとつ言っておくぞ。
僕は貴様を、毛嫌いなどしていない。
それどころか、敬するべき強者だったとも想起しているのだ。
なればこそだ。
追い詰めて、悦にひたろうなどという魂胆も、さらさらないのだよ。
しかし、誤想するなよ?
これは温情や共感などという不要な情動から、貴様をおもんぱかっているわけではない。
しかれども僕自身、よく解せていないのだ。
なぜつい先刻、あのような言動を、宣ってしまったのか」
歯切れ悪くも、ぶっきらぼうな言い様であった。
ルゥは、ばつが悪そうに視線を落とす。
その年相応な少女めいた振る舞い。
照れくさそうな声に、スカーは息を呑んだ。
とぎれとぎれの、哀切なる吐息がもれている。
「ルゥ、さん」
もちろんのことである。
天の邪鬼かのような振る舞いは、
ルゥの演技にほかならなかった。
怜悧なる頭脳が描いた絵図。
計謀の道筋を、たんになぞっていただけ。
綿密に演じていただけなのだ。
内心ではさも愉快だと、
ギザギザの歯牙をひけらかしていた。
平常時の貴様は聡明にすぎる。
演技なのではないか、と訝るのは明々白々。
しかし、で、あるからこその現下。
現状の貴様は、感情の抑制がきかぬ有り様なのだ。
突きとめるのは、至難の技と言えよう。
そして万が一。
到達したとしても無駄骨。無意味。
なぜならば、いまの貴様の本質は強者などではない。
決して光明を無視できぬ、ただの臆病者に成り下がっているのだから。
手向かえない。
抗えなどしないのだよ。
それがきわめて、自身に好都合な虚像だとしても。
うすうすどころか、明白なまでの罠だと自覚していたとしても。
視界の中心で、羽虫のように、
煩わしくもちらつくまばゆい希望は、先鋭にも甘いのだから。
スカーの喉が鳴る。
判然なまでに、その瞳はぐらついていた。
ルゥは顔をふせている。
黙りこんだまま。胸のうちで時を数えていた。
然りである。
いまは保留こそが必須。
無為な言葉になど価値はない。
と、判断していたからだった。
なぜならば、怜悧狡猾なる小鬼族。
ルゥの読み通りであるのならば、転じる。
さみしがり屋の粘体は、動くのだ。
なかば縋るように行動に移すのは、必然と言えるのだから。
見渡すかぎりの鏡面は、
両者の思い思いのたたずまいを、幾重にも射影していた。
幾許かののちである。
ついに、スカーが行動を起こした。
覚悟を決めたのかもしれない。
威勢がよい握り拳。
恐れの感情が、ありありと巣くう瞳孔。
しかしその瞳には決意が。
ゆるぎのない信念が、かいま見えているように察せられた。
その口がゆるりと開かれていく。
ついで響きわたった声音は、砂糖菓子のように甘々。
それでいて、ひしひしとした、
切実さまでもを包含しているようだった。
「ルゥさん。
これが私の、最後の謀のようです。
つまらないかも知れませんが、私の胸のうちを。
バカみたいな昔話を、聞いてくれませんか?」
ルゥは真面目な表情である。
うなずくと、つづきをうながした。
「そうですか。ほんとうに良かった。
あなたに聞いてもらいたいのは、この二百年のあいだの滑稽な私。
そして、バカみたいな昔話なんですよ。
それはそれは、ひどかった。
狂ってしまいそうになるほどの、期間だったんですよ。
目がさめれば、来る日も来る日も、隠れ家の維持に追われる生活で。
いつ来るかもわからない、お客さんを待ちつづける、無為に近い一日を繰りかえすだけで……。
ルゥさん、わかりますか?
いえあなたの頭脳ならば、独りぼっちだった私の気持ち、理解してくれますよね?」
ルゥは平坦な声色を返した。
無機質にさえ、うかがえるまなこのままに。
「それは、想像を絶するようなまでの、千古不易なる虚無。
そして、とこしえに募りゆく空虚さは、身を切るような拷問と化していたのだろうな。
苛烈な劣情はその身を焦がす。日に日に肥大しながらも、全身をめぐりめぐるのだよ。
そう、見限れはしない希望に。
楯突けはしない絶望が。
それはまさしく、牢獄に類似している。
言うなれば、外界から遮断された光り差さぬ世界に、独りきりで取り残されているようなもの。
無実なる隠れ家という名の孤独の檻に、二百年という永き期間、貴様は幽閉されていたのだよ。
そして滑稽なる貴様は望む。
うすうす、無為だと事解していながらも、探し求めていたのだ。
保留する者特有の思考を放棄して、錆びついた鉄格子のわずかな隙間から、もとから存在すらもしていない希望の光を、な」
情け容赦のない科白。
その響きが、しだいに失せていく瞬間だった。
まるで、メトロノームかのよう。
スカーの姿態がおぼろげに。
残像を残しながらも、ゆり動きはじめたのであった。
激しい動悸。荒い息づかい。
幽鬼めいた少女は、苦悶の表情をあらわにする。
交差するように、
両の手のひらで自身の喉を掴んだ。
鮮明に、血管が浮きでる両腕。
胸廓上の斜方形は明滅していた。
真っ黒にかぎりなく近い、紫色により。
えもいわれぬ戦慄が走る。
一声すらも出せぬ緊迫感が、あたりを征しているようだった。
「ええ、そうです……! そうなんですよ、ルゥさん!
おかしい、ですよね。
私は、孤独の檻に閉じこめられていたなんて!
この私が、いつの間にか、あわれな虜囚に成り下がっていたなんて……!
毎日、毎日、ほんとうにバカみたいに……。
無駄なのに。
無為に決まっているのに。
ただただ言いつけを、守っていたんですよ、私は……。
いつか逃避への扉が開かれるのを、開かれるはずなんてないのに!
お客さんを、人の暖かみを、切実に心待ちにしていたんですよ!
……ですが、それは嘘です。ごめんなさい。
ほんとうに、私が待ち侘びていたのは一人だけ。
一人だけ、なんです。
この世界のたった一人。
そのたった一人だけが、帰ってきてくれるんなら、それで良かった……。
……良かったんです。
そう、かならず戻ると、言っていた、あの嘘つきが」
いやにクリアな響き。
おぞましさすらもを、
ただよわせる吐露が消え失せる瞬間だった。
空漠たる幽鬼。
その骨身から無色透明の偉力が。
絶大なる魔力の波動が、ほとばしったのであった。
たけり狂う暴風。
夥しき紅髪は、四方へと振り乱されている。
あられもない姿態をさらしていた。
猛烈なる激情をともなったのか。
蝙蝠の両翼は荒々しくもはためく。
胸廓上の斜方形は、
鮮血のような赤黒さにより、煌々と明滅していた。
しかしながらである。
ルゥは平然な顔をしていた。
吹き飛ばされそうなほどの突風。
その明晰なる激情を、
脆弱なその身により、真正面から受けて立っていた。
凶暴なる幽鬼から視線は外さない。
隠秘されている心のうち。
裏の顔では、ニヤリと口許を曲げていた。
そうだ。それでいいのだ。
溜まり溜まった膿を、
魔王への怨念じみた情念を述懐させて、
貴様はつぎの、段階へと至る時期にきているのだから……。
「おかしいんです!
あきらかにおかしい! そんなのおかしすぎるではないですか……!
だって、どうせ! あの嘘つきの寿命は尽きてなんていない!
しかもあんなに強い嘘つきが!
いったいどこの誰に! 殺されるっていうんですか……!?」
猛々しくも、鬼気迫る口舌。
呼応するように、
漆黒の二翼は、より力強くはためいていた。
そして知らぬ間に、
幽鬼の両横には不可視の暴風が。
守護しているかのように、二対の竜巻が出現していた。
断続的に、閃光がまたたく。
竜巻にも、その体躯にも、
いくえにも稲光が走りぬけていた。
つややかな六の鏡面は我関せず。
刻名に映しだしていた。
狂騒に逆巻く、深紅の双眸を。
たけり狂う暴状の偉力をまといし、
絶佳なる幽鬼の姿形を。
たとえるのならば、台風。
猛々しき雷雨。
そのような過酷な状況により、
しだいにルゥの態勢はくずれはじめていた。
短めの黒髪が暴れ踊る。
燕尾服は、気流の抵抗を受けてなびいていた。
ルゥの体重は微々たるもの。
なればこそ、吹き飛ばされそうなほどの風力であった。
しかし、前傾姿勢をたもつ。
目の前でかざした左腕により、暴風をさえぎる。
四肢に、あらんかぎりの力を入れて耐えつづけていた。
焦げ茶色の双眸に色はない。
恐怖心など微塵もなかった。
それどころか説明のつかぬ、
一種異様な威圧感が、かすかにもれ出ていた。
むろんのこと、
内面のうすら笑いも継続されている。
ただ忍び、待っていたのだ。
攻勢に移るべき機会。歓喜の時を。
やがて雷の竜巻は、
そのとてつもなき風力を弱めはじめていた。
鮮明とあらわになっていく、幽鬼の姿形。
ときおりのそりと、雷光が這う真っ白な皮膚。
優美だった容貌は凍りついている。見る影もなかった。
冷淡さはらむ紅き双眸は、小鬼族を。
能面を張りつけたようなルゥの面貌を、映しだしていた。
ついで、淡白なる声音がひびく。
「ええ、そうです。
私はそこまでバカではない。わかってはいた。いたんですよ、私は。
ルゥさんの言うとおりなんです。
希望を見限れなかった。
絶望に楯突けなかった。
私はただ、保留していただけなんですよ。
事実は変わらないのに、事実を事実と認めるのが怖くて、事実から逃げていただけなんですよ。
リオ様は、あの嘘つきは私を、裏切ったんだという真実を。
調子のいいことを言って、どうせはじめから帰って来るつもりもなかったクセに……。
……ルゥさん。ありがとうございます。ただ保留するだけの私に、現実を認めさせてくれて。
いまの私ならば、たからかに宣言できるんですよ」
神々の領域へと、足を踏みいれている臆病な少女。
鮮血の翼粘体は、猛々しくも咆哮した。
その声は、明確な憎悪に満ち満ちている。
毒々しき死の臭気を、ただよわせているかのようだった。
「アイツは……、あのクソ野郎は……!
どうせ、忘れているんですよ!
いまごろ私のことなんて忘れて、気心の知れたお仲間たちと楽しくやっているに決まってます……!
どうして……。
どうして、そんな非情な振る舞いができるんですか……。
我が子を、私を、裏切るなんて、非道を……」
尻すぼみに弱々しくなっていく、悲痛な叫び。
生命の息吹きすらも薄弱とした風貌。
スカーは、顔をひた隠すようにうつむく。
すると吹き荒れていた旋風も、間髪いれずに消散していった。
こゆるぎもしない漆黒の両翼。
ふわりと、ゆるやかに波打つ紅髪。
一室から、ありとあらゆる雑音がかき消えていく。
氷が張った早朝のように、しんと静まりかえっていた。
すなわち、
許されざる裏切りという不義。
血も涙もない不実。
嘘こそが、スカーを臆病者へと、
落ちぶれされた一因だったのかもしれない。
ほどなくして、
嘆いていた少女の顔が上がった。
人間味を感じさせない表情のまま。ルゥを正視していた。
真っ赤に充血した目許からは、
哀情の念が一筋の涙となり、こぼれ落ちては頬をつたう。
顎先から首許へと流れ落ちた水分は、
喉を這う紅髪に触れて消えた。
「……ええ、ルゥさん。
そうです。あなたならば、気づいているはずです。
絶大な偉力を持っていようが、比類なき妖異であろうが、私はただの臆病者なんだと……。
まさしく無為で、身を切られるような空虚な毎日に、まざまざと思い知らされてもいたんですよ。
私はただの、さみしがり屋のスライムなんだと……。
はやく終わってくれないかと、私はせつに願うようになっていました。
ですが、開かない。どうせ開かないんですよ。
明白ではないですか? 二百年間、一度として開かなかったんですよ?
それならば、奇跡なんて起こらないし、起こりようがないでしょう?
未来永劫として、扉は、開かない。
そうです。私は生きる屍だった。
気力なんてものは数十年すらたもてずに、とうに尽きていたんですから。
もちろん、私だって外に出ようとは何度も考えましたよ?
でも、できなかった! できなかったんですよ、ルゥさん!
ほぼ生まれと同時にここに迷い込んだ私には! ここ以外の場所なんて知らない……。
それどころか、ここを出たって私にはなにもないんです。
あの嘘つき野郎は魔力の隠蔽が得意ですから、出たからといって、その居場所がわかるわけではない。
そのうえ、外はガルディード大森林。私をたやすく越えていくような、モンスターだっているかも知れないんです。
だったら、保守的になるのがしごく当然ではないですか。
そしてもしも私が、無実なる隠れ家の管理人を放棄した場合、その肩書きがなくなるのが、怖かったんです……。
ほんとうの意味で、あの嘘つき野郎との絆が、たち消えてしまうと思ったから。
いま思えば……、クソみたいな値打ちのない絆でした。
ですがそれこそが、この臆病者に取ってのすべてであり、心の拠りどころでもあったんですよ……」
告げられた嘆声は痛々しかった。
しかしまたたく間にである。
弛緩しきっていたその全身は、
急激に覇気をみなぎらせていった。
極限まで、開かれた目は奇異。
瞳孔はちいさく変容していた。
やにわに、
花の妖精と思しき陽気さで、ぱっとほころぶ。
緩慢な動作により、
胸の前で両手を合わせた。
それぞれの指を絡ませていく。
場にそぐわぬ行為。
神に祈りをささげているような物腰は、
つつましくも幻妖的である。
しかし見るものを竦みあがらせるような、不気味さに満ちていた。
「ですが! そう! その時なんですよ!
ふいに、あなたたちが現れてくれたのは!
まさに奇跡、でした……。
開くはずなんてない。なかった! 逃避への扉が開いたんです!
奇跡が、人のカタチとなって現れてくれたんですから!」
うって変わり、
スカーの全身は紅潮しはじめていった。
「それはそれは狂喜乱舞ですよ!
嬉しくて。嬉しくて。
それはそれは、涙が出てしまいそうになるほどに……。
フフフ。
いえ私は、スライムの外形だったんですから涙は出ませんがねぇ……。
アンリさんは底が見えない変態野郎でビックリしましたが、むかしから友達だったかのようにかけ合いをしてくれて。
ルゥさんは……。私、ルゥさんに言いましたよね?
忌み子なんて関係ないって。大切なのは心なんだって。
……あれは、本心だったんですよ。
まあかくいう私も、その忌み子だったようなのが笑えますが……」
自嘲ぎみに笑う。
「あの時、ルゥさんは、握手しようとしてくれたではないですか?
私、生まれてはじめてだったんです!
握手もそうですが、はじめて、同性のお友達ができたと思ったんですよ……。
それは小躍りしてしまいそうなほどに嬉しくて、嬉しいことで。
……ですが、それは嘘、だった。
ああ、私はまた裏切られたんだ。裏切られてしまうんだ。
やっぱり、この人たちは、あの嘘つきのように、私をこの牢獄へと置き去りにしていくんだ。
それを自覚した時、なんです。
私は私ではなくなってしまった。私を、暴走を、止められなかったんです……。
ごめんなさい。悔しかった。悔しかったんですよ、私は」
陰気なたたずまいも相まって、
謝意の言葉は、悔恨の念に怯えているかのようだった。
さりとて、計画通り。
ルゥは冷静沈着なる心持ちである。
平たくも、閑やかな声音で述べた。
「そうか。すまなかったな。
かくいう僕も、一心不乱な心情だったのだよ」
「いえ! ルゥさんに落ち度なんてありませんよ!
……間違えたのは私。私、なんですから……。
まずは様子見が無難と、決めこんでしまったのが、そもそもの間違いだったんです。
出会いの時から。
ことのはじめから私が。
あなたたちに、気持ちをさらけだせていたんならば、もしかして……。
……ですが、あとの祭りです。もう、戻れはしないんですよ。
どうしてか私、そこまでバカじゃないんです。だからこそ、気づけているんですよ。
たいせつなルゥさんに、敵意を剥きだしにしてしまった私を、アンリさんは決して許しはしないんだと。
そして、念頭に置いていた実力行使でさえも、まるで意味がなくなってしまった。
でしたら、ここは不要……。
ルゥさんは頭脳明晰。そのうえ、アンリさんという強力な後ろ楯がある。
それどころか、彼にはここがなくたって、生きぬけるだけの力がそなわっているんですから……。
当たり前です。
私のような危険な存在と、いっしょにいる必要性なんてまったくありません。
だからこそ、あなたたちは、出て、いくんです。
孤独の檻に。
無実なる隠れ家に、私だけを置き去りにして……」
ゆらりと、スカーは顔をふせた。
力なくずり落ちていく両腕。
それは、振り子めいた揺動を繰りかえしていた。
たゆたう紅髪はベールのようだ。
その全身を、すっぽりとおおい隠していた。
しかし、異様なほどに真っ白な足下。
膝下だけは見えている。
くっきりと浮かびあがっているようだった。
もちろん、そこから感情を読み取ることはむずかしい。
しかしその場に、はびこる空気が一変としたのであった。
なればこそだ。
明瞭なまでに想察されていたのだ。
その秘められていた情念は、
ルゥの推察の通りの暴挙であり、邪悪な類のものである、と。
つかの間のすえだった。
大吹雪をほうふつとさせる勢威が。
凍てつく魔力の波動が、
妖異と化した少女の骨身から、爆ぜるようにほとばしったのであった。
赤髪のベールを吹き飛ばす。
絶無を具象化しているかのよう。
感情のない、深紅の瞳があらわとなった。
絶え間なく電流が走りぬける、体躯。
凍りついた表情。
胸廓上の斜方形は点滅していた。
光りとどかぬ、深海をほうふつとさせる闇色により。
殺意がこめられたような威風は、
乱暴狼藉にも逆巻いている。
空間という事象を、
たやすく湾曲させて、ねじ曲げているかのようだった。
枯れ木をへし折るような音が鳴る。
一筋、二筋と。
壁の鏡面には、連続して亀裂が入りはじめていた。
しかし、ルゥは意にかいさない。
あえて、真正面からの対峙を選択していた。
視線が合わさるまで幾許か待つ。
真摯なる容貌のままに、軽口をたたいた。
「謝罪の言葉は不要だ。
いぜんとして僕は、貴様のことなど信用していないのだから」
「そう、ですよね?
だったら、私は。……わたしは」
終尾に吐かれた四文字。
その口上だけは甘くない。
別人と錯覚するほどに低音だった。
それはまるで、
ありとあらゆる怨念の集合体が、
凝縮されて、一粒の結晶になったかのよう。
聞いた者すべてを、総毛立たたせるであろう余韻であった。
誘因されるかのように。
深紅の双眸は、
不憫な被食者の姿を映しこんでいた。
重力という法則を無視して、
床から数センチほどの高さで、たゆたうように浮遊している。
ゆらめく幻影を後背に引きつれて、
にじり寄ってくるそれは明らかな死、そのものだった。
しかし、ルゥはゆらがない。
底意地の悪そうな微笑のまま。
目と鼻のさきまで、妖異を誘いいれていった。
焦げ茶色と深紅。
それぞれの色彩をおびる瞳は、
呼吸すらも聞こえるほどの間近により、
たがいの風貌を映しだしていた。
そして、唾棄すべき。
と称した生涯が潰える瞬刻、悠々とした声色で制した。
「だが、な」
眼前まで迫っていた死の体現者。
幽鬼の挙動が、いやおうもなく静止された。
そう、この時を待っていた。
待ち侘びていたのだ。
この時のためだけに、
迫真の演技により謀り、
知者の思考を誘導しつづけてきたのだから。
ならば、一息に掬い上げてやろうではないか。
絵空事のような希望により、
五里霧中の暗闇に置き去りにされていた、胸臆を。
深淵の底で、
業火と化した希望に、その身を焼かれつづけている臆病者を。
ルゥは滾りを抑えられない。
全身の血液が、沸騰しているかのようだった。
眼前の臆病者を睨めつける。
ふいに、悪戯っ子と思しき笑みをこぼした。
そして、簡潔にも宣言してみせる。
「戻れるぞ」
ありとあらゆる現象が、
こつぜんと絶えてしまったかのような空虚。
森閑とした局面が展開されていた。
幽鬼と化した少女の、
筋繊維が一度だけ、跳ねあがるように痙攣する。
茫然自失たる偶像へと、変貌を遂げていった。
目先にあるひょうきんな美術品。
石像をルゥは、
角度を変えながらも、思う存分満喫していた。
数秒ののちである。
ようやく再起動に成功した少女。
スカーは、戸惑いを隠しきれない様子であった。
目の開閉を何度も重ねている。
紡糸をほうふつとさせる音吐をこぼした。
「……る、ルゥさん。いま、なんと、言いましたか?」
ルゥは少しばかり後ずさった。
煩わしげに眉をひそめる。
しかし発せられた声は、たいそうな悦びに満ちあふれていた。
「いたしかたない、奴だな。
ならば、もう一度だけ言ってやろうではないか。
戻れるぞ。戻れるのだよ、お前は。
なぜならば、誤想していた。
そう、お前はことの本質を、たんに読み違えていただけなのだよ」
「よ、読み違えて、いたとはいったい……」
「うむ。もともとの前提条件を違えていたのだよ。
なぜと問うに、お前の渇求して止まぬ希望には、僕の意思や腹積もりなどは必須ではないのだから。
ありていに言えばお前は、王の思し召しを乞えばよかっただけ、なのだよ」
「ルゥさんではない……? アンリさんの思し召し……?」
普段の聡明なる淑女。
スカーであるのならば早々に、
意図を汲みとれていたのかもしれない。
しかし、いまは状況が違うのだ。
困惑げにオウムがえしを繰りかえす、
残念な少女と成り果てていた。
「まだわからんのか?
では、僕はなんだ?
そう、僕はただの臣下にすぎないのだぞ?
なればこそではないか。
お前は、僕に願う必要性など皆無だったのだよ。
ことの決定権を、僕が手にしているという前提自体が、そもそもの見当違いなのだからな。
もとより、僕がなにを企てようとも、なにを進言しようとも定めうるのは一人。
そう、総ては王に帰結するのだよ。
ほかでもない、アンリ様だ。
我が王こそが、例外などなく、総ての其の儀に裁定を下すのが然り」
「……え、ええ、たしかに。
その通りですよね。
私でもよくよく考えてみれば、うなずけはしますが。
ですが、あの、ルゥさん。
アンリさんは、怒っているんではないんですか……?」
スカーはうろたえているのか。
猛威を遺憾なく発揮していた漆黒の両翼も、
凛然たるまつげも、ピクピクと動いていた。
まさに、借りてきた猫のようである。
胸郭上の斜方形は、
薄弱としたグリーンで、ゆったりと点滅していた。
ルゥはしたり顔である。
乱雑になっていた黒髪を、手櫛で整えていく。
もったいぶって間を取った。
おもむろに人差し指を立たせる。誇らしげにひけらかした。
「不可解、ではないか?」
「な、なにがでしょうか?」
「お前であるのならば、とうに事解できているはず。
たあいもなく即時に、知覚できているはず、なのだがなぁ。
容易に察せられるではないか。
現下のアンリ様の所在が、どこにあるのかくらいは、な」
「えっ……所在、ですか?
それはまだ、隣室のままのようですが……」
歯切れの悪い声は、
とまどいの感情をさらけだしていたのだが。
「ど、どうして……?」
なにかに思いいたったのだろう。
愕然とばかりに、その目は見開かれていった。
「もう、終わっている。
決着はついているはずなのに。
そのうえ、このような状況下だというのに。
彼は動いていない。動かない。
どうして、動かないの?
……それならば、動かないだけの理由があるということになって」
さえぎるようにルゥは言った。
「うむ。そうだな。
舞台の幕はとうに降りているのにもかかわらず、だ。
彼のお方は、一歩すらも微動だにしてはいないのだよ。
しかし、その答えは明晰ではないか。
むろん、僕が人質だからなどという戯れ事ではないが、な」
「人質、ではないんですか……?
でしたら、考えられるのはひとつ。
まだ決していない事柄がある。
そしてそれは、ほかでもないルゥさんに。
あなたにできるお仕事が残されていた、とでも言うんですか……?
ですがあなたでは、私を殺せるわけがない……」
「当たり前ではないか。
そのようなたわけた任務では断じてないのだ。
このように脆弱にすぎる僕が、お前のような馬鹿げた魔力のかたまりなどを、滅せられるはずがないのだからな。
慈悲深くも、信頼されて花を持たせてもらえた僕には、重大なる仕事を一任されていたのだよ。
一体、それはなんだ?
たったひとつだけ、存在しているではないか。
刻下の僕にでもできうる任務が、たったひとつだけ、な」
知的な少女の面もちを、
スカーは取り戻しつつあった。
沈思黙考といった様相だ。
眉間にシワを寄せつつも、顔をふせた。
口は開いたり閉じたりと、せわしない。
どうやら、発語しているようにも見受けられるが、
かすかな声すらも聞こえなかった。
ほどなくして、なにかを想起したのだろうか。
バッと顔を上げる。
悠然とした声により口をひらいた。
「ルゥさんは、戻れると言った。
でしたらその任務とは、もしかして……私の引き抜き、でしょうか?」
ルゥは満足げにうなずいた。
「ようやく、聡明な頭脳へと回帰しつつあるようだな。
うむ。正解だ。
僕に課された任務は、勧誘にほかならない。
しかし、もうひとつだけあるのだよ。それはお前の危」
仕返しのつもりなのだろうか。
さえぎるようにスカーは言った。
勝ち気な少女然とした、雰囲気をただよわせながらも。
「……私の危険度の確認、ですね?
そして同時にそれは、私というスライムの本質の調査でもあった」
ルゥは横柄な態度で首肯した。
「ふむ。やはり、お前は白痴などではないぞ。
もはや、尊敬に値するほどに小賢しいよ。
聡明なる妖異と認めざるを得ない」
「そう、でしたか。
……私とあなたがた。もとから、双方の陣営が求めるものはいっしょ、だったんですね。
ですが私の要求を知ってはいても、あなた方には、それを簡単に呑めない理由が存在していたんです。
それは、私というスライムの危険度だった。
ええ、ええ。よくよく考えてみれば、ほんとうにうなずけますねぇ。
威度を上昇させる切り札を、アンリさんは持っているかも知れない。
ですが、どこまで上昇させようが関係はないんです。
上位種である私に、あとあと裏切られては被害はじんだい。
それどころか、大切なルゥさんを失う可能性がかぎりなくあった。
じょうだんではなく、私があなたを溶かすのには、数秒もかからないんですから。
だからこそ、そのように推測したあなたがたは、謀の布石を打ったんです。
それはルゥさん。
か弱く、守らなければならないはずのあなたを囮にする。
という、あまりにもフザけすぎた、バカげた奇策。
フフフ。あなたの言うとおり、まさに未来を先読む慧眼、ですよねぇ。
ふぅ。興奮してしまいますよ、ほんとうに……。
そして、信じられて送り出されたルゥさんは、期待に応えるように大任を果たした。
完遂してみせたんですよ。
つまりは滑稽にも、私は踊らされていただけだった。
本性を、さらけ出させられてしまったんですから。
そして、それだけではあきたらずに。
一番重要な部分にも、たどりつかれてしまったんです。
それはあの嘘つき野郎から、かんぜんに私を引き抜けるかの調査。
まさに脱帽ですよ、あなたがたのイカれた頭脳には……」
「フッ。正解、だ。
もう少し、脆弱でもあれば、別の道も用意できたのであろう。
が、お前は危険にすぎてしまったのだよ。
のちの獅子身中の虫と化されては、敵わんのでな」
ルゥはおおげさな身ぶり手ぶり。
ぎょうぎょうしき声色により、力説をしはじめた。
「なればこそ、だ。
お前がひとえに案じていた難点。
僕に敵意を向けたという些事は、わずかな重荷にもならぬのだよ。
もとよりアンリ様の御心が、大海のように深く広いのは灼然たるもの。
でなければ、お前は今頃、もの言わぬ肉塊と化しているのだから。
で、あるのならば、刻下として重要な事柄はひとつといえよう。
そうだ。アンリ様は欲しているのだよ、お前をな」
スカーは口を閉ざしている。
ルゥは若干の照れ笑いを浮かべた。
「まあ、少しばかりは僕もだが。
なんにせよ我が王は、お前という妖異を所望しているのだ」
「……私の力を、ですか」
「うむ。ならば、ひとつ述べておこうではないか。
どこぞのエルフと違って、だ。
アンリ様は、お前を決して裏切ったりなどしない、とな」
「…………」
「むろん、お前の懸念は事解している。
偉力だけを所望されているのが癪、なのだろう?
だが、しかしだ。
どれだけ渇求しても、僕には保有などできぬ偉力、なのだぞ?
そしてそれは、お前が強く在るかぎり、裏切られはしないという証左になるのではないか?」
「……そう、ですが」
「裏切りなどに憂慮しなくていい。
これからは忙しくなるのだからな。
泣く子も黙る、南密林エリアに建立するのだよ。
戯けた風習、既存の理などたやすくねじ曲げる王国を……。
神算鬼謀の王の両腕になるのだ、僕たちは。
そして、あらんかぎりの様々な力により押し上げていくのだ。
アンリ様を伝説の再来へと。忌み子の王、へと」
スカーはどこか暗い顔でたたずんでいた。
ルゥは穏和な表情である。
一呼吸おいてから、ゆっくりと右手を差し出した。
「いまはゆるがぬ忠誠など不要。
彼のお方とともにあれば、それは自ずとついてくるものだからだ。
そして、お前の生涯はただ指示を待つだけのものでいいのか?
そうだ。転換の時なのだよ。
お前の足で立つのだ。お前の意思でこの手を取るのだ。
しかし、取ってしまえば最期。
独りきりの厭忌に満ちた牢獄には、もう戻れない。戻さないぞ。
アンリ様が、そして僕が金輪際、お前を回帰などさせない。
そうだな。……誓おうではないか」
それでも、スカーは微動だにしなかった。
差しだされた手を見つめる顔は、強ばっていた。
しかし、ルゥは気にもとどめない。
奇異な舞台の幕を下ろすために、切り札をきった。
穏和な道化に隠れた、
侮蔑の笑みをもって、その口は開かれていく。
それはルゥの胸臆に、
おごそかにも刻印されている、王の模倣だった。
変声期前の少年のような声音。
凛として咲く、
一本の菫をほうふつとさせる音色は、魔法の言葉となった。
「スカー」
イビツな心理戦。
頭脳戦の火蓋が切って落とされてから、
ひさかたぶりに初語された、なんの変哲もない固有名詞。
世の中においては、
それは無価値な愛称にほかならない。
しかしもの柔らかでかつ、
暖かくも甘い親愛の情は、
魔法の一矢となりて、効力を発揮したのであった。
それはスカーの心奥を深々とえぐり、
信じられないと叫ぶ、傷ついた心ごと吹き飛ばしたのだろうか。
胸廓上の斜方形は、ゆるやかな速度により明滅していた。
雲ひとつない、快晴じみた色彩により。
あられもない姿態がゆらいだ。
くしゃくしゃになっていく容貌。
衝動を色濃くやどす深紅の瞳からは、
一筋、二筋と、涙が流れては頬をつたっていく。
ただたんに、泣いて笑った。
気が遠くなるほどの永き歳月。
愛に飢え狂っていた少女は、おずおずと震える右手をのばした。
偽りの不実につゆと消えた握手。
親愛の情の証明は、いびつな手と翼ではなかった。
紆余曲折を経て、
ついぞ、小さな手と手により繋がり合う。
六の鏡面はズタズタに傷つけられながらも、
二百年ぶりの雪解けを静謐に照覧していた。