覚醒へと至る
「いまもって、アンリ様は微動だにしてはいない。
ん? なぜだ? どうして一目散に逃避せんのだ?
うむ、そうだな。それこそ少々の思慮で十分。まさに灼然たるもの。
つまりは、な。
アンリ様も持ち得ていたのだよ。貴様の言うところの、外形変換を、な」
銀鏡に縁どられる一室。
鉄面皮なる容貌。
得意満面なる偽装の声音は、たからかに響きわたっていた。
燕尾服を着こなし、
ステッキをたずさえる小鬼族は、奇っ怪の一言である。
俗世ならばたいそうに毛嫌いされるであろう、
不敵な笑みが、口許には浮かべられていた。
数メートルさき。
対峙しているのは、あられもない姿をさらす超越者であった。
今現在の最上位者たる生物。
鮮血の翼粘体の様相は、ただただまがまがしい。
後背の二翼は、ゆるやかにはためいている。
あたりに緩慢な陣風を発生させていた。
微風をうけてゆれる、おびただしき紅髪。
深紅の双眸は色濃くも、
明晰なる憎悪を宿していた。
胸元の真上に位置する、粘液の斜方形。
粘体たる種族の名残は、烈火のごとく。
血のような赤さにより明滅していた。
いまやもう、
淑女然とした上品さは感じとれない。
猛然とした、憤怒の感情をあらわにした偉容。
悪神じみた眼光は射抜くように、
怨敵と化した標的へと向かっていた。
そのようなおり、
スカーは左手を口許に当てる。
蔑視の情動を隠そうともせずに、一笑にふした。
「フフフ。嘘はいけませんよ。
まさかまさか、ですねぇ。あのルゥさんが、嘘つきにまで堕ちてしまうとは……。
彼も外形変換を持っている?
フフフ。……ありえません。
はったり。オオボラ以外のなにものでもない。
どうせつくのならば、もう少しまともな嘘にするべきでしたねぇ」
「ほう。で、あるのならば、拝聴させてもらおうではないか。
そのように推し当てた根拠、というものを、な」
核心を突かれているというのに、
ルゥはどこ吹く風である。
どこか愉しげに、スカーを正視していた。
「つじつまが、あわないんですよ。
外形変換にかぎらず、彼が戦闘能力をいちじるしく上昇させる方法を持っていると仮定するんならば……。
ええ、ええ。そうです。ルゥさん、あなたですよ。
どうしてそれを知っていたはずのあなたが、まどう幼子のように、滑稽にもガタガタと震えおののいていたんですかぁ?
それでは説明がつかないでしょう?
私を殺せる方法が存在するというんならば、そもそもおびえる必要性なんてないんですからねぇ」
再度、真っ向から突きつけられた正論にも、
ルゥは揺らがない。
ピクリとも反応しなかった。
余裕綽々の様相。想定の範囲内。
満足げに、おうような首肯をかえしてみせた。
「うむ。然りだな。
それでは説明がつかない。あきらかなまでの矛盾が生じてしまう。
この僕が滑稽にも、気狂う寸前まで追いこまれていたのは、灼然たるものなのだから。
フッ。やはり、貴様は白痴などではないようだな。
しかれども、僕は推測していたのだよ。
小賢しい貴様であるのならば、そこまではいとも簡単に読み解いてみせるだろう、とな」
予想外な返答だったのだろうか。
スカーの嘲笑が消え失せていく。
黙したままで、続きを待っているようだった。
ルゥは顎先に左手をそえる。
やおら、目線を虚空へと移していった。
次いで、他人ごとのような声が発せられる。
考えごとにでも、没頭しているかのような素ぶりで。
「うむ。それならば一考するに、このような蓋然性はどうだろうか。
窮地に追いつめられていた脆弱なるゴブリンは、つい先刻、ようやく知覚させられたのではないか?
滑稽にも震えおののいていた向後に、隣室の至大なる妖魔から示唆されていたのだよ。
臆するな。
眼前の粘体を剋する方策はそなえている、とでも。
思念や暗意のサイン。
言わずもがな、伝える手段など無数にあるのは明々白々といえよう。
そのように推察するのならば矛盾はなくなる。説明がついたではないか。
疑いなどなく、九死に一生を得たのだぞ?
そのか弱きゴブリンが奮い立ってしまうのは、想像にかたくない。
そして、崇敬を禁じ得ない神算鬼謀の王から、なんらかの尊き下命を賜ったのだよ。
そうであれば、竦まない。
あとは、勝利への道筋をたどるだけなのだから。
なればこそ、だ。
とある事項を為すためだけに、全力を注いでいるのではないだろうか?
そうでなくてはおかしい。
奇っ怪にすぎているのだよ。
絶大な偉力を有する妖異の真向かいに立ち、対話できているという事態そのものが。
ならば明白ではないか。そこに確たる事由があるのは。
脆弱で虚弱で矮小なゴブリンごときが、なぜか図に乗りつづけているのだから、な」
にぶい輝きをはなつ双眸。
脆弱なはずの劣等種。
小鬼族の流暢な口舌は、不可解の骨頂である。
華奢で、非力な風体だというのにもかかわらず、
一種異様な雰囲気をまといはじめていた。
輝きを失った水晶玉。
その御前で、両者のあいだには不穏な気配がただよっていく。
銀色の世界の最上位者たる妖異。
圧倒的なまでの悪鬼羅刹は、
しだいに気圧されはじめているように思えた。
鳴りをひそめつつある害意の波動。
感情でも反映されているのだろうか。
困惑をさし示すかのよう。
胸郭上のひし形は、あわい緑色に点滅している。
しかしその双眸だけは、剣呑なる光をたたえていた。
「ええ、ええ。ルゥさんのおっしゃるとおり、変です。
そのゴブリンの、突然のいちじるしい変化は、おかしすぎますよねぇ?
ハガネのメンタルすぎますよ。
いまもなおも、なんですよ?
この私をまえにして、イラだってしまうほどに、図に乗りつづけてくれているんですから。
か弱ければか弱いほどに、説得力が増していく推理ですよねぇ。
ほかにもつけくわえると、すくない可能性ではあります。
ですが、私にも隠しとおせるほどの隠蔽技術により、保有魔力量を詐称している。
もしくは希少種。
なんらかの特殊能力をあやつる、加護持ちであるという可能性も、否定はできないんでしょう。
フフフ。裏づけられたかのようで癪ではありますが、それは認めましょう。
ですが私から、そのゴブリンさんに、宣言しておくことがあります。
それでも、つじつまが合わないんですよ、と。
たとえば、いるかはわからない神様が道理をとおしたとしても、この私が、決してとおさないんですよ」
能面のような表情のルゥ。
敵者を見据えつつも、口を真一文字に引き締めていた。
そのような様子に、
効果は抜群だとでもとらえたのかもしれない。
スカーは上機嫌のようだ。
後背の二翼はゆるやかにはためいている。
あでやかな微笑みを浮かべた。
「それではルゥさん、また問題ですよ。
どうして、来ないんですか?
どうして、彼はあなたを、助けに来ないんですかねぇ?
はやく、来てほしいものです。
大至急、私を殺して見せて欲しいものですねぇ……。
私をたやすく殺せるほどの、絶大な偉力、でしたっけぇ?
それを彼は、隠し持っているはずだというのにぃ。
大切な大切なゴブリンさん。
かわいいかわいいルゥさんの命が、風前のともしびなんですよ……?
いますぐにでも、私はあなたを溶かしてしま」
さえぎるようにルゥは言った。
「フッ。知れたことではないか。
むろん、僕は読んでいた。読みきっていたぞ?
小賢しい小賢しい貴様が、その解へとたどりつくのは時間の問題、だとな。
だが、しかしだ。
総じて僕の、予想の範疇を逸することはできなかったようだな。
うむ。しかたのない奴だ。
では、頭の弱い貴様に答えてやろう。
いたしかたなく、懇切丁寧にも、教示してやろうではないか……。
そ、れ、は、な」
冷厳たる意趣返しであった。
つい先刻の挑発をまねて、
ルゥは一語一語、子供に言って聞かせるように声音した。
スカーの全身からは怒りが。
激情が魔力の波動となりて、膨大にも放出されていた。
そのような様相をしり目に、
おもむろにルゥは両腕をひろげていく。
ゆっくりと、
どこか愛おしそうに、自身の身体をかき抱いた。
耽溺なる面もち。
濡れて充血している、焦げ茶色の瞳は異様だった。
背筋に、氷でも当てられているかのような感覚。
背徳的なまでの快楽が、脳内を駆けめぐっていたのであった。
繰りかえされるこきざみな吐息は、妖艶である。
己の内側の滾り。熱量。
たけり狂う感情を飼い慣らせない。
顔中を朱に染めたまま。簡潔な言葉により核心をついた。
「……人質。哀れな虜囚」
「……ルゥさ、ん。
あなたの頭脳はどこまで」
とうとつにも、見開かれていく目。
細長いまつげはかすかに震える。
驚愕という情動を、如実に指し示していた。
「そう、刻下としての僕の身は、わびしき虜囚と化していたのだから」
淫らさまでもを、はらんだ口舌。
核心は衝撃をともない、
スカーの表情をくずすにいたったのであった。
「そう、現下として、僕の身は虜囚にすぎなかったのだよ」
ルゥはゆるりと、
両腕を定位置へと戻していく。
さも愉快だと、醜怪な笑みをひけらかした。
「むろんのこと、看守は貴様だ。
まことに慚愧に堪えないが、命綱を握っているのも貴様に相違などないのだよ。
なればこそ、動けない。
息を吸うように状況を解しているアンリ様が、僕を救出したくとも、それはどだい無理な話なのだ。
然りではないか。
その至大なる、魔力の波動こそが致命的。
よういに居場所を掴まれてしまうのだから、な。
物語るようにだ。
アンリ様は先刻から、一歩すらも微動だにしていないのだぞ?
なぜだ? なぜ、動かないのだ?
フッ。了知しているからにほかならないではないか。
まことに窮した事態と言わざるを得ない。
小細工をしようとも、魔力を隠匿しようとも無為なのだからな。
なぜならば貴様が、その不穏な気配を嗅ぎとれば最期。
つぎのせつなには、自暴自棄となった妖異が、僕を溶かしてしまうかもしれぬのだからなぁ」
絶命絶命の苦境であった。
もはや、足場にしていた薄氷はくずれ落ちている。
無惨にも、奈落の底へとまっさかさまの様相であった。
しかし、ルゥは笑う。
勝ち誇ったかのような、嘲笑を絶やさぬのだ。
もはや自暴自棄。
狂気に支配されているような形相ではあるが、違う。
怜悧なる頭脳は、回転をやめてなどいなかったのだ。
それどころか、らんらんと明滅を繰りかえすと、
異なる真相へとたどりついていたのであった。
スカーの情動は一目瞭然。
よういに透けて見えている。
軽口などたたけぬ有り様により、黙りこくっていた。
そのような面様を、
ルゥは舐めるように凝視している。
そののち、判然とした声により口をひらいた。
「しかし、誤想してはならないぞ?
貴様の思惑。心の奥深くに隠秘されていた真相を、な。
……それは命綱。
むろん、僕が握られている命綱ではない。
貴様の身に、したたかに、巻きついている命綱だ。
まことに不可解なことにだが、なんの因果か。
握り締めていたのだよ……。
絶対なる境地に立つ、鮮血の翼粘体の命綱を、塵にひとしき小鬼族が、な」
言い終えて、
ルゥはニヤリと口角を吊り上げる。
ついぞ、真相は暴かれたのであった。
スカーのスライムの名残。
半透明の斜方形は濃い緑色だ。
ひいては、矢のような速度により明滅していた。
動揺しきったような表情のまま。
呼吸すらも忘れているかのよう。身動きひとつ取らない。
しかしそのうるわしき目許は、
研ぎ澄まされた刃物のごとく、鋭さを増していた。
ルゥは傲岸不遜である。
挑発的にも、両目をかっぴらいていた。
後方へと、ゆるやかに小首をかたむける。
異質な威圧を放ちながらも、対者を睨めつけた。
「うむ。想起していたのだ。
小賢しい貴様は、ことの真相を手に取るように了知していたのだよ。
僕を滅した場合の向後。
その身に降りかかるやもしれぬ、最悪にすぎる想定を……」
隠しとおせぬいらだち。
それはスカーの赤きまゆが、
痙攣しているという仕草により露呈されていた。
「貴様には、攻撃をしかけるチャンスなど腐るほどにあったのだ。
だというのにもかかわらず、馬鹿のひとつ覚えのように継続していた。
ただただ、弱者を威圧して悦に入るだけ。
という偽体を、な。
なぜだ? どうして眼前の怨敵を溶かさないのだ?
知れたことではないか……。
かくいう貴様には、僕を溶かせぬ理由があったのだ。
……決して滅することはできぬ、重大なる事由があったのだから」
思い思いにたたずむ両者を、
鏡面は刻名に射影していた。
ルゥの口舌は絶え間などない。
紆余曲折あった主導権争いはいましがた、
あきらかなまでの終止符を打たれていたのだから。
「然り、ではないか。
身命を賭す行為など、論外のきわみ。
賭けるに値しない無為な死など、誰もが避けてとおるのは灼然たるものなのだから。
無実なる隠れ家へと、気が遠くなるほどの幾星霜を越えて、姿形を顕としたのは闇の妖精族だった。
自身より幾分かは弱い亜人種。だが、安穏とはできないのだ。
いぜんとしてその正体は不明。霧につつまれているのだから。
なおかつ、貴様は愚者ではない。いや、聡明と称しても差しつかえなどないだろう。
なればこそだ。小賢しい妖異が、このように想起するのは明晰。
数多の情動が脳裏をめぐったおり、謹み深く利口なる鮮血の翼粘体は、このように思索したのだよ。
伝説上の存在を、自身の常識に照らしあわせて侮ってはならない、と。
奇々怪々な魔法の類いや、加護持ちなどの特殊能力を隠し持っている可能性は捨てきれないのだから、と」
照明を反射してきらめく、紅き瞳。
まなこは再度、ゆっくりと見開かれていった。
真っ白でしなやかな皮膚は、
やにわに紅潮しはじめている。
鳴りをひそめていた魔力の波動。
無色透明なるオーラは、かすかに漏れでていた。
そのような対者を、
ルゥは真っ向から正視している。
発情しているがごとく、悦楽に輝く瞳。
握られたステッキのグリップは、
指先で挟みこむように怪しく、もてあそばれていた。
粛然と言いはなたれる。
その声色は妖美かつ、ハツラツとしていた。
「そう、僕と同様に、貴様は震えおののいていた。
最悪にすぎる想定を、まどう幼子のように怖れていたのだよ。
致命的なミス、だったな?
ほかの者ならばいざしらず、僕は決して見逃したりなどしない。
なればこそ、繋がってしまうではないか……。
僕を溶かせぬという不可解な心理は、無為な死を望まぬ普遍的かつ、保留しようとするか弱き精神から作用されていたのだと……」
二人一組。二者択一。
もはや、それは共同作業に似ていた。
ともだって生存するのか。
ともだって落命するのか。
いつの間にか、
双方の腰に巻かれていたイビツな命綱。
不合理な荒縄は絡みあう。
たがいの四肢に巻きつき、
行動を制限しては、束縛しあっていたのであった。
ルゥはひとえに滾ってしまう。
もちろん、勝利したのではない。
純然たるドローに相違などはないのだ。
しかし、蟻にひとしき小鬼族が、
ドラゴン同然の鮮血の翼粘体と対峙して、
からくも価千金の引き分けに持ちこんだのである。
それはまがうことなき大金星。
と称しても、差しつかえなどない戦果であった。
悦楽に酔いしれる脳内。
ルゥの足が動きはじめる。
スカーへと、ジワリジワリとにじり寄っていった。
流麗なる造形。
絶大なる妖異の眼前へと。
息がかかるほどに、自身の顔を近づける。
高圧的にものたまった。
「それにしても、図が高い。偉そうではないかぁ?
この僕は、虜囚様、なのだぞぉ……?
この身は貴様の身と同義。
なればこそ、大切に大切に、丁重に丁重に扱わないとならぬよなぁ?
僕は抵抗などしない、ぞ?
抗いきれぬ運命なのだと、溶かされるべくして溶かされてやろうではないか……。
付言しておくが僕は、弱い。お話しにならぬ脆弱さだ。
うむ。そうだな。
そのぎょうぎょうしき漆黒の二翼を、軽くはためかせてくれるだけでいいのだ。
たったそれだけの所作で、僕はいとも簡単に落命してしまうのだぞ?
それに貴様は、ぶち溶かすと宣ったではないか……。
横柄なる科白は、大言壮語などではないのだろう?
ならば、溶かせ。さあ溶かせ。溶かすのだ。
早急に手早く、溶かしてはいただけないものだろうかぁ」
スカーは絶句しているようだった。
そのか細い腕を。
脱力しきった手首を、ルゥはやんわりと掴む。
引き寄せると、
自身の左胸へと力強く押し当てた。
壮絶なまでの局面。
奇々怪々なる光景であった。
常世に存在してはならぬ死神。
妖異に対して、塵にひとしき幼子は、
脈動をつづける心音を聞かせながらも、
花が咲いたかのように破顔していたのだから。
毛穴すら視認しうるほどの近さ。
怪奇に満ち満ちた、苦境にそぐわぬ会心の笑み。
鋭利な歯牙をあらわにして、苛烈にまくしたてていく。
その姿はまるで、精神に異常をきたした病人のようだった。
「そうだ……。
幾許かの力を、そっと入れてくれるだけで終わるのだ……。
容易、ではないか……?
その瞬刻に、僕はもの言わぬ屍と化すのだからなぁ……。
さあ、溶かせ。溶かすのだ!
さあ。さあ!
雑魚と評した醜怪な小鬼族の! 憎悪すべき心の臓を止めるのだ……!」
狂乱じみた哀訴歎願の叫声を最後に、
イビツな頭脳戦の幕はここに下ろされた。
ついぞ、主導権を握ると、
一気呵成に攻め立てた弱者。
そして、生気すら失せつつある強者。
勝敗の行方はドロー。
引き分けに落ち着いてはいるが、
そこには明確なへだたりがかいま見えている。
事実上の勝者を、あきらかなものとしていた。
勝った。打ち勝ったのだ。
発狂してしまうほどの恐怖にも。
背すら視認できぬほど、遼遠なる境地を歩む妖異にも。
なればこそである。
まとわりついて離れなかった重圧。
怨霊がごとき死の臭気を跳ねのけたいま、
そのおぼつかぬ身体をはらむ空気は一変としていた。
ならば、灼然たるものである。
絶え間のない努力により、昇華されつづけてきた、
怜悧なる頭脳にもいちじるしき変化が起きるのは。
ルゥに存在していた、確たる弱点。
それは場数であり経験であった。
いまだ八歳の小児には、さもありなん。
圧倒的なまでに、
修羅場や死線をくぐった経験というものが、不足していたのである。
しかし転じた。
悪鬼羅刹との死闘のすえに、クリアされたのだ。
なればこそ、怜悧なる頭脳はさらなる領域へと、
未開の地へと果敢に足を踏みいれていく。
きらめきの濃度を飛躍的に上昇させて、
覚醒へと至った。
スカーは精魂、尽き果てたのだろうか。
その容貌は蒼白である。
間近にあるルゥの顔から、顔をそむけた。
「ええ、ルゥさんの想像どおりですよ……。
ほんの少しでも可能性があるのならば、私はあなたを溶かすことなんてできないんですから。
これを戦いと呼んでいいのかはさだかではありません。
ですが、私はとっくに気づいていました。
どこまでいっても平行線、膠着状態がつづくだけなんだ、と。
ルゥさんは……、あなたは信じてはくれないんでしょうね。
ですがいちおう、言っておきます……。
私はことのはじめから、あなたを溶かす気なんてなかった。
ほんとうです。それは真実なんです……。
ただただ、怒りに任せてしまっただけ、なんです。
……私を、傷付けたあなたを、少しばかり、懲らしめようと思っただけなんです……」
心情の吐露は、はかない。
深紅の瞳は悲しげにゆれている。
胸郭上の斜方形は静かに、あわい紫色で点滅していた。
ルゥは表情をくずさない。
注意深く観察しながらも、後ずさった。
距離をとると両腕を組む。
真意を噛みくだかんと没頭していた。
「ええーっと、すみません。ひとついいですか?
これっていちおう、引き分けなんですよね? 私、勘違いしてませんよね?
そうだというのに、なんなんですか、この状況は……。
まるであなたが勝者で、私が敗者のような観念に駆られているんですが。
あなたは、ほんとうに恐ろしい方ですね……。
たしかに彼という謎の存在がなければ、ここまでの状況にたどりつけはしなかったんでしょう。
ですがうたがうことなく言えますよ、私は。
このようなわけのわからない現状をつくりあげたのはルゥさん、あなたなんだ、と。
まったく、どうなっているんですかあなたは?
か弱いはずのゴブリンが……、おかしいでしょう?
ほんとうに、ただの子供のゴブリンなんですか……?」
「それこそ知れたこと、ではないのか?
貴様の想察のとおり、現下の僕はただの小鬼族の小児にすぎない。
……しかし、誤想してもならないぞ。
そこらに吐いて捨てるほどいる、愚かな小鬼族と同様に扱われては心外なのだ……。
それに貴様も、このように吐いていたではないか。
遠くないのちの世で、僕はなるのだろう?
神算鬼謀の王の横で控える、頭脳明晰なる宰相に、とな。
で、あるのならば、頭脳面でだけは敗れてはならぬ。
王以外のものには、決して劣ってはならぬのだ。
たとえば対峙する対者が、絶大なる偉力を有する妖異であったとしても……」
わずかな一笑もなかった。
いまだに矮小なはずの体躯からは、
説明のつかない威圧感をひけらかしていた。
ルゥは真摯な面持ちで言う。
その声音はじつに閑やか。
だが、身の毛もよだつような狂気をはらんでいた。
「どのような方策を用いても、たとえ悪鬼羅刹へと成り果てようとも、だ。
僕にはな、為さねばならぬ宿願があるのだ。
ところがいつの頃からか、それはふたつへと変容していたのだよ。
で、あるのならば、詮なきことではないか。
叶えるには、勝たなければならない。勝ちつづけなければならないのだ。
僕の本領、拠り所たる頭脳で敗れ去っては、夢のまた夢なのだから……」
スカーは二の句が継げないようだった。