プロローグ
我関せずと静黙としていた。
雲間に、くっきりと浮かびあがる下弦の月。
安息をもたらす月明かりは、両者にとどくことはなかった。
なぜならばである。
上空にて赤や黒、紫。
それらを、いっしょくたにして混ぜ合わせたかのような色彩。
毒々しき濃霧がきつく、蓋をしていたからであった。
ここの地名はガルディード大森林。
ひし形をえがく、イングリード島の中央に位置していた。
切りたった渓谷。
いかめしき大河に、前人未到の大洞穴。
なんでもござれの未開の地である。
界隈では、語ることさえはばかられている地でもあった。
ありのままに述べるのならば、
阿鼻叫喚の縮図といえよう。
平穏、閑寂、静謐。
それらとは真逆に位置する化生が、
強大なるモンスターが、
我が物顔で跋扈している、禁忌なる冥界なのだから。
ひとしくも、個々。
そのひとつひとつが酷悪である。
普遍的な亜人種ではひとたまりもないだろう。
それどころではないのだ。
世界を根底からくつがえしうる。
そのような災厄までもが現存しているのだから。
今日も今日とて、不変である。
閉ざされた世界には、
あまたの怨嗟の叫声が、たけだけしくもこだましていた。
空を見上げれば暴風。
巨体を炎上させつつも、羽ばたく怪鳥。
踏みしめる地面からは振動。
正体不明の小規模な地震だ。
それは断続的に継続されている。
不安をつのらせるような、重低音を響かせていた。
高圧的なまでの魔の奔流。
モンスターの息吹は、おどろおどろしい。
それはまるで、濁流うずまく大河をほうふつとさせていた。
遭遇するだけで即刻、死に直結。
あまつさえである。
感知するだけでも気狂ってしまいそうなほどだ。
潰滅じみた臭気を撒き散らしていた。
無慈悲にも、
闇夜に染まりきった大森林に、光などはないのだ。
光源となりうるのは、魔物の躍動。
そして毒々しき色彩。奇っ怪なる濃霧のみなのだから。
なればこそである。
いつ、そこらのうす暗闇から、迫りくるのかすらも不明なのだ。
舌舐めずりをしている脅威が。
虎視眈々と機をうかがっている、捕食者が。
まさに、絶体絶命のフルコース。
大盤振る舞いである。
そのような危急存亡のまっただなかに、
迷える子羊たちは足を踏みいれていた。
だというのにもかかわらず一方。
ひときわ異才を放つイビツな個は、不敵であった。
気負いの感じられない風体。
自然体のままに。醜悪なゴブリンを見下ろしていた。
いわゆる、エルフ特有たる要素。
横へと、伸びている両耳は優雅であった。
容姿は眉目秀麗の一言だ。
いまだ、幼さの残骸が見てとれてはいたが。
一見するに、
どこぞの王族の嫡子かのようだ。
しかしながら面妖でもある。
その出で立ちは、浮浪者のようでもあったのだから。
頭髪は真っ黒である。
その長さはミディアムほどだ。
いわゆる、癖毛なのだろう。
あちらこちらへと、うねりにうねっている。
それは褐色の肌とともに、血と泥にまみれていた。
衣服のほうはというとお粗末だ。
まがうことなき粗悪品であった。
なぜならば、衣服ですらなかったのだ。
ところどころに穴のあいた、ボロボロの青い布。
それをおざなりに、
病的なまでの細身にまとわせていたのだから。
もはや、戦災孤児かのよう。
そのような見た目ではあるのだが、
とあるふたつの特異な点。
要素が、彼の印象を真逆へと仕立てあげていた。
一点目は意思なき双眸である。
灰色がかった蒼き瞳。
それは水宝玉のごとしであった。
いやに無機質でもある。
そのように感じてしまうほどに冷え冷えと、
光り差さぬ深海をほうふつとさせていた。
二点目はけた外れた威圧感である。
膨大なる魔力の波動であった。
身体は十歳児ほどだというのに。
不釣りあいな、高貴なる魔の根源が、
毛穴という毛穴から、噴出しつづけていたのであった。
それはあちらこちら。
無数に点在している悪鬼たち。
モンスターと比較しても遜色などはないのだ。
悠々と超越しきっていた。
それゆえにこそである。
取るにたらぬ矮小なゴブリン一匹。
劣等種を畏怖させるのには、十分だったのかもしれない。
「ギ、ギ、ギギ」
茶褐色の地面。
棘の木々が取りかこむ獣道。
面妖さをはらむ幽香は甘ったるい。
爽涼とした夜風に乗って、はこばれていた。
いぜんとして、
ゴブリンは腰を抜かしていた。
衣服は、うす汚れた黄色のベスト。
ハーフパンツ。簡素な紐靴を着用している。
全身、泥だらけの有り様であった。
亜人種に嫌忌されている面貌。
それは醜怪の一言である。
褐色の肌は不衛生きわまりない。
真っ黒な短めの頭髪も、泥にまみれている。
毛髪の一本一本は凝固しており、毛束となっていた。
とがったおおきな鼻。
見え隠れするギザギザの歯牙。
半円状に縁どられた双眸。
焦げ茶色の瞳はゆれている。涙によりにじんでいた。
然りである。
上位種であればまだ別だが、
このゴブリンはいまだ子供。
あどけなさの残る、小児と察せられていたのだ。
そのうえ、最下級。
この世界においては、最底辺に位置している存在なのだから。
自明なことにである。
猛然とした少年の威圧。
威風にさらされては、どうしようもないのだろう。
ブルブルと、
ゴブリンが竦んでしまうのも当然。
硬直してしまうのも、自然の摂理といえた。
ゴブリンの先行きは暗かった。
いや、暗いどころの騒ぎではない。もはや奈落の底に落ちているのだ。
刻一刻と時は流れゆく。
今生の終わりへと、
己の最期へとむかって、片足を踏み出してしまっていたのだから。
それでもなお、
生への渇望はたけるのだろう。
ちいさな身体を、
おぼつかぬ四肢を、必死に動かそうとしているようだった。
けれども、現実は無情である。
ただただ震えているだけ。
指先でさえも動くことはなかった。
なぜと問うにだ。
おびえにゆれる目は、視認していたのだ。
絶対的強者の姿形を、映しだしてしまっていたのだから。
弱肉強食という不文律。
だれにも変えることのできない、不動の原理に。
ゴブリンは絡めとられてしまっているのだから。
一方、この世の逸脱者。
少年はというと血が抜けたためか。
おぼろげになっている思考を、整理しようとしはじめた。
柑橘系の薫香が鼻腔をくすぐる。
たびたびゆれる地面に、
態勢をくずされないように格闘しながらも、
深く深い思考の渦へと、身をゆだねていった。
まず、まずはだよ。
ここはいったいどこ、なんだろうか。
どうして俺は、こんなにもボロボロになっているんだろうか……。
というか、おじいちゃんはどこに消えたんだ?
うーん。なるほど。
ことさら、意図はつかめない。
まったくもって意味もわからなかった。
少年はにぶい頭痛をおぼえる。
顔をしかめた。
こめかみを、指先でおさえることにより対処しつつも、
その心情は混迷と化していった。
最後の記憶は……、そうだな。
たしか、おじいちゃんの家でご飯を食べている最中……。
いや、ダメだな。
ひとかけらすらも、思い出せはしないようだ。
それに、おじいちゃんからだよ。
「肌身離さず嵌めておくように」
との厳命をされているお守り。
水宝玉の指輪も紛失している始末、だとはなぁ。
ほんとうにたまげたものだよ。
いったいどうしてしまったんだ、俺は。
しばらくのあいだ、
少年は熟考しつづけてはいたのだが、そのすえである。
微塵もだよ。
思いだせる気なんてしないんだ。
だからこそ、現時点では考えこんでいても無意味だろ。
と、なかば思考を放棄した。
うん。まあ、いいか。
いや良くはないんだよ?
だけど、さ。現状としてはどうしようもないんだからね。
というか、それよりもだよ。
どうして、目の前のゴブリンらしきモンスターはだよ?
こちらを見つめているだけではいざ知らず。腰を抜かしているんだろうか……?
うん。まあ、ね。
状況は、うなずけてはいるんだよ。
いたるところからだ。
奇怪な鳴き声はこだましているし。
正体不明の地震はひっきりなし、だしね。
だけど、だけどだよ。
それならばどうして彼は。
こちらをガン見しつつも、怯えているんだろうか。
色々な角度から観察してみてもだ。
彼の身体の震えは継続中。止まる気配すらもないんだよ。
ということはだ。
やはり怯えている。そんなふうに考えるのが自然だった。
そうだと仮定するんならばこれでは、
まるで俺のほうがモンスターかのようだ。
彼をいじめようとしている、乱暴者のようじゃないか……。
いや、まあね。
眼前のゴブリン。
モンスターでさえもが、衣服を着こなしているんだよ?
これまた、どうしてか。
なぜかは見当もつかないけど。
ただのボロ布をまとっているだけではあきたらずに、
靴さえも履いてはいない俺。
とではある種、
モンスターはこちらのほうなのかもしれないんだからね。
と、少年は自嘲ぎみな笑みをこぼした。
ゴブリンもそうだけどさ。
モンスターというものは、
亜人種を発見すればすぐさまだ。
親の仇を見つけたかのように、飛びかかってくる。
そんなふうに、おじいちゃんからは教わっていたんだけどなぁ。
まあ、ね。
襲われてしまえばそこで人生終了。一貫の終わりなんだよ。
なぜならば、
俺に対抗手段なんてものはない。
ほんのすこしも、備えてなんていなかったんだから、ね。
だからこそ、
この状況は幸運、だと言えるんだろうな。
それにしても、不思議だなぁ。
稀なはずの俺と同様に、皮膚が褐色。
ひいては、黒色の頭髪を生やしているゴブリン、か……。
うーん、謎だ。
最下級のゴブリンの皮膚は緑。
そのうえ、髪なんて生えてはいないはずなんだよ。
そう、教えられていたんだけどなぁ……
いや、まてよ。
このゴブリンは、
彼は、ほんとうに最下級モンスターなんだろうか?
しかし、その発想も無意味か。
俺にはたしかめる術などないし、
ゴブリンの生態について、くわしくは知らないんだからね。
ならば、そうだな。
彼は突然変異的に変色した個体。
との結論により、ムリヤリうなずいておこうじゃないか。
少年は思考を打ちきる。
おもむろに目線を上げた。
上空では、
うす気味の悪い濃霧の下、
化鳥と蝶々が大乱闘中である。
骨肉の勢力争いを、繰りひろげているまっ最中であった。
戦闘の衝撃。
その余波は壮絶なものであった。
邪魔なために、
後ろへとなでつけていた黒髪。
少年の前髪がパラパラと、前後にゆれていた。
なんだぁ?
巨体としか形容なんてできない、あの鳥と蝶々は。
一体全体、どうなっているんだ?
常識的に考えても、
異様なほどにおおきすぎるだろ。
まるで旅客機並みの……。
うん? リョカッキとはいったい……?
その単語も、
鳥たちもよくわからないけどまあ、いいか。
おおよその危険性はないように感じられているし、今は些事だ。
そんなことよりも、
早急に、考えなければならないことがあるんだから……。
大胆不敵なものである。
少年は我関せずであった。
おもむろに目を閉じる。
熟考をしはじめたのだが、その時であった。
突如として、
空を覆いつくせとばかり。まばゆい光源が発生したのであった。
それは極太の雷撃。
天の鉄槌めいた、一筋の雷であった。
けたたましき轟音を発しつつも、
吸いこまれるように、少年の身体を貫いたのであった。
あたりに静寂がおとずれていく。
いったい、なにが起きたのか。
その原因は上空にて、
怒髪天を衝いたのだろう、化鳥の所業である。
いわゆる、稲光の怒り。
と称される魔法の仕業であった。
これは余談ではあるが、
怪鳥の攻撃をかわすだけではあきたらず。
卑しき鱗粉攻撃により、
チョコチョコと体力をけずってくる宿敵。蝶々へ向けての。
もちろんのことながら、
くだんの少年は、まったくの無関係であった。
だというのにもかかわらず、
どうして、このような憂き目を発生させるにいたったのか。
無慈悲にもである。
少年の隙だらけな頭頂部へと、
クリーンヒットするという、惨事へと発展してしまったのか。
ことはしごく、単純明快であった。
問題点はひとつ。
蝶々の、軽業師めいたフットワークにあったのだ。
ようするにである。
蝶々が持ち前の足さばき。
いや、羽さばきを駆使して直撃を避けただけなのであった。
事実は小説より奇なり。
ただただ、それだけのことだったのだろう。
ゴブリンは鼓膜でもやられたのか。
ちいさくうめきつつも、両耳を押さえていた。
愕然とした様相である。
最大限に、目は見開かれていた。
おまけにボロボロと涙を流しつつ、
という離れ技もやってのけていた。
さきほどの喧騒など、どこ吹く風。
あたりには、葉のこすれる音だけが響いていた。
なぞらえて言うのならば、魔界大戦。
そのような高次元な戦闘を、
まざまざと、ひけらかしていた上位種たち。
化鳥と蝶々はというと、沈黙だ。
一様に、ピタッと静止していた。
どんよりとした、空気感をにじませながらも。
「おい、あれ、どうすんだよ」
「ヤベェ、スゲーヤベェ奴だよ、あれは」
などと思しき雰囲気である。
どことなく、
困惑でもしているかのような、空気感であった。
一拍ののち、
音もなく目線を交錯させる。
どちらからともなく、遠方の彼方へと巨体を消した。
しだいに光源がかき消えてゆく。
するとガタガタと、
ゴブリンは全身を震わせつつも、絶句することとなった。
然りである。
なんとそこには、無傷の少年がいた。
さきほどと、なんら変わりのない姿が在ったのだから。
健在どころの話ではなかった。
変哲のない、ただのボロ布も健在。
あれほどの熱量だったというのにもかかわらず、
周囲の地形も健在である。
それどころか、
少年はいまだ目を閉じたまま。熟考の有り様であった。
その時、とうとつにもである。
少年はまるで脳髄に、
極太な雷でも落ちたかのような錯覚をおぼえていた。
正確には数分前に、
ガチでリアルな大災害に見舞われてはいたのだが、
少年には知る由もなかった。
平然としきったご様子のままに。
ひとつ、うなずいてみせた。
目を細めながらも、ゴブリンを見やる。
「ああ……そうか。わかったよ。
きみは同類なんだね。きみも、俺も」
「ギギ、ギッ」
我が身の最期でも予感したのか。
ゴブリンは、ただただうめきつづけていた。
生存本能がたけるのだろう。
けたたましき警鐘でも、鳴らしていたのかもしれなかった。
そのような仕草に、
少年の表情は和らいでいく。
それは慈愛に満ちた柔和な微笑み。
もう、その蒼き瞳は凍てついてはいない。
たしかな、あわい熱量を帯びはじめていた。
「俺の名前はアンリ。アンリっていうんだよ。
きみも俺もさ……。いや、ああそうか。
俺の、話している言語は理解、できているのかな?」
とたんに、
ゴブリンは全身を硬直させた。
けれども、言葉の趣旨を理解したのだろうか。
腰を抜かしたままではあるが、
目を白黒とさせながらも首肯した。
「ギッ、ギィー」
「そうか。そうか。それならば良かったよ。
まったくもって、理解しがたいこんな場所だしね。
どうせならばさ。二人のほうがなにかと対応もできるだろうし、ね。
うーん……そうだな。
きみにも帰るところがないなら、さ」
アンリは満足げにうなずいた。
もう、これ以上は怯えなくてもいいんだよ。
と、なぐさめるかのように。ゆっくりと右手を差しだした。
「一緒に生きないか?」
その言葉は先鋭にも甘い。
か弱き劣等種の耳には、
ゴブリンの心にはひどく、優しくとどいたのかもしれない。
この世の地獄と形容される世界。
ガルディード大森林。
奇妙な偶然の下にたらされた、一筋の救いの糸。
それは一拍の逡巡、だった。
だがゴブリンにとっては、
永遠にも思える一拍、だったのかもしれない。
打算、情愛、反抗。
いろいろな思惑が芽生える。
ちいさな頭をめぐりめぐっては、去っていったのだろう。
いぜんとして、
ゴブリンは震えつづけてはいた。
だが勢いよく、左右に首を振る。おずおずと右手をのばした。
ここに、
世界の理からはずれた者たち。
そのちいさな手と手は、
咎と咎は、うす暗闇のなかで繋がりあう。
これは、序章。
ながくながい物語りの序開。
両者はそう遠くないのちの世で、
権威ある歴史書にこう記されることとなる。
知の象徴たる退かずの愚鬼。
ならびに、
暴の権化たる忌み子の王、と。