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◆4

「多分ね。私は魔法をかけたかった」


 カラン、と気泡を含まないなめらかな氷が、グラスの中で音を立てた。いつの間にか頼んでいたアイスコーヒーが俺の前にあって、それで俺は自分が二十一歳であること、もう小学生ではないこと、ここが喫茶店であること、目の前に座る二十一歳の田中むつみの包帯が、実に美しく全身に巻かれていることなどを順に思い出していた。


「魔法?」


「というか、呪いかな。杉浦くんね。クラスの女子の間では、結構人気だったんだよ」


「嘘だろ?」


 ちょっとした苦笑。そんな設定があるのなら、俺の十代はもう少し華やかに彩られていたはずだ。


「本当。当時の冴えない私が、人知れず焦るくらいにはね。でも、私は、他の人みたいな正攻法のアプローチみたいなのは無理だったし。実は、転校することが決まっていたの。どこに転校するかはっきり知らなかったけれど、向こうの学校にあなたがいないことだけは確実だった。すごく、すごく、焦っていたの」


「だから、セックス?」


「っていう名前の呪いだよね、やっぱり」


 田中むつみは包帯だらけの指で、ゆっくりとティースプーンをカップの中で回した。既に飲み干された後で、わずかに底に茶色いしみが残る程度だったが、彼女はまるで飲まれる前の茶色い液体が熱をもって実在しているかのような確かさで、ティースプーンを回す。


「おぼえていてほしかったんだ。私のこと。強烈に。だから、言ったことは全部本当。消せない傷跡をつけてほしかった。めちゃくちゃにしてほしかった。そうすれば、忘れないでしょう? 自分が傷つけた相手のことは特に。十代の新鮮な脳みそに強く強く刻み付けられるでしょう? そういう計算で、そういう呪い。当時の私が一生懸命考えて、背伸びした、私のセックス」


「大成功だったと思うよ。俺は忘れなかった」


 うっかりその後不登校と転校とカウンセリング通いのコンボを決めるくらいには。お笑いだ。転校するはずの彼女はベッドの上で眠り姫を決め込んでいるのに、俺の方が転校することになるなんて。でも、俺があの学校にあれ以上いることはできなかった。周囲の目もある。でも、何よりも俺の精神がもたなかった。夜寝ると、いつもあの光景がフラッシュバックした。起きている時だって、不意に襲ってきた。彼女を少しでも想起する何かを見るだけで、だめだった。忘れるわけはなかったのだ。俺が押した彼女の胸。ピンクの服にクマのプリント。コンクリートに吸い込まれていく彼女。卵が割れるような音。すぐそばには花壇があって、そのどの花よりも彼女が赤かった。先生たちの叫び声が聞こえたけれど、何と言っているかはわからなかった。魅せられていた。彼女の顔は相変わらず俺をまっすぐ向いていて、子どもとは思えない複雑な機微を含んだ微笑で俺を見ていた。


 呪いというなら、たしかに呪いだろう。こんな経験をした小学六年生は、きっと全国的にも珍しいはずだ。


 でも、それを言うなら。


 彼女が俺に呪いをかけたように、彼女だってそうなはずだ。


 俺だって、かけた。あの時。呪いを。


 でなければ、彼女が今ここにいるわけはないのだ。


「君は、もっと穏便な方法で俺の気を惹くべきだったと思う」


「私、後悔はしていないよ」


「そういう意味じゃないんだ。たとえば、君が適当に俺を校舎裏にでも連れ出して、キスのひとつもしてくれれば、それだけで俺はきっと君のことをずっと忘れなかったと思う。でも、君の方はどうだろう。きっと転校先で卒業式を迎えて、中学校にあがって。部活の先輩に夏休みの予定を聞くくらいの頃には、俺のことなんてすっかり忘れていたんじゃないだろうか。でも、君は俺をおぼえていた。何故なら、君が比喩でなくその身のすべてを捧げた男だから。なら、これは大恋愛に違いない。むしろ、大恋愛でなければならない。俺が君を押し倒した瞬間、俺は、君の中で淡い小学生時代の好きだった人ではなく、運命の相手に認定されたんじゃないだろうか」


「それは自惚れ?」


「いいや。君の中の架空の俺が格好良すぎて、本物は辛いって話」


 何度も手紙が来た。何度も何度も。どれだけ引っ越しを重ねても、空に返した燕が翌年の夏に帰ってくるみたいに、郵便受けに封筒が届いた。最初はミミズがのたくったような。次第にしっかりとした筆致で。徐々に漢字が増え。綴られるのは、あの時のこと、あの時のこと、あの時のこと……。それを俺に見せる前に粉々に破いて屑籠に捨てるのは、ここ十年間、俺の母の日課みたいなものだった。そして、くずかごから粉々の紙切れを拾うのは、俺の日課だった。


「会わない間も、傷を見るたびに君の中の俺は美化されていったはずだ。思い出は美しい。君が俺にかけた呪いは、強すぎた。君の一生を規定してしまうくらいに」


「私、後悔していないもの」


「俺はしている」


「何故?」


「……」


 俺は、アイスコーヒーを飲んだ。想像していたよりもずっと水に薄まっていて、コーヒーというより氷を飲んだような気分になった。窓の外を見る。きっとアスファルトは熱を吸って七十度を超えているだろう。


「傷は痛むの?」


「もうすっかり。包帯はほとんどファッションみたいなもの。だって、これがないと、私、ただの人になってしまうもの。誰もほめてくれないけれど、私すごく研究したんだよ。知ってる? 漫画みたいに包帯をぐるぐる巻きにするのって、実はすごく難しいの」


「俺がほめたよ」


「そう。やっとあなたに見せられた。今日は、なんて幸せな日」


 田中むつみが、包帯の向こうで微笑んでいる。その微笑は、俺が知っている頃の十一歳の彼女より、むしろ幼く穏やかに見える。


「この後、もう少し時間ある?」


「どうして?」


「俺の後悔はね。つまり、今だったらセックスの意味を正しく知っているってことなんだ」


「どういう意味?」


「君の包帯の中身が知りたいってこと」


「それは……」


 彼女は少し震えたように見えた。


「難しい。すごく難しいね。呪いが解けちゃう」


「互いのね。多分それが問題なんだ。十代の頃の呪いを引きずっているのに、俺達にはそれしかない。君は怖いんだろう? 呪いが解けた時、俺たちの内側には何にもないんだってこと。君が包帯をとりたくないのと同じような理由だよ」


「……」


 俺は微笑んだ。うまく笑えたのかどうかはわからない。でも、十年あれば多少は俺だって、複雑な人間になる。これは俺なりの諧謔という奴だ。


 立ち上がる。会計用紙を掴む。アイスコーヒーに紅茶にケーキ。食堂でのレポート作成を水でしのいだ甲斐あって、危なげなく予算内だ。


「会えてよかった」


「また会える?」


「会うだけなら。そこから先に進むかどうかは君次第。俺は今多分振られたんだよね? ……実は、気になる子ができたんだ」


 少し息をのんだような気配がした。


「あなただけ呪いを断ち切るつもりなの?」


「今君がうんと言ってくれれば、君は十年前に植えた種を収穫することもできるんだけど」


「……」


 彼女のスプーンは、見えない紅茶をかき混ぜる。


「手紙を書くわ」


「うん」


「また会いましょう。絶対よ」


 その逢瀬はきっと意外に早くにとりおこなわれるだろう。彼女は呪いが解けることを極端に恐れていたけれど、俺だって、まだこの呪いを捨てるのは、忍びないのだ。早く二度目の傷跡を彼女に。それは忘れられないような強烈なものではなく、いたって平凡な。俺たちの歪んだ十年間に正しいセックスを。あるいは、彼女が拒むなら、また俺たち流のひねくれた正しくないセックスをしてもいい。その結果、彼女が恐れているように、俺たちの呪いが解けてしまうのか、それともいっそう歪んでしまうのかは、七十度のアスファルトと揺らぐ陽炎のようにまだわからなかった。


 カラン、とドアベルが鳴れば、外は灼熱の世界――。





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