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◆2

 田中むつみと言った。


 それが彼女の名前だった。今は二十一歳になるだろう彼女は、十年前は十一歳だった。それは、俺が当時十一歳であるのと同じくらい確かなことだった。


 つまり、小学生だったのだ。俺と彼女は。誰もがそうであるように、十一歳の間を小学六年生として過ごし、かつては同じように拙い幼稚園児だった体は、六年間の保温期間によって、成長のばらつきを極端なものにしていた。人によっては、二次性徴を迎え始めていた者もいただろう。当時は、その片鱗すら感じることはなかったが、おそらくいたことだろう。小学六年生とは、いわばメタモルフォーゼ現象を内側で黙々と進めるさなぎのような存在といえるだろう。どろどろに溶けた細胞は、来るべき成虫として誕生する日に備え、再構成される。さなぎの皮の裏側で、そのどろどろした変質は誰に気付かれることもなく、ひっそりとおこなわれる。表面上は、さなぎのまま。違いは誰にもわからない。教室はさなぎの群れのようだ。礼儀正しく、行儀よく、椅子に座って黒板を向く三十数体のさなぎの群れだ。その中では、いまだに変質の始まらない子どものままのさなぎもいることだろうし、きしむ骨と変化する体に堪える変体を始めたさなぎもいることだろう。同じ子どものふりをしながら、実は既に肉体を作り替え始めているさなぎがいる。子どもという旧人類を捨て、新人類へと変質している裏切り者が混ざりこんでいる。小学六年生とは、そういう年頃といっていいだろう。


 では、俺と彼女はどうだったろう。


 何のことはない、クラスの中での背は真ん中くらいで、特に物事を強く主張することもなく、昼休みにグラウンドでサッカーをするでもなく、俺は典型的な文系少年のペルソナを形成しつつあった。それは、決して大人びたという意味ではなく、むしろ俺は世の中の汚さにまだ一切触れることのない、安全な、守られた純粋培養槽の中で守られているさなぎだった。まだ性のことも、子ども時代の終焉も、特段意識することはなく、ただお行儀よく、読書に励んでいた。まったくガキだったと今では思う。


 それに比べれば、彼女は大人びていた。彼女、つまり田中むつみ。決して表面的に大人びていたわけではない。むしろ、クラスでの彼女は大人しい子で、女子たちが着実に服装の趣味をグレードアップしていく中で、一人だけいかにもスーパーの洋服コーナーで売られている女児服のような、ピンクにキャラクタープリントのコーディネートを好んでいた。親の押し付け、社会の常識、先生たちの目、そういった有象無象の子どもを規定する価値観から、特に逸脱する様子も見せず、一般的であたりさわりのない小学生の女子をやっていた。けれど、それが彼女が大人びていない何の理由になるだろう。むしろ、クラスの少女たちが表面的な自我の表出を外見や会話や小さな周囲への反抗で示す中、彼女の自意識は煮立つように、泡立つように、内側で成長を続けていたのだ。


 そのことを俺が知ったのは、俺と彼女の席が接近したことによる。一学期は席が離れていたが、二学期になって席替えがあって、一つ机を挟んで隣同士になった。間に挟まって座る男子――本当の意味での「お隣さん」は、典型的な運動を好むタイプの少年で、放課後になれば、班の掃除に参加するふりだけ見せつつ、あっという間にランドセルと共に教室から消える奴だった。だから、放課後のチャイムが鳴ってしまえば、俺と彼女との間の障害は、実質何もなかった。クラスの人間が一人減って、二人減って、駄弁っていたグループがまとめて出ていって、自然と俺たちが残る。そういう日がよくあった。俺はその日の内に返さなければいけない図書室の本を読むため、彼女は班の人間から押し付けられた学級新聞を清書する作業などにいそしんでいた。あるいは、雨が降っていて、お互いがお互いの親を待っていた。もしくは、ただなんとなく。俺は彼女を意識していたのかもしれない。いつも教室で最後に残る女の子。広い教室は、その瞬間、俺と彼女のものになる。互いに前を向いて、顔もほとんど見ず、時計の針が静かに文字盤を推移していく様子を眺めるような時間。何も思わないわけなんてなかった。思わないわけではなかったが、自分から彼女に話しかけようとはしなかった。俺は、本当に普通の小学生だったし、普通の男子だったのだ。今だって、大して変わらないかもしれないが、今の自分なら、もう少し展開を早めることくらいはできただろう。


「ねえ」


 緩慢で、守られた世界を破ったのは、結局彼女の方だった。声に反応して隣を向くと、頬杖をついた彼女が俺の方を向き、微笑んでいた。微笑みだなんて。そんな器用な表情を作ることができる人間が、当時クラスに何人いただろうか。世間の人が思う以上に、小学生の感情表現というのは単純なものだ。なのに、田中むつみは、駆け引きめいた微笑で、誘うようにこちらを見つめていた。


「ねえ、杉浦くん。ちょっと屋上に行ってみない」


「屋上に? どうして」


「行きたいから」


 その不思議な押しの強さは、教室で席を一つ挟んで見てきた彼女のイメージには、ないものだった。スーパーの洋服コーナーで買い与えられたようなくまのプリントのついたピンクの服を着ながら、少女は一人だけ高校生みたいな顔でくすくすと笑っていた。


 俺は、読んでいた本を閉じた。何の本を読んでいたかの記憶は、まったくない。




 実のところ、屋上に足を踏み入れるのは初めてだった。教師から直接何かそういう注意を受けたわけではないのだが、漠然と生徒が勝手に屋上に入ることは禁止されているような気がしていたのだ。事実、屋上には鍵がかかっていた。しかし、内鍵だったので、意味はほとんどなかった。不要な机が踊り場に積まれていたから、それをよけるのに難儀したくらいだ。おもに彼女の主導だが、それでも俺たちは実にあっけなく、屋上の扉を開け、地上十数メートルを流れる風を正面から浴びることになったのだ。


「気持ちいいね」


 田中むつみは、長い髪をはらって、そう言った。その姿を見ていると、なんだかむずむずしてくる。当時俺にはクラスで気になっている女子が何人かいたのだが、気になるということの意味を正しく理解しているわけではなかった。そういう意味を正しく理解せず、ただ純粋に淡い恋愛感情だけで人を気にかけることができる最後の年齢だったと言ってもいい。だから、田中むつみにその時感じた気持ちは、俺にとって未知のもので、ただ肌触りだけでむずむずとした何かであることを知るのみだった。


「杉浦くん、セックスって知ってる?」


「え」


 彼女がなんと言ったのかわからなかった。これは本来の意味でそうだった。俺は、十一年間の人生で、まだその単語に触れた経験がなかった。だから、感じたのは彼女の雰囲気だけだった。その単語を発する彼女の唇を、薄く開けられた目を、かき上げられた髪の毛を、俺は見つめていた。それだけで、俺はむずむずしていたし、どきどきしていたし、これはそういう方向の話なのだとなんとなく察していた。


「知らないの」


「う、うん」


「教えてあげよっか」


「田中さんは知ってるの?」


「ううん、知らない」


 あっさりと、彼女は言う。


「でも、知らないから知りたいの。人に教えれば多分その瞬間わかるものなんだよ。杉浦くんならうってつけ」


「僕が?」


「杉浦くんもそういう気分にならない? 私たち、きっとうってつけなんだと思う。そんな気にならない?」


 それは少しわかる。


 人生において、自分と関わる人というのは本能的にわかるものだ。それは一組のトランプみたいなものだ。数札も絵札もみんなテイストが揃っている。ほかのトランプから一枚だけクイーンを足しても、どちらが自分のトランプの札なのか見分けることは、そんなに難しいことではないだろう。その意味で、俺がクラスで気にかけていた幾人かの女子は、本当に俺と同じ一組のトランプに属しているのか自信が持てなかった。けれど、田中むつみは違う。彼女は同類だ。きっと彼女と自分は同じトランプに属するスート違いの絵札なのだ。俺が生まれて初めて出会ったかもしれない、五十二分の一の同族。


「来て。私がセックスを教えてあげる」


 彼女の手が伸びて、いともあっさりと俺の手を引いた。俺は言われるがまま、風の強い屋上を歩いていく。


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