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夏の大学は、ドワーフたちの住処のようだ。
夏休みを迎えた帰宅部たちは、ゼミを除けば、構内に近寄ろうともしない。いるのは、サークル活動に余念のない一部の運動部。大してテニスをしないことで有名なわが校のテニス部も、だからこそ、夏は書き入れ時だった。もしくは、勤勉な一部の文系サークル、あるいはやはり長期の休みが活躍の舞台となる考古学ゼミ。それらの一部の人間たちが、交わらない目的をたずさえて、半端に人気を失った大学構内を、ぞろぞろと好き勝手なペースでうろつくのだ。その時、我々は互いに異種族であり、互いに夏のダンジョンを徘徊する小人となるのだろう。
「どうする、打ち上げ」
「には早すぎるな」
ゼミの課題を終わらせるべく、我々が学生食堂に集まったのは、午前十一時すぎであり、二十歳を超えた一応大人の義務として、多少のねばりを見せたものの、午後一時頃にはレポート用紙に向かう気力を誰もが失っていた。どうせこの課題自体がただの儀式であり、どのような阿呆な回答を書いたところで、最低限日本語としての体裁さえ保っていれば、優をもらえることは難くないのだ。つまるところ、我々の目的意識はいかにしてこのレポート用紙三枚を文章で埋めるのかという命題につき、その回答が努力や根気に帰結する以上、この集まりが大した意味をなさないことは自明といってよかった。努力や根気といかに無縁であるかについて、時として大学生は底辺を争い合うものだ。
「とりあえず、サイゼでもダベるか。拓はどうする」
「俺は、帰るよ」
「つきあいわるくない?」
俺は、レポート用紙の束を、ユニクロで買った無地の鞄に押し込める。うすっぺらい鞄にはほかに何も入っていなかったが、大学生としての一種の使命感から、俺はいついかなる瞬間でも、構内に入る時は、この鞄を持参することにしていた。だからこそ、この時も、俺の行動は、友人たちにとって、ごく普通の、普段どおりの杉浦拓に映ったことだったろう。
「寄るところがあるんだ」
カランカランと古めかしいドアベルの音は、喫茶店の記号だった。自然とコーヒーが飲みたくなる音。冷房が効いた室内と薄暗い照明、店内に低く流れる有線の旋律、こじんまりとした店内には数脚のテーブルと十数脚の椅子、カウンターの向かいにはほどほどに年老いたマスターが一人。そんな情景がパブロフの犬のごとく、一瞬で俺の中で連想された。実際、そのとおりの店内だった。まるで喫茶店という原風景をそのまま表現したような。きっとそういう志を持った人間が店主をしているのだろう。いい趣味だと思う。アイスコーヒーを頼むことができたらいいなと思う。表面に浮いた結露を指でなぞるのは、きっと気持ちがいいだろう。
ともあれ、俺は店内に知り合いの姿を探した。
人と会う約束だった。
見覚えのある人の姿はない。だからこそ、彼女だとわかった。店内でただ一人の客は、比較的店の奥のテーブル席で、ブラインド越しの細かく拡散された日差しをひっそりと浴びて、静かに座っていた。何か文庫本を読んでいるように見えた。俺は、特に声をかけることもなく、彼女の向かいに腰を下ろす。
「遅かったね」
文庫本から顔をあげることなく、彼女は言った。微笑んでいるように見えたが、正直よくわからなかった。
「道に迷った」
「通い慣れた道でしょ?」
「夏だから。真っ直ぐなアスファルトだって、陽炎に揺らぐかもしれない」
「迷うほどの陽炎?」
「外は灼熱の世界だよ。しばらくここを出ない方がいい」
「そう」
俺は、店主を呼んで水出しのアイスコーヒーを頼んだ。文庫本をまだ両の手で抱えている彼女のそばには、飲みかけのティーカップがあった。中身が何なのかはよくわからない。ガラスコップではなくティーカップだから彼女は温かいものを、そして湯気が立っていないのでそこそこの放置を、わずかに中身が残っているので飲みかけなのだろう……などと、当たり前の推察を順番にこなしていく。そこに彼女の思考や表情を探そうとした。それは彼女の目や口元から彼女の考えを読み取るよりは容易いことに思えた。
「君は……怒っている?」
「何故?」
彼女は微笑んだように見えた。それすらも自分には推察でしかなかった。
彼女の顔は包帯に包まれていたから。
頭髪も見えず、頭まで白いガーゼと包帯に覆われている。わずかに見えるのは、目元と口元と、その周辺にちらつく焼けただれた肌の一部だけだった。薄暗い喫茶店の中、包帯は幾重にも細かい影を作り、彼女の表情を何重にも隠していた。包帯は頭部を超えて、顔を超えて、首に至るまで続き、鎖骨を通り過ぎ、彼女の洋服の中へと消えていた。洋服の中身は、大抵の女性と同様に、男の俺にとってはブラックボックスで、その内側で包帯がどのようなカーブを描いているかは、うかがい知れなかった。そして、袖口から文庫本に添えられた指先に続くまでは、また包帯。つまり、少なくとも、露出された肌部分はすべて包帯が巻かれているということ。指先に腕と同じ幅の包帯を巻くのは、きっと慣れとコツがいるだろう。実に綺麗に巻かれている。
俺の唇は、自然と呟いていた。
「綺麗だね」
「あなたのおかげかも」
ああ、まったくそのとおり。
彼女の傷も、包帯も、すべて俺のせいには違いなかった。その責任と嘘が、十年経っても俺の中に、曲がった鉄くぎみたいに居座り続けている。