プロローグ 1
◆
安田 庵は、ヒキニート街道一直線、今年三十五歳になるヴィジュアル系だ。
ヴィジュアル系といっても、バンドはやっていない。
主な音楽活動は、ボカロの曲を聴くくらいだ。
容姿の方は本来が中の下といったところであった。しかし三十台も半ばを超えると、見苦しさが増してゆく。
本人は斜め四十五度に鏡を設置し、
「う、うん、よ、よし、お、俺、ま、ま、まだまだ、イ、イケてる」
と思っているが、イケていたためしなどない。そもそも、どもり過ぎだ。
その上、近所のコンビニでバイトをしている女子高生からは、影で「キモオタオヤジ」と呼ばれていた。
特に何をしたと言う訳でもなく、月曜日にジャムプ、水曜日にジンマガとホリデーを立ち読みしているだけなのに、どうして女子高生にオタクがバレたのかは、謎だ。
庵の髪は、伸び放題だ。床屋に行くのがもったいないので、それは仕方がない。
だが、今回はこれがいけなかった。
基本的に形から入る庵は、「髪も長いしバンドでもやるか!」と思い立ってしまったのだ。
庵は自分が担当するパートも決めた。
もちろんギターボーカルだ。
その上で、バンド名も決めた。
「ゲスの極みおっさん」という。
ドラムを担当する子は、可愛い女子にしようと庵は思っていた。
捻ったバンド名を付けたつもりが庵はなんと、そのまま自分自身の事を言っていただけである。
――だが、肝心の事は何も決まっていない。
どんな音楽を作るのか――など、庵にわかるはずがないのだ。
本来ならば、全てが逆であろう。
まず、音楽の方向性が決まる。
それからメンバーが決まり、バンド名が決まるのではなかろうか。
しかし庵の精神は、違った。
「バ、バンドといったら、モ、モテるんだな。そ、その為には、け、化粧だ。お、俺はGAK〇T〇を超える、よ? 超えちゃう、よ?」
もはや支離滅裂だ。
もしも本当に超えたいなら、まずはメタボリックなお腹をシックスパックに変えるところから始めるべきだろう。
しかし庵は、化粧をすれば何とかなると思い込んでいた。三十五歳なのに、無茶なことだ。
そして妹の化粧品を奪い、メイクアップ。
ここでももちろん、形から入ろうと思った。
ちなみにボカロの曲を作ろうとして断念した過去は、あっさりと忘れている。
つまり庵に音楽的才能は――無いのだ。
しかし意外と手先が器用だった為、化粧はまあまあ成功した。
――――
庵の妹は十歳下で、メーカーのОLだ。
たまに彼氏が家にくると、
「兄貴はぜってぇ部屋から出んじゃねぇぞ? 出たら殺すぞ。あぁん?」
そういって庵を脅していた。
庵にとっては、まったく萌えない妹である。
それどころか、むしろ燃やしたいと思ったことなら何度もあるが、それは人道的に出来なかった庵だ。
庵はゲスであっても外道ではない。人としての道は、決して踏み外さないのである。……多分。
しかし庵にとって妹は、実に厚顔無恥だ。
あれほど庵に厳しく当たる妹なのに、彼氏がいると、
「やだぁ、お父さんの前でそんな事言わないでよぉ、恥ずかしいなぁ、もうっ!」
などと言っているので、庵としては不満が溜まっている。
二階にある庵の自室にも、一階で騒ぐ妹の声が響くのだ。もう――庵はストレスでハゲそうなくらいだった。
「こ、ここ、このアバズレがっ! お、お、俺がハゲたら、ど、どど、どうするんだ! せ、せ、世界の損失だぞ!」
庵は唸っていた。
だが実際、庵がハゲたところで誰も損をしない。
そんなことは、庵だって分かっている。
だからこそ庵は、悔しい。
だが不思議な事に、妹の口紅を自分の口に塗ると、やや溜飲が下がった。
「ふへへ……愛里め……お、俺が使った口紅を、お前も使うんだぞぉ~~。あ、この口紅を、お、俺のケツに……へへ、ふへへへ……」
庵は人を殺すような外道ではないが、ゲスの極みには違いなかった。
◆◆
麗らかな春の日曜日――その昼下がり。
緩やかな日差しが、安田家の二十畳もあるリビングを惜しげもなく照らす。
リビングではガラスのテーブルを挟み、二つのソファーに腰掛ける二組の男女がいた。
一組は、庵の両親であり、もう一組は、妹――愛里とその彼氏だ。
愛里は結婚でも意識しているのか、近頃は彼氏を休日の度に招くようになっていた。
「お兄さんには、今日も会えないのかな?」
「いいの。あんなクズに鹿島くんが会っても、何もいいことないもの!」
「お兄さんの事をクズなんて――」
鹿島――愛里の彼氏は、大きな身体をソファーに沈め、頬を掻く。
数度の訪問で、愛里が兄を毛嫌いしていることは知っていた。
その理由も――理解している。
鹿島はかつて、彼女の兄と同じ経験をしたことがあるから――。
だからこそ彼を否定せず、会って話をしてみたいと考えていたのだ。
「ああ、愛里の言うとおりだ。キミのような好青年に、ウチの恥を見せたくは無い。いずれは――アレと縁も切るつもりだしな……」
父も――愛里に同意を示す。しかも先ほどまでと違い、棘がある。
鹿島は、庵と会うことを諦めるしかなかった。
このような状況だから、団欒に庵が招かれる訳がない。
柔らかな日差しを湿ったカーテンに反射させ、パソコンの画面が放つブルーライトに目を焼かれる庵は、あくまでもミソッカスなのだ。
従ってこの時も当然、庵は二階の自室にいた。
だがこの日、庵は一つの決心を胸に階下へ降りようと思った。
何故なら鏡に映る自分が、あまりに美しかったから。
(これだけ美しい息子を見れば、父さんも母さんも――何かしら考えを改めるのではないか?)
などと思ったのだ。
当然、勘違いなのだが。
「お、俺……キレイ……じゃね? う、歌わなくても、稼げるんじゃね……? も、もう、ミュージシャンとかじゃなくて、ヒ、ヒーローとかで、いいんじゃね?」
薄暗がりの中、カーテンの隙間から差し込む明かりが、庵を気の毒そうに照らす。
とうとう自然にまで見放される庵に、そんな自覚はない。
こうして庵はクローゼットを開き、十年越しに袖を通す一張羅――革パンと革ジャン――に手を通した。
なぜ庵がこのようなモノをもっていたのかは、分からない。
何かに憧れた事もあったのだろうが、本人すら忘れているのだから。
そして徐にパソコンの電源を落とす。
もう――ゲームにも飽きていた庵だ。
「ふっ……に、日本も世界も手に入れた。ど、どんな美女も、お、俺の前に跪いた――さ、最強の盾にもなったし、お、お、俺に使えない魔法もない」
鏡を前に、ポーズを決めて庵は呟く。
階下に下りる前の、儀式だった。
精神を高揚させ、魔王に挑む――そのような気分だ。
ただ、言っていることは情けない。
要するに様々なゲームを全部クリアして、レベルもカンストしたということ。
彼はゲームだけが得意だった。
何しろ人一倍時間があるのだから、当然だろう。
むしろ彼の人生は、その大半がゲームだった。
しかしこれで、勇気が出た。
今の自分は完璧だ――美しい――と際限のない自己陶酔を決め込むと、庵は足音も高く階段を下りて、意気揚々とリビングの扉を開けた。
唖然とする両親、愛里、そして鹿島。
今まさに、注目の的。庵、オンステージの始まりだった。
「聞いてくれ、魂の叫びさ――ギュイイーン」
箒をギターに見立て、手を大きく振る。
ギュイーンは、当然口で言った庵だ。
今の庵は、桃色リップにすみれ色のシャドウ。
ちょっと失敗したアイラインは強引過ぎて真っ黒だが、ギリギリ、アヴ〇ル・ラヴィーンと言えば通るはず――と、思っている。
長く伸びた髪は無造作に、パンクファションだ。
庵は自分の美しさに酔っていた。
(腹が少し出ていたって、美しいものは美しい。足が少しぐらい臭くたって、この美の前には些細なこと。風呂は五日に一回入っている! 気にする事じゃない!)
四つのティーカップを乗せたガラステーブルを囲み、ソファーに座るオーディエンスに、庵はニヒルな笑みを送った。
「お、俺の名は、い、庵。あ、あ、あ愛里の兄であり――せ、せ、世界の平和を護る、ひ、ひ、ヒーローだ――!」
父が感動の余り震えている――と、庵は思う。
しかし、現実は違う。最近薄くなってきた頭に巨大な青筋を立ててプルプルと震える庵の父は、怒り狂っていた。
庵の母は、泡を吹いて仰向けに倒れた。
愛里は憤怒の形相で兄を見上げ、顔を真っ赤にしている。
そして――妹の彼氏は――
「はじめまして。僕は、鹿島といいます。一応、職業、格闘家ってトコなんですけど――ハハ。まだ全然試合数こなしてなくて。お兄さんは、音楽関係のお仕事ですか? いやあ、驚きです! カッコイイですね!」
なんと彼は立ち上がって、庵に右手を伸ばしていた。
出来た男だった。そして巨体でもある。
しかし鹿島はこの時、思っていたのだ。
(この人は年上だけど、四年前の俺だ――)と。
だから鹿島だけは庵を、受け止めることが出来た。
一方で庵は圧倒されていた。
庵の身長は百七十センチ。現代の日本人としては、やや小さいだろうが、大人としてやっていけないサイズではない。
その庵が、天を見上げるかのように顎を上げなければ、鹿島と会話が出来ないのだ。
「こ、この巨体――だ、だとすれば、きょ、巨根でもあるのか。あ、愛里が惚れるわけだ」
庵の口をついて出た言葉は、最低だった。ゲスなので仕方が無いが、ゲス過ぎる。
妹のパンチが、腹にめり込む。
「げ、げふうぅ!」
「はは、愛里。やめなよ……お兄さんじゃないか。それに、事実だろ? ハハッ――」
更に暴れようとする妹を、鹿島は容易く止めた。
しかも庵のゲス発言を褒め言葉に変換した鹿島は、白い歯を見せて笑う。
「この男を怒らせたら、マズい」
その瞬間、庵の中で、何かのスイッチが入った。
それと同時に、鹿島は敵じゃない――そんな気持ちになった庵は、懸命に喋ろうと思う。
「あ、あ、あ。ぼ、僕、安田庵ですともうします。い、い、い、いちおう妹の兄をやらせていただいてますです。し、し、仕事は、世界の平和を守ってます……のだ!」
親指を立てて、キリリとした顔で彼は言った。
ヒーローという設定を何故か守っているものの、ミュージシャン設定は忘れた。
だが、もはやこうなった庵は、単なるコミュ障のいじめられっ子に過ぎない。
いじめられっ子は、この場の絶対的強者に目を付けられた。
「庵! 何が平和を守っている! だ! ――お前の守っているのは、ここ! 自宅だろうが! 高校を卒業してから十七年! いつまでもいつまでも親の脛を齧って、恥ずかしくないのか!」
この有様に、なんと父が大噴火だ。
そして、庵に叩きつけられる分厚い封筒。
近々、とにかく庵を独立させようと考えていた父の親心である。中には、五十万円ほど入っていた。
――要するに、なんと言おうがこの親は過保護なのだ。三十五にもなるまで家に置き、放逐すると見せて、金を渡す――
鹿島は、溜息を吐いた。
(なぜもっと早くに――)
そう思ったからだ。
だが、父は必死で言う。
「せめてもの餞別だ! もう出て行け! 一人前になるまでは、二度と我が家の敷居をまたぐなっ!」
庵にとっては余りにも突然の、追放令だった。
復活した母が父をとりなすような素振りを見せるが、しかし頑なに受け入れない父。
(今回は、本気なのか――?)
庵は、ただ目を瞬かせている。やたらと長い付け睫毛のせいで、その動きが妙にウザい。
庵は諦めて、自室へ戻ろうとした。
出て行くにしても、化粧をして革ジャン、革パンでは、ちょっと職質をされてしまうだろう。
着替えなければ――と、庵は思った。当然の行動だろう。
「出て行け」
しかし、父は厳しい。
三十五歳の息子に軍資金を五十万円も渡すほど激甘なのに、何故か着替えを許さない父は、この時、鬼だった。
「早く、出て行け」
庵の背を押し玄関へ向かう父。
運動不足の庵は、六十過ぎの父に腕力でさえ勝てなかった。
そうして、玄関の外へ放逐される。
”カァーーー、カァーーーー”
赤く染まりつつある空が、庵の切なさを募らせた。
硬く閉ざされた玄関の扉は、ピクリとも動かない。
庵は諦めて、路地を歩く。
長く伸びる自身の影が忠実に後を追ってくるが、庵に行く当ては無かった。