8:甘いお誘い!
「うーん! ああ、もうちょっと!」
包帯で真っ白なミトンと化している私の手が、ワンピースの後ろを行ったり来たりしている。
素手の状態でさえ止めにくい背中のファスナー。両手を怪我した今の状態で着るのは、無謀だったようだ。
「薺さん、どうかされました? ああ、チャックですか……はい、どうぞ」
偶然部屋の前を通りかかったらしい櫟は、自然な動作で着替え中の私に近づくと、ヒョイとワンピースの後ろのファスナーを引き上げた。
「……う、あ、ありが、と?」
着替え中に無断で部屋に入って来たことを怒ろうか、チャックを上げて助けてくれたことに感謝しようか混乱してしまう。
「いいえ、いつまで経ってもお店に降りて来てくれないから、何かあったんじゃないかと思いまして」
「ごめんね、手持ちで簡単に着られる服が少なくて……」
私は、ピッチリカッチリしている服ばかり着ていたので、ほぼ全ての服にボタンやファスナーがついている。両手を怪我して初めて、ウエスト周りゴム製の服の偉大さを知った。
ちなみに、今着ている下着は、駅前の商店で売っていた後ろにホックのないスポーツブラだ。両手を怪我しなければ、一生縁のない商品だっただろう。
「着替えなら、いつでもお手伝いしますので言ってくださいね」
「……いや、それは」
男の子には頼みづらいよ。
「それから、お聞きしたいと思っていたのですが……扉の前に積み上げてある大量のゼリー状ドリンクは何ですか?」
「私の食事よ。手を使わなくても食べられる物をと思って。後で部屋の中に入れるわ」
「……独創的な発想ですね」
櫟の表情から、褒められてはいないのだということが伺える。
「食事は僕が作ります。僕が薺さんに食べさせれば問題ないでしょう?」
「問題ありすぎるよ! 身内同士でも介護は社会問題になっているんだよ、出会って間もない櫟君にそこまで世話してもらう訳にはいかないわ」
第一、異性にそんなことをしてもらうのは、色々と恥ずかしい。
「介護……上等だ。僕、薺さんのお世話なら喜んでさせていただきます!」
「……櫟君?」
一瞬だけ、櫟の纏う雰囲気が少し変わったような気がした。けれど、見間違いだったのかもしれない。
今、目の前にいる彼は、いつもの優しげな青年だ。
「どうか僕に、薺さんのお世話のさせてください」
「ちょっと、櫟君?」
櫟は、ウルウルとした緑色の瞳で私を見つめてくる。
……もしかして、彼ってちょっと変な人だったりする!? 私を家に連れて来た経緯とか、ちょっと強引だったし。
「実は僕、初めて出会った時に……薺さんのことを好きになってしまったんです」
「へ……?」
待て、ここで告白が来るのか!? ちょっと今はそれどころじゃない。空気読め!
「薺さんの事情は知っています。あなたを刺そうとしたのが元彼氏だということも、警察官の前で一緒に聞いていたので……」
「うーん。女の恋は上書き方式だっていうけれど、私はもう少し冷却期間が欲しいわ。まだ、榊と別れて二週間くらいだもの……」
「冷却期間中でもいいです。僕は、薺さんが好きです……せめて、一緒にいさせてください」
「私は今すぐに櫟君の好意には答えられない。この先、あなたのことが好きになる保証もない。それなのに、家に泊めてもらってお世話までしてもらう訳にはいかないわ。私は櫟君に与えてもらったものを返せないから」
あーあ。薄々好かれているのかなとは思っていたけれど、告白されるとまでは思わなかったな……
黙っていてくれれば、数日間はお世話になれたかもしれないけど……どうして今、告白しちゃうかなあ。
もう、この家にはいられないな。なんか気まずいし。
「櫟君、私やっぱり帰……」
「待って! せめて、あと数日だけでも泊まって行ってください。荷物とか全部こっちに持って来ちゃったし、色々と用意が……」
「へ? 荷物全部って……どういうこと!?」
「犯人が捕まっていない以上、あの家は危険ですから!」
キリッとした表情で、私に向き直る櫟。
ああ……この子。ちょっと残念な子かも。なんてことをしてくれちゃっているの!? 勝手に私のマンションの荷物を、全部こっちに持って来ちゃったの!?
「うちにいれば、薺さんが無職でも家賃の心配は要りません」
「ぐっ……」
「ご友人が一人もいなくても、両手が不便でも、僕がいるので生活に困ることはありません」
「ぐぐっ……」
無職とか、友人がいないとか、今いわなくてもいいでしょう!? 心を抉られるのはニュース番組だけで十分よ……?
「そうそう、田舎のご両親にも電話でお話ししておきました。昨日、薺さんがお風呂に入っている間に電話がかかって来ていたので……」
「か、勝手に出ないで……!」
「ご両親、喜んでいましたよ。今度、二人で会いに来いと言われました」
「それ、絶対、何かを勘違いしてる!!」
何てことだ! 私の知らぬ間に、周囲を固められているとは!
櫟、残念な子だと思ったけれど意外に出来る子なのか!?
家賃が浮くのは嬉しいし、あのマンションに戻れないのも事実。忙しい両親も実家を離れられないし、彼等に甘えることは出来ない。こちらには頼れる人間はいない。
そんな私に手を差し伸べてくれる櫟の存在は、とてもあいがたいものだった。現実に今、私が頼れる相手は目の前の櫟だけなのである。
「あの、無断で勝手なことをしてごめんなさい。でも、薺さん、ちょっと危機感が薄いみたいだったし、怪我もしているし心配だったんです。僕、同じ屋根の下で暮らしていても、強引に薺さんに手を出したりとか絶対にしません!」
「したら犯罪だよ!」
取り繕うことを忘れて、私は思わず彼に向かって叫んだ。
けれど、櫟はこちらを気にせずに言葉を続ける。
「今までのことも、これからのことも……僕が好きでやっていることだから、薺さんは何も心配しなくていいんです。難しいことは考えずに、僕に身を任せてお世話させてください。それで薺さんの気が済まないのであれば、手が治った後で少しだけお店をお手伝いしてくださると嬉しいです」
詐欺だ! これは、ぜったいに新手の詐欺である! こんな都合のいい展開なんて、現実にあるわけがないんだ!
「僕、薺さんが家にいる期間中に、必ずあなたを振り向かせてみせます!」
私の心情など察せる筈もなく……目の前の櫟は、笑顔で力強くそう宣言した。