6:牛乳パックの悲劇!
「榊……?」
彼が取り出したのは、折りたたみ式のナイフだ。
「ちょっと、何出してんの!? 危ないから戻してよ」
「薺、一緒に死のう? 俺、薺が他の男と一緒になるのは許せない……あの世なら、借金もないし結婚出来ると思うんだ」
榊の目は虚ろで、焦点が合っていない。
彼の持つ鋭くて小さな刃が、私の胸を狙って突き出される。
私は身を守る為に、咄嗟にそれを両手で掴んで防いだ。指の間から、血が漏れる。
「大丈夫だから、薺。俺もすぐに後を追う」
「そういう問題じゃない!」
痛い、痛い。でも、いま手を離せば、殺される! 榊はきっと、まともな精神状態ではないのだ。
尻餅をついている状態の私は、身をひねってナイフの軌道から体を反らそうと試みた。
手で横方向にナイフを押しやり、横に転がって振り下ろされる刃を避ける。ナイフは私の肘を擦り、お尻の下敷きになっていた牛乳パックをビニール袋ごと突き破った。
「誰か! 誰かいませんか! 助けてください!」
私は両手を庇いながら榊と距離を取り、大きな声を出す。
同じマンションの住人が気付いて、私を助けてくれることを祈りながら。
ややあって、ガラガラと何件かの窓が開いた。平日でも家にいる主婦や老人が顔を覗かせる。
「お前、なにやっとるんだ!」
一人の老人が、榊のナイフに気が付いて怒鳴り声を上げる。
その声に反応した主婦が、スマホを取り出してどこかに電話をかけた。警察だろうか。
周囲の様子に気付いた榊は、おろおろと辺りを見回した後、牛乳パックに刺さったナイフを引き抜いてマンションの前から逃走した。
「……助かった」
私は、へなへなとその場に崩れ落ちた。掌からはボタボタとものすごい量の血が溢れ出している。
「あはは、ホラーみたい」
地面に座り込んで動かない私を心配したのか、同じマンションに住む主婦が下まで降りてきてくれた。
「あなた、大丈夫……ちょっと! 血が出てるじゃないの!」
「ああ……痛いけど平気です。近くに病院があるので、行って来ます。ちょっとびっくりしちゃいました」
「今、警察を呼んだから。でも、あなたの怪我が先よ!」
ああ、ついていない。
リストラされた上に、元カレに刺されるなんて……
私は、主婦にタオルを借りて血が滴らないようにした上で病院へ向かった。マンションから歩いて二分ぐらいのところにある、小さな個人の病院だ。心配した主婦が、ついて来てくれた。子供もいるだろうに、申し訳ない。
「薺さん!?」
マンションから数歩歩いたところで、急に名を呼ばれて振り返ると、青白い顔の櫟が立っていた。
「あれ、櫟君。どうしてここにいるの?」
「……声が、聞こえて」
「え? ああ……」
さっきの、「助けてください!」ってやつかな。そんなに遠くまで聞こえていたんだ……
「あなた、この子の知り合い?」
主婦が櫟に私の事情をかいつまんで説明する。
それを聞いた櫟が、私の同行を申し出た。
私達は、主婦にお礼を言って病院へ向かう。ああ、不特定多数の他人様に迷惑を掛けてしまった。
「……血の匂い」
「うん、素手で刃物を掴んじゃったから」
「ごめんなさい、薺さんがこんなことになっているとは思わなくて、僕……」
「どうして櫟君が謝るのよ? 私だってこんなことになるとは思わなかったよ。病院までついて来てくれてありがとう」
お礼を言うと、櫟は悲しそうに目を伏せた。