5:元カレ出現!
白狸は、度々私の家へやってくるようになった。
餌付けもしていないのに、物好きな狸である。部屋だって、狸が好みそうなものは何一つ置いていないのに。
昨日の夜中にもやって来たしなぁ……寝る前に帰って行ったけど。
「あ、牛乳切れた」
昼ご飯にパンケーキでも焼こうと思ったのだが、生憎牛乳がなくなってしまった。中途半端に混ざり合ったパンケーキミックスを見て、私は溜息をつく。
仕方がない、駅前の商店に買いに行こう……
この田舎駅には、スーパーなんてものはない。駅前に八百屋と肉屋と魚屋、その他の物を扱う商店が揃っているので、生活に困ることはないが……
軽く化粧をして、外行きのTシャツに袖を通し、財布とスマホをの入った鞄を持ってパンプスを履く。
マンションから駅前までは、約十分だ。
昔から建っていそうな古い民家が並ぶ道をまっすぐ進むと、駅前に出る。
「あれ、薺さん!?」
「ん……?」
名前を呼ばれて前を向くと、以前狸と出会った公園の入口にカフェの店員——櫟が立っていた。
「あら、櫟君。この間はありがとう」
「お出掛けですか?」
「うん。駅前に食材を買いに……」
「奇遇ですね、僕もです。小麦粉を切らせてしまって……」
櫟は、ケーキでも作るつもりだったのだろうか。
行き先が同じ商店なので、彼と一緒に駅前に向かうことにする。
なんということのない会話をしながら駅前の商店に入り、それぞれが必要なものを買った。
「ちょっと、櫟君! それくらい持つよ!」
私がレジで会計を澄ませた瞬間、櫟が私のレジ袋を奪う。
「牛乳って重いでしょう?」
「大丈夫だよ、いつも持っているから。貸して?」
しかし、櫟は何を言ってもレジ袋を離さない。結局、私が彼の小さな鞄を持つことで妥協した。めちゃくちゃ軽いけど。
駅前から、櫟と一緒に元来た道を戻る。
「ん……?」
私は、ふと、背後に視線を感じて振り返った。
……誰もいない、気の所為か。
「薺さん、どうかしましたか?」
「ううん、なんでもない」
櫟と公園の前で別れ、牛乳と鞄を交換して自宅へ戻る。
しかし、マンションの入り口の前で私は立ち止まった。
なんで、ここにお前がいる……!?
驚いて足を止めた私の前に、元カレの榊がしゃがんでいた。
「榊、どうしてここにいるの?」
「ああ、帰ってきたんだね。薺の会社に行ったんだけど、事務員の女の子に辞めたって聞いて……家にいるかなと思って」
「……そう。それで、何の用?」
なるべく、興味がなさそうに冷たく聞こえるよう、私は声を尖らせる。
会いたくないと言っているのに、家に押し掛けてくるなんていい迷惑だ。そんなことをしても、私の下した結論は変わることはないのに。
話し合いで解決できるレベルではないんだよ、お前の借金問題はな!
「少し、薺と話そうと思って、来たんだけど……」
「私には、話すことなんてないわ」
「……そうだね、そうだろうな。はははは!」
急に乾いた声で笑い出す榊に、私は驚いて後退する。
「だって、薺が俺と別れたい理由は俺の借金じゃなくて、他に好きな男が出来たからだもんな!」
「……はい?」
「見たぞ! 駅前から男と並んで歩いて来ていただろう!」
ああ、櫟のことだ。彼と買い物に言ったところを榊は見ていたようだ……あれ?
榊は、私達が買い物しているのを知っていて、私の家に先回りしたってこと!?
「すっかり騙されたよ! ラインも無視して、電話だって拒否して……どうせ、あいつと一緒だったんだろ? このアバズレ!」
「なんで、私がアンタにアバズレ呼ばわりされなきゃいけないのよ。あの子は、ただの知り合いで……」
「うるさい!」
叫んだ榊が私を突き飛ばした。
彼の手を避けきれなかった私は、地面に尻餅をつく。牛乳の入った袋が、ドシャリと音を立てて私の下敷きになった。
「俺は、お前だけだったのに」
「……榊」
「俺が苦しんでいる間、薺は他の男とよろしくやっていたんだろ? お前は、別れる理由を金の問題にすり替えていたけれど、ただ浮気をしていただけなんだろう?」
虚ろな目で私を見下ろす榊の表情は暗く、追い詰められて切羽詰まった人間特有の、何を仕出かすか分からない空気を纏っている。
これは、危険だ。
「薺、愛してる……やりなおそう? 今回だけは、浮気も許すから」
「……無理。それに、浮気なんてしてないし」
地面に両手をついたまま、私はじりじりと後ろに下がる。
「金や親戚のことで迷惑を掛けたりなんてしない。薺は、俺個人のことは好いてくれていただろう?」
「それは、そうだったけど。でも……」
「俺は、結婚する気はないけれど……薺だってまだしなくてもいいじゃないか。そんなの、十年くらい先のことだろう?」
阿呆か。十年経ったら私は三十歳越えだよ! 数年後はアラフォーになっちゃうよ!
三十代で結婚相手を探すのと、二十代から確保しておくのとでは雲泥の差なんだよ!
無計画な榊を、私はやっぱり受け入れられない。
榊の考えを否定する気はないけれど、価値観の違いはどうすることも出来ないのだ。これは、もう一緒にいるのは無理ということなのではないだろうか? だって、妥協点が見つからない。私は、結婚が望めない相手と十年も共にいる気はないのだから。
人並みの幸せを望んで、何が悪いのだ……
「私の考えは、身勝手だと思う。でも、私は最初から、その場しのぎの付き合いをする気はなかったの。榊にとっては重いかもしれないけど……結婚とか、色々本気だった」
「だって、薺はまだ就職して間もないだろう? そんなにすぐに結婚しようと思わなくても……」
「私は、いつかは結婚したいと思ってる。いずれは解消される関係なら、早いうちにって思うのは変なの? だって、何年後かには別れるんだよ? 私は、誰かと結婚しながら他の人と付き合ったりは出来ない」
「じゃあ、どうすればいいって言うんだよ!」
何故かキレ出す榊……
いや、だから別れようって言ってるじゃん。
「いやだ! 俺は、別れないからな!」
「ちょっと、近所迷惑だから大きな声出さないで」
「俺は、絶対に別れない! 薺が、どうしてもって言うなら……」
思い詰めた様子の榊は、穿いているデニムのポケットからキラリと光るものを取り出した。