17:元同僚襲来!
今日は、マンションの退去立合い日だ。
築三十年以上のオンボロマンションだったが、部屋を引き払うとなるとなんだか寂しい。
蔦の這った灰色の壁面を見上げながら、私は溜息をついた。
「綺麗に使われていましたので、特に修繕の必要な箇所はありません。では、立合いは以上になります」
「ありがとうございます」
業務口調で話す管理会社の男性に頭を下げると、私はかつての部屋を後にした。
八月も、もう終わりだ。鳴いている蝉の種類も以前とは変わっている。
「さて、帰りますか」
ピンヒールでカツカツと音を立て、マンション前のくすんだ石畳を歩く。
ふと、前を見ると、門の前に怪しい人影が見えた。思わず、ギクリとして足を止める。
「榊……な訳ないよね。アイツは、もう捕まったし」
ゆっくりと歩を進めると、その人影が女性であることが分かった。ヒラヒラとしたフレアのミニスカートを身に纏っている。
しかも、あのフリフリシルエットには非常に見覚えがあるな。どうしよう、関わりたくない……
けれど、マンションから道へ抜ける出口はそこしかなく、櫟の店へ戻るには彼女の前を通らないわけにはいかない。
躊躇していると、門の前に陣取っていた女性がこちらを振り向いた。
「田中さん……やっと見つけた」
ホラー映画の登場人物のように、低く唸るような声で彼女は私の名前を呼ぶ。呪われそうだから止めて欲しい。
「……辻本さん、どうしてこんな所にいるの?」
彼女のマンションは、もっと職場に近い駅にある。こんな鄙びた町には住人以外は用がないだろう。
ここで私を張っていたと見て、間違いない。
住所は社内の資料で調べた線が濃かった。個人情報には、もっと気を配って頂きたいものである。
年齢に合わないフリフリのミニスカートと、フリフリのブラウスを着た辻本は、居丈高に私に向かって宣告した。
「あなたに用事があったのよ。慰謝料、払いなさい!」
大きな声と共に、一枚の紙が突き出される。見ると、手書きで六十万円と書かれていた。
……なんだ、この紙は? 手作りか?
「……一体、何の真似?」
「私は、田中さんの所為で失業したの。だから、当面の生活費を払ってくれる? 約三ヶ月分だもの、良心的な価格でしょう?」
「意味が分からない。私には、あなたに慰謝料を支払う義務はないよ。電話でも言ったよね?」
退職金だって貰えている筈なのに、がめつい女だ。
「これ以上、頭の悪いことばかり言っていると人を呼ぶよ?」
「田中さんには、罪悪感ってものがないの!?」
「辻本さんに関しては、ないわ。これっぽっちもない……じゃあね」
そのまま、彼女の前を通り過ぎて道に出る。道の向こう側にある民家の生け垣に、白い毛玉を発見した。
「げ……」
手続きに時間が掛かってしまったからか、変な女に捕まって帰りが遅くなったからか……
心配性の彼氏が、様子を見に来てしまったようだ。白狸姿で。
狸は、生け垣からポテリと飛び降りると、トトトと足音を立てて私の傍に走り寄って来る。
私は少し屈んで、白狸——櫟を抱き上げた。
「遅くなってごめんね。手続きが終わったから、もう帰るよ」
そのまま歩き出そうとした私に、後ろから尖った声が掛けられる。
「ちょっと、待ちなさいよ! 慰謝料払えって言ってんのよ! この○△×■*○□※!!」
マンションの門の前から何か大声で叫んでいるが、よく聞き取れない。
でも、このまま帰ったら櫟の店にまで付いて来そうだな……それは嫌だ。彼にまで迷惑を掛けてしまう。
「困ったなあ……」
腕の中の狸が、翠色の目で私を見つめた。
「あの人、誰ですか?」
櫟が鼻の上に皺を寄せ、辻本の方を前足で指し示す。もの凄く違和感のある動きをする狸だ……
「彼女は辻本さん……前に私宛に電話を掛けて来た人だよ。家の前で、私を待ち伏せしていたみたいなの」
私の説明で櫟はピンときたみたいだった。鼻筋に浮かべる皺の数が増える。これは、怒っているのかな?
「あの職場の同僚とかいう人ですね。良ければ、僕が追い払いましょうか?」
「そんなこと出来るの?」
驚いて手元を見ると、狸は緑色の目に妖しい光を浮かべて頷いた。
「ええ、任せてください」
そこから先は、まるで夢を見ているようだった。
急に突風が吹いたかと思うと、舞い上がる落ち葉とともに辻本が空中で風に翻弄されている。
落ち葉ごと彼女を巻き上げた風は、そのまま何処かへと去ってしまった。後には、何も残されていない。
「……今のって?」
私は、掠れた声で櫟に問いかけた。
念のために自分の右頬をつねってみたが、変化は起こらない。夢や幻覚ではないようだ。
「あの人には、五駅先まで移動してもらいました。今のうちに帰りましょう」
「う、うん。あ、ありが、とう」
あまりにも驚きすぎて呆然と空を見上げるだけの私に業を煮やしたのか、いつの間にか人間の姿になった櫟が私の腰を引き寄せて歩き出す。
私は彼に誘導されるまま、ひたすら足を動かした。
気が付くと、住宅街の坂を上まで登りきっている。私達以外通る者がいない、舗装されていない小道を歩いていると、ふと櫟が足を止めた。
「薺さん……」
「な、なぁに、櫟君?」
「さっきは驚かせてしまいましたね、ごめんなさい」
シュンとした表情の櫟に、私は慌てて返事をした。彼の悲しそうな顔は、いつだって無駄に罪悪感を煽る。
「櫟君は悪くないよ。困っていたところを助けてくれてありがとう。狸って、凄いんだね」
凄いというか、もはや現実味がなさ過ぎてコメントのしようがない。
けれど、私の言葉を受けた櫟は嬉しそうに頬を染めていた。可愛いな。
「ねえ、薺さん。今日のようなこともありますし、今後あなたの元恋人が釈放される可能性もあります。そのことで、僕から提案があるのですが」
「提案って?」
櫟は、腰を抱いていた腕に力を込めて私を抱き締める。向かい合った彼の表情は、真剣なものだった。
「引っ越し、しませんか?」
「何言ってるの?」
急に引っ越しだなんて。彼だって仕事があるだろうに。
「薺さんは、このままで良いのですか? きっと、また厄介なことが起こると思うんです」
「それは……」
確かに、櫟の言う通りだ。
あのマンションを引き払ったとはいえ、今の住居はすぐ近所。外出時に面倒な相手に遭遇する恐れがある。
「転勤の希望を出そうと思います。薺さん、行きたい場所はありますか? 狸の職場は割と融通が利くので、すぐに移動出来ると思いますよ」
「でも、それじゃあ櫟君が……」
「僕は、薺さんがいる場所ならどこへ行ってもいい。本音を言えば、あなたと夫婦になってからが良かったのですが」
そう言い終わるやいなや、櫟は性急に私に口付けてきた。急な事態に私の頭は対応出来ず、櫟の唇を受け入れてしまっている。
後退する足が、小道を仕切るフェンスに触れて……これ以上行き場がない。ヒールの踵が逃げ場を探すように剥き出しの土の上を彷徨った。
「ん、櫟君。こんな場所でこんなことをして、誰かに見られたら……」
「大丈夫。この道は他の人間には見えません」
どういうことかと問うよりも早く、櫟の唇が再び私のそれを塞ぐ。彼の口付けは徐々に深く濃くなっていき、私の思考も溶けていった。問いたい内容も、彼に対する苦情も全てが霧散する。
ふにゃりと崩れ落ちそうになる私を、彼の細い腕がしっかり抱きとめた。
「薺さん、涙目になっていますよ?」
頭がぼうっとして、咄嗟に返事を返せないでいると、櫟がひょいと私を抱き上げた。見かけに寄らず、腕力があるようだ。
「櫟君……」
「お店に戻りましょう。足下がおぼつかないみたいなので、僕が運びますね」
彼があまりにも嬉しそうな顔で言うので、私は黙って頷くことしか出来なかった。いつになく、胸が高鳴る。
櫟の中の優先事項が、私になっていることも一因だ。彼が転勤する理由なんてないのに。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
気付けば、私は櫟に向かってそう口にしていた。
小道を通り抜けた先には、手入れされた庭が広がっている。咲き誇る花々にも、どこかで鳴く虫の声にも秋の気配が感じられた。
庭を囲むように存在する林の木々が、風に吹かれてサワサワと音を立てる。
「薺さんが好きだからです」
微笑みながら櫟が答える。その内容に対する迷いは、一切感じられなかった。
だからこそ、私は余計に混乱する。
「どうして? なんで櫟君は、私なんかかが好きなの? 雪が降ったから? 嫁だから? 私のどこが好きなの?」
「そもそも、狸の結婚においては、合う相手としか縁は結ばれません。僕と薺さんが出会ったのも、そういうことですよ」
急に老成したような口調でそう語り出す櫟に、私は彼の実年齢を思い出した。
穏やかな光を湛えた緑色の瞳が、ゆっくりと細められる。
「僕は、薺さんの全部が好きです。初対面のときは、容姿と優しさしか分かりませんでしたけれど……一緒に過ごすうちに、他にも好ましい部分をたくさん見つけましたよ」
「……なんだか、上手くはぐらかされている気がするわ」
未だ抱きかかえられたままである恥ずかしさや、その他諸々の事情が相まって、なんだかいたたまれない気持ちになってくる。
「私、櫟君に何もしてあげられていない」
「初対面の時に、僕を助けてくれたでしょう? あの日は、近道したつもりがドジを踏んでしまって」
「……今考えると、私が手出ししなくても、あなたなら自力で家に帰れたように思うわ」
辺りは静かだ。今、この場にいるのは私と櫟だけ。
「それはない。えっと……この際なので、薺さんの考えていること全部僕に教えてください。半年待ってと言われましたが、僕のこと嫌いじゃないですよね? 何があなたを躊躇させているのか、知りたいんです」
「それは……」
白髪の青年の観察眼は、思ったよりも鋭かった。
櫟の言う通りだ。以前から私は彼に好感を持っていたが、一緒に暮らすようになってからは、日を追う毎に彼に惹かれていくのが分かる。それでも、彼の求めに応じないのは理由があるからだ。
けれど、それを本人に言ってしまって良いものか気が引ける。
「言って?」
迷っている私に、櫟が再度声を掛ける。抱き上げられたまま覗き込まれ、また脳内が溶け出しそうになる。
やばい、今の私は完全におかしい。
「あのね、ちょっと変な事言うけどいいかな?」
「どうぞ」
「なんだかね、櫟君って現実味がないの。素敵なお店で働いているし、格好良いし、狸だし、年上だし、優しいし、辻本さんを飛ばしちゃうし……」
そう。現実味がなさ過ぎて、怖い。
「何かの拍子に消えてしまうんじゃないかって、不安になる。今、私が見ている風景も、櫟君自身も消えてしまったらと思うと、怖くて……」
私は、櫟に正直な思いを告げた。自分でも、変なことを言っていると言う自覚はある。
しかし、それ以上に櫟の存在が変なのだから仕方がない。何度自分を納得させようとしても、どうしてもその部分がひっっかってしまう。
「……なに、それ?」
櫟は、唖然とした表情で腕の中の私を見下ろしていた。




