16:狸が皮算用(櫟視点)
「回りくどい……」
店に現れた薄は、開口一番に僕に向けてそう言った。余計なお世話だ。
僕は、黙って彼の前にカモミールティーを出す。
薄とは、案内所の仕事を通じて出会った。彼はこのカフェがお気に召したらしく、それ以来時々店に顔を出す。
少年姿に見えるが、この狐は僕よりもだいぶ年上だ。
「薺はお前の嫁なんだから、普通に結婚しちまえば良いだろ?」
薄は、呆れたような表情で、これ見よがしに溜息をつく。
カモミールティーから立ちのぼる湯気が、薄の吐き出す息で揺らいだ。
「同種婚と一緒にしないでください。人間はデリケートな生き物なんですから」
そう答えると、薄はやれやれと首を横に振り、ティーカップに口をつける。
僕も、自分用に淹れたハーブティーを飲んだ。
「そうやって嫁に猶予を与えて、もし逃げられたらどうするんだよ?」
「逃がしません。薺さんの行きそうな場所は、全て抑えています」
僕は、ティーカップを置いてにっこりと笑う。
彼女の実家も、異性関係も全て把握済みだ。
元々、薺さんが逃げ出せる場所はとても少ない。怪我をした際に頼れる相手が僕以外にいなかったのだから。
「ふーん、可哀想に。薺って、よくよくストーカー男に縁があるよなあ」
「僕とあんな糞野郎を一緒にするなよ……っ」
そこまで言って、僕は慌てて口をつぐんだ。
薄の前だと、つい地が出てしまう……悪い癖だ。
焦りながらキョロキョロと周囲を見回す。薺さんが店にいない時で良かった。
「僕は、絶対に薺さんを傷つけたりしません。彼女に怪我をさせるなんて許し難い行為ですよ」
感情が抑えきれなくなった時でも、僕は絶対に薺さんに暴力を振るったりはしない。
せいぜい、狸姿で彼女に泣き付くぐらいだ。
「相手の利き腕に爪をぶっ刺して切断したくせに、よく言う」
「利き腕が使えなければ、今後刃物を振り回しにくいと思いません?」
「……うん、お前には何を言っても無駄だな。薺には言わない方が良いぞ? 大抵の人間は、そういうものに耐性がない」
「言いませんよ、そんなこと。薺さんは、とっても泣き虫なんですから。怖い話は聞かせられません!」
僕は、ドヤ顔で薄にそう言った。
薄は呆れたような目を向けてくる。失礼な奴だな。
糞野郎は今、刑務所の中だ。出所までまだ猶予はあるが、薺さんの安全の為に近いうちに別の案内所に移れるように転勤の希望を出そうと思っている。
転勤先の希望は、薺さんの意見を反映するつもりだ。僕は、彼女のいるところなら、どんな場所へ行ったって良い。
だから、それまでには彼女と夫婦になっておきたいのだけれど……中々上手くいかないんだよな。
「櫟君〜。買い出しに行ってくるけど、何か要る物ある〜?」
「薺さん……!?」
自宅スペースの方から、可愛く着飾った薺さんが降りてくる。
今日の薺さんは、紺色のピッタリしたワンピースを着ていた。とっても素敵だ。
「あら、薄君が来ていたの」
薄の実年齢を知らない彼女は、彼を見たまんまの年齢だと思い込んでいる。
「薺さん、買い物なら僕が……」
「駄目。折角手が治ったんだから、外を歩きたいの」
僕の提案は一蹴され、薺さんはそのまま店を出て機嫌良く買い出しに行ってしまった。意外とアクティブである。
「嫁、怪我が治って良かったな。元気そうだ」
「以前のように、付きっきりでお世話出来ないのは少し寂しいですが……一緒に仕事することも出来ますし、薺さんの両手が治って僕も嬉しいですよ」
あの後、僕は案内所兼カフェの従業員として、薺さんを雇い入れることにも成功した。
これで、彼女はどこかへ勝手に出て行ってしまったりしない。
「そうか。まあ、仲が良くて何よりだな」
しばらくすると、薄は帰って行った。今日は彼の奥さんに、人間の世界での買い物を頼まれていたらしい。
偉そうなことを言っている薄だが、完全に奥さんの尻に敷かれているのだ。
「薄も帰ったことだし、薺さんを迎えに行きますか」
僕は、店をクローズにして外へ出た。
案内所と言っても、狸の職場は色々とユルい。
お給料の範囲内でなら勝手に薺さんを雇っても大丈夫だし。用事があれば外出も出来るのだ。
僕は、かれこれ百年くらいこの仕事に就いている。狸の中ではまだ新人扱いだ。
ベテランだと、二千歳クラスの奴がいる。
周囲の狸達(狐も)は一概に僕のことを赤ん坊呼ばわりしてくるが、もう嫁を迎えられる年だ。少しは一人前として扱ってくれても良いのに……
そんなことを考えながら、僕は住宅街の坂道をまっすぐ降りて行く。途中、自転車を押した親子連れとすれ違った。
僕の毛色は白い。人間の世界では目立つ色合いだ。
だから、普段外に出るときは人間に対して目くらましを掛けている。今すれ違った親子には、僕の髪は黒に見えているだろう。
この目くらましは、人間以外のモノには効かない。同じく、人間以外のモノになりかけている嫁にも効かない。
薺さんにはまだ伝えていないけれど、僕は初めて嫁に出会った時に、長命な狸に合わせて彼女の寿命を弄っていた。
坂道を降りて、駅へ続く道を歩いていると、前方から両手に大きな袋を下げた薺さんが歩いて来た。ビニール袋の持ち手部分が、中身の重さに耐えかねて細く薄く伸びている。
「薺さん!」
声を掛けると、彼女は顔を上げて周囲を見回した。しばらくして、僕と目が合う。
「櫟君、どうしたの? 薄君は帰ったの?」
「薄が帰ったので、薺さんを迎えに来ました。駄目じゃないですか、両手が治ったところなのにそんな重い物を持って! 貸してください」
僕は、薺さんから強制的に買い物袋を取り上げた。
中には牛乳や調味料の瓶やお酒など、重量のあるものばかりが入れられている。
駄目だ、彼女のことが心配すぎて目が離せない。
「大げさね、櫟君は。これくらい、どうってことないのに……リハビリみたいなものだよ?」
「駄目です! 僕がいるときは、無理は認めませんからね」
両手にビニール袋を下げた僕は、薺さんと並んで店へと戻る。
坂の上からは、綺麗な夕日が見えた。
「もうすぐ秋だねえ」
薺さんが、切なげに目を細めてそう言った。
きっと、今後のことを色々と思い悩んでいるのだろう。
ただ「嫁になる」と言ってくれれば、それだけでいいのに。その後は、僕が絶対に苦労させないのに。
彼女は、未だ首を縦に振ってはくれないのだ。




