泥の絵
いつかは持っていたかもしれない。でも、忘れてしまったものがある。
小さい頃、私はトオル君と約束をした。大人になったら結婚しよう。この菜の花の畑の中で、大好きで一番きれいなレイちゃんと誓おうと。
誓おう、私も言った。何に? それは、きっと神様だっただろうと、今の私は思うのだ。
私は幼なじみのトオル君とは小学校に上がる前に別れ別れになって、短大に進学し、地元の小さなお菓子会社に就職した。
事務職だったけど、デザイナーになりたくて会社を辞め、美術の専門学校に通い始めた。
美しい絵を描くことが私の夢。専門学校で絵を描き、家に帰ってご飯を食べると絵を描き、一日のほどんどが絵を描くこと。私は幸せで、充実した毎日を過ごしていた。あの日までは。
全てのことは、どうだったのか、覚えていない。ただ気が付いたら病院のベットの上にいて、ズキズキする。頭が痛い。
それなのに、病院の先生には足が一生動かないですと言われた。足は全然痛くないのに、頭ではなく足に問題はあった。
その日から私は一人で何も出来なくなった。トイレにも病室の外にも行けない、キャンパスも取りに行けない。見かねたお母さんがキャンパスを運んでくれたけれど、その大きな油絵のキャンパスに慣れない車椅子で近づくと、バランスを崩してキャンパスを倒してしまった。私はキャンパスの下敷きになった。
以来キャンパスは見たくないな、と思って自然とベットの上にいることが増えた。
病院で車椅子のリハビリも終わり、家に帰った。私の部屋はリビングになっていた。家が古いマンションで、バリアフリーでも何でもないから、リビングが私の一番動きまわることが出来る部屋なのだった。
家に帰ってから、私は机に向かいイラストを描いた。専門学校に通うことはいつの間にか諦めていた。私はイラストレーターになるんだ。キレイな絵を描くんだ。
でも、その絵は、なんだかどんよりとして暗かった。明るい色を使っても、無理して元気に振る舞っているような印象の絵になった。
私が描く絵じゃない、こんなの。
描いた絵が今までだって決して上手いわけではないんだけれど、見てるとほっとする、なかなか味のある絵だと思っていた。あの事故までは。
キキーッツ。
車のブレーキ音。
私をひいた車は、保険に入っていなくて、それでも少しずつお金を送ってくれるけど、私は事務員時代のお金と障害年金、両親のお金で暮らしている。
私たちがいなくなったら誰が面倒を見るのかしら…。
両親の心配する言葉がキッチンから聞こえる。
心配なんてしなくていい、私はイラストレーターになって自分の面倒をどうにか出来るくらい働くんだ。
ドロドロ、絵の具が不気味に混じりあった。今の私の気持ちもこの絵の具みたいに渦巻いている。まるで泥の中に顔をつけているみたい。
美しいものって何だろう。
窓から見える風景も変わらず穏やかな青空だけど、私はその下にある町を見下ろすことが出来ない。
部屋の汚れたシミを、自分で拭き取ることが出来ない。
ミヤビちゃんに会おう。
突然、友達に会いたくなった。ミヤビちゃんは美人だ。よく私の絵のモデルになってくれた。
ミヤビちゃんに会ったら私のもやもやした気持ちも良くなる。絵だって描ける。
携帯電話の番号を選んだら、プルプルと自動的に電話がかかった。
「もしもしーレイ?元気ー?」
ミヤビちゃんの声。
「うん、元気だよ。最近何してるの?」
ハツラツとしたミヤビちゃんの声。きれいな声。
「営業しているんだけど、実は今度結婚するんだ」
電話からミヤビちゃんの声がしなくなった。私が電話を切ったから。
結婚かあ、誰か結婚してくれないかな。
私は障害者のための職業訓練に行くことにした。障害者同士なら結婚できると思って。お互いに試練を乗り越えるなんて、美しい話。
訓練に通いながらイラストを描く日が続いた。
毎朝ヘルパーさんに介護タクシーまで連れてってもらう。
少し、外の世界が見えた。
そしたら祈りたくなった…何か宗教を信じてみたい気持ち。私の家は信心深くなかった。そして私も。なのにこの気持ちは何だろう。
あの時に似ている、幼い頃、トオル君と誓った気持ち、確か、神様に祈った。
子ども達の神様。子ども達にしか見えない神様。
「トオル君に会いたい」
唐突に話し出した私に、ミエは驚いた。
「急にどうしたのよ。昔の人に会ったらレイはまた傷つくよ。心配だよ。それよりほら、カン君とかどう? 無口だけどイケメンだよ」
カン君は私やミエと同じく、車椅子に乗っている。まるで仏のように柔和な顔。何かを悟った表情。私はカン君が苦手だった。諦めきった顔が嫌だ。
ここに来る人達も嫌だ。皆、悟りすぎている。将来の自分、今の自分。
諦めない! 私はイラストレーターになるんだ!
でも私の作品はコンクールで落ちてばかりいた。自分でも仕方ないかなと思えてしまう作品なことが歯がゆかった。
カン君に会えば私は変われる。臆病で泥のように渦巻いている心から解放される。
思えば、あれは初恋だったのかもしれない。
初恋の人に会いたいという気持ちは変ではないよね。
「トオル君って、覚えてる?」
私は両親に頼んだ。トオル君に会いに行くこと。それはあっさりと叶えられることになった。
「もしもし? 杉村さん?」
母はトオル君の古い電話番号を探し出した。
「レイが会いたいって言っているんです。お忙しいでしょうが、お会い出来ますか?」
おうい、いきなりお願いしても迷惑だろうに。
自分から頼んでおきながら、私は心の中で文句を言った。
「ありがとうございます!」
母が言うのは突然だった。私は心の準備がまだだった。
車椅子だって知られたら…。
ミエの忠告が突然頭の中に流れる。
どうしよう! でも幼い頃の友達なんて、知らない人と同じようなものかもね。
会って、可哀想な顔をされる。お久しぶり、元気で、さようなら。それだけ。
両親は私を車に運んだ。ヘルパーがいなくてもお手のもの。思い返せば、事故にあってから一年、訓練以外、外に出たことが、あんまりない。病院くらいかな。
車は森や林の中を走った。何だかわざと自然の多い所を走っているみたい。
私が美しい絵を描きたいと口にしなくなったせいかな。きれいな景色を見せようとしているんだろうか。両親には心配ばかりかけている。
一時間と少し、自然の中の公園に車は止まった。
「ここが待ち合わせの場所だよ」
お父さんが言った。
公園は、公園と言うよりも森の中に近かった。
ガタゴトと車椅子を押してもらう。地面が自然のままなので、自力での運転は無理だ。
もう一台の車が森の中に入って来た。この車かな。出てきたのは中年のおじさんとおばさん。
なんだ。違うのか。
「ヒャッホーウ!」
男が一人、めちゃめちゃに踊るように歩いてきた。
「森の中森の中森の中」
男は、立ち止まると、私を見て言った。
「レイちゃん森の中、ヒャッホーウ!」
「僕、頭の中くるくるくる…」
私は頭が痛くなった。
「僕、トオル」
その人は、言った。
トオル君は森の中で時々踊る。そして疲れたら、両手を合わせて祈る。
両方のひざを土の中に立てる。その瞬間だけ、その人が神秘的に見える。
そうか、そういうわけか。
私は、トオル君のきれいな所を見つけることが出来た、共感することだって子どもの純粋な心では簡単に出来るのだ。
昔、あったものをなくしてしまったのだな私は。
「お久しぶりです…」
両親がおじさんおばさんと挨拶をしている。私は、まだ動揺している。
トオル君は踊る。ヒャッホーウを言う。レイちゃん、会った。久しぶり? 久しぶり? 久しぶりだー。
私は森を見上げていたから油断していた。
トオル君が私を車椅子から引っ張り上げた。
「きゃあ」
「レイちゃん誓う?」
私は、土の上に倒れた。痛い。冷たい。
「レイ!」
両親の声。
「誓う? レイちゃん誓う?」
「ダメよ、トオル!」
おじさんとおばさんが私を抱え起こす。
車椅子に戻るとほっとした。
両親が顔についた泥を払ってくれる。
「レイちゃんは誓わないの。トオル」
と、おばさん。そして私に深々と謝った。
「ここは昔、二人が遊んだ場所だよ」
と車の中でお父さんが言った。
お父さんの説明では、ここに昔、キャンプ場があって、トオル君の家と私達はよくキャンプをしたんだとか。
私とトオル君はとても仲が良かった。私は、絵も好きだったけど、踊ることも大好きだったから。
トオル君が引越してからは踊らなくなったけどね。
車は発車しようとしていた。
トオル君は「誓い誓い」とばかり言っていた。
私は車の中で、トオル君が視界から消えるのを見た。
膝の上には泥。冷たく感じた泥。久しぶりに感じた自然。私は何かを受け止めた。
「自然っていいなあ…」
「どうしたのよ?」
ミエが言う。
私達はパソコンでタイピングの練習をしていた。
「私ももっと自然なものを描きたいと思ったの」
「私達、自然とは遠い世界に来てしまったからねえ」
ミエの悟り顔。これも人間の自然の気持ちなのかもしれない。
「私、やっぱり美しい絵を描こう」
「何?」
ミエは私にじろじろと見られて変な顔をした。
何度も何度もミエの顔を描いた。トオル君の顔も描いた。どれも、泥のようなタッチになったけれど、人間も色々な気持ちがあるのだから、泥は泥で美しいかな。
トオル君に会って、自然に触れ、私は気持ちが前向きになっていた。
「カン君、あのさ」
私は悟り顔の人、一人一人にお願いした。
「絵のモデルになってくれない?」
「うん。いいよ」
カン君の顔は赤い。この表情は頭に刻んでおかなくては。
悟りと赤ら顔の二つの顔を描けるかもしれない。
皆に似顔絵をプレゼントした。少し、明るい表情を見つけることが出来た。そこかしこに。
今日は両親とドライブに行く。美しい絵をいっぱい描きたい。
もし土の上に行けたら、両親に頼んで地面の上に横になろう。
誓うことは出来なくても、祈ることが出来る。子どもの頃の神様に、誰にも明るい日々が待ち受けていますようにと。