薔薇が運んできたものは
日本では、薔薇の季節はとっくにすぎて、あじさいすらも、もう季節外れになったある土曜日のこと。
「こんなに朝早いのに、何でこんなにあっつーいの~」
「それは、夏だからね」
ぼやく由利香をなだめるように椿が言う。
2人は、早朝ジョギングの真っ最中だ。ただし、最近は前日に残業があったりすると、由利香の方はなかなか朝が厳しかったりするので、2人で走るのは毎日ではなく、土日の朝をその時間に充てるようになっていた。
シュウと夏樹は2人の邪魔をしてはいけないと思っているのか、どちらもここのところ土日は不参加だ。
「それにしても、椿はすごいわねー。ほとんど毎日よね、ジョギング」
「うん…。体力作りと、俺けっこう朝は頭がぼんやりしてるんだよね。だから目覚まし代わり、かな」
などと、たわいもない世間話をしながらなので、ジョギングとは言えかなりゆるゆるしたスピードだ。
「そう言えば、薔薇グッズが届くのって今日って言ってなかった? 」
「あ、うん。でも宅配便とかじゃなくてね、ちょうど日本に来る人がいるからって、その人にグッズを託したそうよ。で、わざわざ店まで持ってきてくれるんですって」
「へえー、すごいじゃない」
「ほんとにねー」
店の前に到着すると、
「せっかくだから椿も見に来てよ、薔薇グッズ」
と由利香が嬉しそうに誘ってくる。
椿はそんな由利香をほほえましく思いながら、配達人? が来る時間を確認すると、その頃にまた来ると言い残して、自宅へと帰って行った。
由利香が言ったように、薔薇の配達人は、他にも用事があるとは言え、わざわざグッズを持ってきてくれるのだ。それなら、と、お礼の代わりではないが、ディナーに招待したいとシュウが申し出て、鷹司もそれで気が済むならと了解してくれた。
なので、今日のディナーはひと組だけだ。
今日は珍しく、椿とお出掛けもしなかったようだ。
ランチ営業を終えたシュウたちが2階へ上がると、由利香はソファテーブルで昼食をとったらしく、そこにはカップ麺の残骸が乗っていた。当の本人は、そのままソファでうたた寝をしてしまっている。
「またこんなもん食ってる! 由利香さんってホント、インスタントとか、ファストフードとか大好きっすよねー」
「まあ、インスタントも以前に比べれば、栄養面も考えられるようになったし、味も良くなっては来ているよ」
と、シュウが言うが、夏樹はなんとなく納得できないようだ。
「それはそうっすけど…」
「生まれたときからあるんだもん。由利香たちにとってはこれがふつう、だよ」
「ふつう、ねー。俺は時代遅れってことっすね」
「うん。300年ほど遅れてるよ」
「ブブッ。300年前だと、俺まだ出来上がってないっすよ。けどそうすよねー、何でもかんでもすぐ進化しますよねー」
思わず吹き出した夏樹はちょっと考えるように首をかしげたあと、
「よし! こんど椿と、郊外にある巨大スーパーにカップ麺探索に行ってこよう。由利香さんにおすすめ聞いて」
「行くのは良いけど、ほどほどにね」
「はい! 」
敬礼のように額に手を当てる夏樹。
そのあと、「こんなとこで寝てちゃ風邪引いちまう」と、由利香を気遣って起こしたのに、反対に由利香からこごとを言われ、すねまくってシュウがなだめるといういつものパターンが繰り広げられることとなった。
今日のディナーは、先方から和食でとリクエストがあったため、料理担当は、冬里と、もうひとり、和食と聞いて目を輝かせた夏樹の2人だ。
その上、1人での食事は味気ないから、お店の人も一緒に食事を楽しんでほしい、と言うリクエストも追加されていた。
「なんか、変則ディナーみたいで楽しいっすね」
と、夏樹などは嬉しそうだったが、そのあとに冬里が一言。
「だね。けど夏樹は気が抜けないよー。だって今日はシュウがすごーく厳しい吟味をするって事だから」
「え?! ホントっすか、シュウさん! 」
と、大慌てで聞く夏樹に、シュウはまたため息をついて答える。
「まったく、冬里は…。大丈夫だよ、夏樹。審査するような必要もないし、今回は純粋に料理を楽しむよ」
安心させるように言ったシュウに、ホッとするかと思いきや、思わぬ反応を見せる夏樹。
「え? そうなんすか…。なんだ、ちょっとガッカリっす。俺は厳しい審査でもいいのに」
その言葉に顔を見合わせるシュウと冬里だったが、シュウは少し考えるようにうつむき、苦笑いの顔を上げて言った。
「夏樹がそんなに言うのなら、ご期待に添うようにしようか。ただし」
「? 」
「妥協も手加減もしないよ」
きっぱりと言い切るシュウに、ものすごく嬉しそうな顔をして「はい! 」と、これまたものすごく良いお返事を返した夏樹だった。
と言う経緯があって、もうすぐディナーの時間。
『はるぶすと』の1階にはシュウと由利香、そして時間を見計らってやって来た椿の3人がソファでくつろいでいた。
「鞍馬さんが料理していないって言うシチュエーション、何か新鮮ですね」
椿がなぜか楽しそうに言う。
「言われてみればそうねー。今までこんなことあったかしら? 」
由利香も、こちらはちょっと驚いたように本人に聞く。
「それは、どうでしょう」
と、シュウが答えながら、なぜかすっと立ち上がったのと同時に。
カラン
店のドアが開く。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。…もしかして貴方は、バラ園の? 」
「ええ、あのときすれ違った。えと、まだ少し時間早かったみたいですね」
「大丈夫ですよ。……? 」
シュウが珍しく言葉を途切れさせたのは、ソファに座っていた由利香が、ものすごい勢いで立ち上がったからだ。見ると、椿もかなり驚いている。そしてその訳が、次の由利香のセリフで判明した。
「……シギ? 」
由利香らしからぬ、か細い声を聞きとがめた客も、彼女を見て驚いた顔をしていたが、こちらはなぜかそれは予想の範囲内だったというようにそれに答える。
「ああ、やっぱり。由利香。え? あれ? 椿までいる。あ、そうか、そういうこと、なのかな」
ひとりごとのように納得して話すシギ以外の者は、あまりの展開に誰も声を上げられずにいたそのとき、個室のセッティングを終えた夏樹がドアの奥から出てきた。
「よっし。あ、もう来られてたんすね、お客様。いらっしゃいませ! て、あれ、どうしたんすか? 皆」
黙り込んでいるシュウと椿と、あろうことか! 胸のあたりで握りしめた両手が少し震えている由利香を見て、夏樹は驚く。
「夏樹、こちらは今日のお客様の、…失礼しました、鷹司さんから、お名前もお聞きしていなかったので、」
「シギです。シギ・トーレンスです」
「え?! 」
その名前を聞いたとたん、とっさに身構える夏樹。それはまるで怒った犬がグルルゥーと敵を威嚇しているようだ。そんな様子を見たシュウが、夏樹に何か言おうとしたのと同時に、今度は冬里が個室から顔を出す。
「ようこそ、シギ。もう準備は出来ていますよ。さあ、こちらへ。夏樹は、料理の最終確認をよろしくね」
さすがというか、どんなアクシデントが起ころうと、難なく対応できる冬里だ。
はっと我に返った夏樹は不承不承ながらもキッチンへと向かう。
自分に対する彼の様子から、ここにいる人間は全員由利香と自分のこれまでを知っていると理解したシギは、少し寂しそうに微笑みながらも由利香に再度話しかける。
「元気だった? 由利香」
「はい。…シギは」
「うん、元気。今はイギリスにいる」
「そう、ですか」
「椿も久しぶり。今は日本にいるの? 」
「ええ、由利香と同じ会社です」
シギの問いに答えて、心配そうに由利香を見やる椿を興味深そうに見ていたシギは、何を思ったのか、スタスタと由利香の方へと歩み寄り、手を取ってソファから離れさせると、大げさにハグをした。
「由利香ー、ほーんと久しぶりだよねー」
「え? 」
「あ、」
「ガルルルゥー!」
最後のはまあお気になさらずに。
シギの思いも寄らない抱擁に固まる由利香。それを見てもなお、由利香の気持ちを思いやって何も言えずに俯くことしか出来ない椿。
由利香はどうするのだろう、もしこれでまた気持ちがシギに向いてしまったら。
だが、そのとき。
由利香がシギの腕をほどいて、彼の胸に手をあてて向こうへと押しやった。驚いた顔をするシギを見上げて、由利香がさっきとは打って変わったしっかりした声で言った。
「ごめんなさい。シギ、あのね。私、今、椿と、結婚を前提としたおつきあいを始めているの。それでね、それは、生半可な気持ちじゃないのよ。私の椿に対する思いは、本当に真剣なの。だから…、」
そこまで言ったとき、シギはとても嬉しそうに由利香の言葉を手でさえぎり、肩を持ってくるりとその向きを変える。
「それを聞いて安心した。だから、日本に来ても大丈夫だって予感がしたんだね。さ、行って」
と、背中を押す。
由利香は驚きながらも迷わず椿へと歩み寄り、ニッコリとほほえみかけた。椿もそれに答えるようにほほえみを浮かべた。
すると、キッチンのあたりからおかしな音がする。
ズズッ
「なんすかー、由利香さん。反則っすよー。かっこよすぎるじゃないすかー」
3人の様子を見て、どこでどう感動したのか、鼻をすすりながら話す夏樹に、冬里の声が飛ぶ。
「夏樹、泣いてる場合じゃないよ。料理は?、りょ・う・り」
「あ! はい! 」
いったん奥へ引っ込んでから、すがすがしい顔で出てきた夏樹は、料理の皿に向かうと、顔つきが変わる。
ウィンクする冬里に笑みを返し、頼もしそうに夏樹を見やったあと、シュウが3人を個室へと案内したのだった。
「こんな美味しい日本料理は、…うーん、どう考えても初めてだなー。どうしてこんなに美味しいの? 何か魔法? タローにも、絶対に来いっておすすめしておくよ」
シギは、いったん誤解が解けると思った以上にフレンドリーな夏樹と、こちらはなぜか最初から、互いのことがよくわかっているような冬里の料理を褒めちぎっていた。
「でしょ、でしょ。うちの料理は日本一! いえ、世界一! よ。でも、それにしても。今日の料理、特に気合いが入ってる感じがしたんだけど、なんで? 」
由利香も、シギとのあまりにも思いがけない再会に、最初は訳がわからずにいたものの、自分の気持ちに揺るぎがないという確信が得られた事で、いつもの由利香に戻っている。
「ええーっと、それはですねー」
と、心配そうにシュウの方を見やる夏樹とは裏腹に、こちらはいつものごとく余裕の冬里が言った。
「今日はさ、シュウが審査員してるからね」
「ええっ? なにそれ」
「シュウは嫌だって言ったのにー、夏樹が無理矢理ー」
「なんすか! その誤解を招く言い方! 」
「だってホントじゃない。今日は、シュウ、単純に料理を楽しみたいって言ってたよ」
「うぐ…」
冬里にまた遊ばれている夏樹をかばってシュウが言う。
「冬里、その辺で。でもね、あのときは確かにそう言ったけど、やはり駄目だったよ。他の人のなら単純に楽しめるけど、夏樹が作っていると思うと、つい、ここはこうすればいいとか、これは思いがけないほど良く出来ている、とか」
そんな事を言うシュウを、驚くように見つめていた夏樹が、とたんに目を輝かせる。
「そうなんすか? ホントっすか! シュウさん! ええっと、で、どれが良くてどれが駄目だったんすか? メモしときます! 」
慌てて席を立とうとした夏樹の腕をつかんで座らせる冬里。
「夏樹~。まだお客様がいるよ~」
「あ、うわっ。すんません! 」
ニーッコリと笑う冬里を見たとたん、青ざめておとなしくなる夏樹だった。
「夏樹、落ち着いて。後できちんと説明するから」
「はい! 」
シュウにも言われて、夏樹は思わず頭をかく。
そんな夏樹に癒やされつつ、皆は最後に出されていた水菓子を堪能したのだった。
「姿が見えないと思ってたら、こんなところでなにしてるの? 」
「あ、椿。えっへへー。シュウさんに言われた改善点をですねー、熟考して吟味して、それからそれから、えーっと」
「わかったよ。鞍馬さんからの指摘が、何より嬉しいんだよね、夏樹は」
シギを見送ったあと、明日は定休日だからと引き留められて、店の2階でしばらく過ごしていた椿だったが、由利香がウトウトし始めたのをきっかけに帰ることにした。
裏階段を降りて店の表に回ると、2人は知らないだろうが、夏樹が座っていたのは、先日、由利香が腰掛けてシュウに悩みを聞いてもらっていた、まさにその場所だった。
椿は少し考えてから、よいしょっと夏樹の隣に同じように腰掛ける。
「あれ、もう帰るんじゃないの? 」
「夏樹の邪魔してやろうと思ってさ」
「ひっでえー」
2人は楽しそうに笑い合っていたが、ふと、夏樹が真顔になって言った。
「あのさ、こんな事言ったら椿が気を悪くするかも、だけど。シギっていい人だね」
すると、そんな夏樹を驚いたように見ていた椿が、こちらも真顔で言う。
「ああ。すごく良い先輩だよ。仕事に関しても、人間性に関しても尊敬してる」
「へえ」
「由利香の事も、他の馬鹿な女の事も、何も言わなくても事情があったんだろうって、皆に思わせるほど、信頼の厚い人だよ。…うーんと、ただね、」
「? 」
「なんでかなー、俺っていつも遊ばれるんだよね、あの人に。だから似てるんだよね」
と、夏樹のほうを向いてあごをふいっと上げる。
「え? 俺と? 」
「うん。夏樹って冬里にいつも遊ばれてるだろ。だから、ああー似てるなーって」
「あ! 」
夏樹は思い当たることだらけなので、ガクガクと首を縦に振りながら、両手で椿の手を取ってブンブン振り回す。
「椿ー、お前もか~。お互い苦労するよな」
「ああ、尊敬してるし、好きだから余計にね」
「うん、うん、わかる! ぜんぜん嫌いなんかじゃないんだよな、冬里のこと。俺も尊敬するところ一杯あるし。ただ、遊ぶのはほどほどにって思うよな~。うー同じだー」
しばらく同じ境遇の戦友? に共感していた夏樹が、ふと思いついたように言った。
「ところでさ、由利香さん明日は女友達とどっか行くって言ってたけど、だったら椿は暇だよな」
「ああ、暇で悪かったな」
「すねるなよ。じゃあ、ジョギング終わったら、また料理教えに行ってやるよ」
「お、ありがと。けど、明日はジョギング休むつもり。さすがに眠い」
「なさけねえ」
「うるさい」
ここの所、夏樹は暇が出来ると椿に料理を教えに行っていた。と言うのも、椿からの依頼があったからだ。
由利香に結婚前提のつきあいを提案された椿は、はじめこそ舞い上がっていたが、いや、今も舞い上がっているが、ちゃんと冷静に考えるところは考えているのだ。
由利香は以前、シュウに料理を特訓されて、基本的なことは出来るようにはなっていた。だからといって、すべてを任せきりではいけないと思い、仲の良い夏樹に料理を教えてくれるようお願いしてみた。当然夏樹は教えることも勉強のひとつだと、快く引き受けてくれている。
幸いなことに、平日は由利香がジョギングをやめてしまったので、たいてい2人で走っている。そのあとのほんの少しの時間を利用するのだが、生徒が優秀なのか、先生が良いのか、椿はぐんぐん腕を上げていた。
「じゃあ、明日な。起きたら連絡するよ」
「おう!、でさ、明日は時間があるから、シュウさんに指摘されたヤツのやり直しもしたいんだけどさ、いいよな? 」
「ええー? もしかしてそっちが本命だったりしてな。まあいいよ、いつも世話になってるから」
「ありがとう、やっぱり椿は良い奴だ」
ニイッと笑って親指を立てる夏樹をあきれたように見た後、立ち上がってウーンと伸びをした椿は、「じゃあな」と手を振り、自分のマンションへと帰って行ったのだった。
彼を見送った夏樹は、空を見上げる。
ちょうど半分になった月が、雲から出たり隠れたりするのをしばらく眺めた後。
「さて、もうひとがんばりするか。次はなんだったっけ、あ、これはすごく良いって言われたんだ、ヘヘッ」
照れたように笑う夏樹に、こちらも照れたように、雲に隠れていく月がいた。




