いつもと違う朝
ジリリリリリリリリリ……
午前七時、いつものように目覚まし時計はその時刻を告げる。
「…………う、ん……」
しかし、この家の主こと盾宮紅音はいつもと違い、ぐっすりと熟睡していた。それはもう深海のような深い眠りだ。
「…………うるさい、ぃぃぃ……」
そう言って紅音は無意識にサイドテーブルに置かれてある目覚まし時計を床に叩き落す。しかし、この目覚まし時計は充電式なので電池は落ちない。さらにそれなりに頑丈な作りなので壊れることもなかった。
つまりは鳴りっぱなしだ。
「………ぅうあぃぃ……」
もはや日本語も話せなくなっていた紅音は、掛け布団で頭まで全身覆い隠す。布団を被ると騒音が幾分マシになったのか安心してまた眠ってしまった。
それから約二時間後、つまり午前九時。
「…………え?」
床に転がる目覚まし時計を見て紅音は唖然とする。ここまで派手な寝坊は生まれて初めての紅音はかなりの衝撃を受けた。
学校の始まる時間は午前八時半、すでに三十分の遅刻だ。
部屋置きの電話やケータイには不在着信がいくつか溜まっていた。中には恵美からの着信もあり待ち合わせに間に合わなかったことを心の中で謝る。
しかし紅音は唖然とした後、なんでもなかったかのようひ歯を磨き、顔を洗い、朝食を食べて髪を整え、服を着替えた。
「進級二日目で遅刻とは、なかなか残念な話ね……」
紅音は他人事のようにそう呟くと、いつものように落ち着いて家を出た。
そもそも紅音は遅刻することが嫌なのではなく面倒なことが嫌なのだ。普段からある程度真面目に授業を受けている紅音はそこまで怒られない事を知っていたし、一回ぐらいの遅刻など全く気にしていなかった。
紅音は寝坊した事を学校に連絡すると、何もなかったかのように登校した。
先生に少し怒られ、体調を心配されて、難なく釈放されると教室に向かう。
それから紅音は自分の席につくと早速机の額をこすりつける。
「机はマイフレンド……」
「声出てるよ〜紅ちゃん」
間抜けな寝言を呟く紅音に、親友の舞草恵美がゆるいツッコミを入れる。
『ここまでだらしない紅音ちゃんは初めてだな〜……』
実はというと恵美は未だかつて無い間抜けな紅音を見て、けっこう驚いていたりする。
そんな恵美の様子に紅音は気がつくことなく、まだ目を覚まさない脳を無理やり回転させながら挨拶をする。
「おはよ、恵。昨日は大変だったわね。怪我とかはなかったの?」
「ん? なんのこと〜?」
キョトン、といった風に首をかしげる恵美に、紅音は激しい違和感を感じた。あんな出来事があって紅音の質問に思い当たる節がない何ておかしい。
「昨日見た猫、覚えてる?」
「ううん。なに? かわいい猫さんがいたの〜?」
「……ううん、おぞましい化け猫だったわ」
「化け猫??」
ショックで記憶が消えたのか、あるいは消されたのか。いずれにせよ恵美には昨日の化け猫との戦闘の記憶は無くなってしまったらしい。
紅音は手を顎に当てて現在の状況を整理してみる。
『私は化け猫に勝った後、気を失って“この世界に戻ってきた”……いや、“戻っていた”といったほうがいいかもしれない。気を失った後、ふと気がついたら、歩道の真ん中で突っ立っていた……なら、恵美は?』
紅音は恵美に質問をしようとしてふと紅音は思い直す。このままあの恐怖を思い出させる必要はないのではないか、と。わざわざ思い出させて恵美を危険に巻き込む必要はない。
『聞くのならすべてを知っている奴から聞き出すべきね』
紅音は周囲を見渡しすべてを知る人物、矛峰蒼也を探す。
「いた……」
蒼也はやはり転入生恒例の休み時間質問攻めにあっていた。
自然とクラスに溶け込む蒼也を見て、やはり紅音は違和感を覚える。紅音にはその作り物の笑顔は歪みに見えるのだ。
『……矛峰の様子、あの世界にいた時とやっぱり違う。あの世界の矛峰はもっと自然体だった気がする』
そんな事を考えながら蒼也に話しかけようとすると、タイミング悪くチャイムがなってしまう。
『……ま、別に急ぐわけじゃないし昼休みに話を聞くか』
そして午前の授業が終わり、昼休み。
軽いクラスの人気者状態の矛峰が人に囲まれる前に紅音は早速行動に移る。
蒼也は紅音が近ずいてくる事に気がつくといつもの(紅音曰く)偽物の笑顔を浮かべる。
「やぁ盾宮さん。遅刻していたけれど体調はどう?」
「こんにちは、矛峰くん。相変わらず素敵な笑顔ね」
「そ、それはどうも」
『会話が成り立ってないよ、盾宮さん』
紅音としてはただの挨拶(ただし皮肉を込めた)のつもりだった。会話は成り立たせる気はないようで、一方的に要件さえ伝えられればいいと紅音は思っているのかもしれない。蒼也も紅音の意図を理解していた。
しかし他の人がこのセリフを聞いてどう捉えるかは別の話だ。
「お、おい、眠り姫が矛峰に話しかけたぞ! しかも笑顔を褒めた!」
「二人は知り合いだったのか……?」
「そもそも紅音さんから誰かに話しかけるなんて、初めてじゃないか?」
などとクラスがざわつき始める。
紅音は眠り姫なんてあだ名がついてたり(由来はそのまま、いつも寝ているから)小さなファンクラブがあったりと、そこそこの人気者なのだった。
もっとも紅音自身はいつも休み時間は寝ているので知る由も無いが。
『あんな風に話してたらこうなるよな……盾宮さんは自分の立ち位置を理解してないのか?』
蒼也はクラスの人達と話をして、紅音の学校での立ち位置を知っていた。
紅音のセリフに嫌な予感はしていたが、やはりその予感は的中しそうで蒼也としては、もう苦笑いを浮かべるしかない。
「で、なにかようかな?」
動揺する蒼也に追い討ちをかけるように紅音は言った。
「ちょっと話したい事があるから二人きりになれない?」
その瞬間、確かに世界は静止した。
紅音は周囲の変化にまるで興味が無いのか蒼也の返答を待っているようだ。
しかし、蒼也としてはここで対応を間違えるとけっこう敵を作ってしまいそうで内心穏やかではなかったりする。
『これ、なんの罰ゲームだよ……』
クラス全員が蒼也の次の言葉に注目を寄せる。
「………………もちろん。構わないよ」
なるべく冷静に、平常心を装い、なんの期待もしてません、と全身全霊でオーラを放つ。
『……これでどうだ?』
蒼也はチラッと後ろを振り返り、クラスの様子を伺った。
するとみんな興味をなくしたのか、意外なことに反応は薄く、普段どうりの昼休みを過ごし始めていた。
過剰な反応がないことに安心すると蒼也はついため息を漏らしてしまう。
「ふぅ……で、どこに行けばいいんだい?」
「ついてきて」
蒼也は紅音の後を追って席を立ち、教室を出た。そのコンマ一秒後、再び教室は狂気に満たされる。
「おおおおおおおおおおおお!!」
「眠り姫が恋に目覚めた!」
「私、超ワクワクしてきたんですけど!!」
「こっそりついてこうぜ!」
「いやいや、二人の愛の花園を邪魔しちゃいけねぇ」
もちろんその声は教室の外まで漏れており、蒼也の耳まで入ってくる。
頭を抱えて眉をひそめる蒼也に紅音は首を傾げて質問する。
「どうしたの矛峰。頭なんか抱えて」
「いや……なんでもないよ」
「……変な奴」
ことの元凶は何も知ら無いまま、蒼也を連れて歩き出した。
その頃、クラスが謎の狂気に包まれる中ただ一人、恵美は紅音の行動に違和感を感じていた。
「紅ちゃん……?」




