蘇生Ⅰ
朽ち果てたコンクリートビルの群れは、青白い月光を受けて淡い輝きを放ちながら、墓標のように沈黙していた。
廃墟。
何人の気配も感じられないこの区画に、ひとりしゃがみこむ青年の姿があった。
青年は全身黒ずくめだった――闇のように真っ黒なロングコートに、履き古した黒ジーンズ。
両手にはめた白いナイロン製の手袋が、その黒さとの間に特徴的なコントラストを成している。
しゃがんでいるからわかりにくいが、その背丈は相当なもので、ゆうに2メートルはあるだろう。
手足も細長く、まるで四本足の蜘蛛のような印象。
青年の肌は、顔以外に露出していないが、かろうじて確認できるその細面からは重金属のように冷徹な印象を受ける――クローム鋼のような青灰色の瞳と、それとまったく同じ色をした細長い前髪。
青年の傍らにはソフトケースが置かれていた。
黒地のナイロン製で、形状は縦長。
ゴツゴツとして、見るからに重たそうだ。
『あの人たちを捕まえる気なのね』
ソフトケースの中から声が聞こえた。
若い女のものだった。
それも普通の声ではない。
旧世代でも、発明されたばかりの頃までさかのぼるほど古い「ラジオ」から聞こえてくるような、ノイズのかかった合成音声だ。
まるで機械がしゃべっているようだったし――事実、その通りだった。
「ああ」
青年は低い声で応えた。
言葉は短いが、それでも相手にぐっと突き放した印象を与えるしゃべり方だった。
『また、相手に酷いことをするつもりなんでしょう?』
青年のそっけない答えぶりに、合成音声がわずかな怒気を孕む。
それは恋人の悪事をなじるような、生々しい女の口調だった。
「それは、時と場合次第だね」
青年は依然として冷たい声のままだ。
『んもう。少しくらい大目に見てあげてもいいのに』
「それは出来ないな」
青年は即答した。
まるで刃で切り捨てるような、冷徹な口ぶりだった。
「奴らは、俺の電脳麻薬を使うだけ使っておきながら、その代金を支払わないでいる。支払わないのなら、支払わなければならない状況になるまで追い込んでやるだけだ。奴らがどこへ逃げようと、俺は必ず奴らを追いつめ、必ず精算させる。そうでなければ、この最岸層で商売なんかやっていけない」
ソフトケースの中から「はぁ」と深い溜息が聞こえた。
もう手に負えないわ、とでも言いたげな溜息だった。
皮肉なもので、こういう溜息ひとつにしても、横にいる青年より合成音声の女のほうがよっぽど人間味を感じられる。
「ぶつくさ言わずに俺を手伝ってくれ、ルシール。今回も、頼むぞ」
青年はソフトケースを掴んで立ち上がった。
ケースから伸びたベルトを肩にまわすと、そのまま一息に背負い込む。
瞬間、恐ろしいほどの重量がベルトを通じて青年の身体を襲う。
強化繊維で出来ているらしいベルトが軋むほどの重量を背負っているのに、青年はなんでもないように平然としていた。
『貴方が言うならやるわよ。だって私は、貴方のパートナーとして生み出されたんですもの』
「…………」
『ま、いずれにしろ、ちゃんと取り返せればいいわね』
「取り返すさ。利子付きでな」
青年は一機に駆け出した。
闇夜を這って獲物を追いつめ、骨まで食らい尽くさんとする獣のように。
その背中でぐらぐらと揺られながら、ルシールという名の人工知能は、呆れ気味に小言を呟く。
『まったく。利子のほうが、よっぽど高くつきそうだわ』
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
家から出たソプラは、ほの暗い裏通りの道を通過して、街外れの丘に向かって走っていた。
人造島の中心から数えて五区層目にあたる、ここ境界層の中でも、ソプラの家のある区画はまだ平和な方だった。
幸い、融社の庇護(という名の監視に過ぎないが)は行き届いているから、強盗や殺人といった犯罪は(他と比べれば)それほど多くはない。
ソプラの実家が酒場をやっていけるのも、そうした融社の「庇護」があればこそだ。
ただし、お客に出すための食材や酒は融社から仕入れなければならないし、売り上げの一部をロイヤリティとして毎月納めるように命じられている。
違反すれば何が起こるのかは、想像しなくてもわかっている。
自分たちは飼われているのだ。
融社という組織に。
そして、その「庇護」だって、いつなくなってしまうかわからない。
融社は企業であって、「国家」ではない。
己の利益が第一なのだ。
ソプラたちの区画での売り上げが芳しくなくなれば、融社はすぐ次の「採算の取れる」区画に移ってしまうだろう。
そうなれば、この付近の治安だって悪くなる。
犯罪はまた増えるだろうし、酒場だってやっていけなくなる。
「唱姫になる」というソプラの夢も、夢のまた夢の、そのまた夢になってしまう。
「……ダメ、暗くなっちゃ」
自分を勇気づけるように、ソプラは呟いた。
不安なんて、この街の誰だって抱えている。
そんなことはわかりきったことだし、何度も繰り返し自分に言い聞かせてきたことじゃないか。
ひょっとしたら、とソプラは思った――ひょっとしたら自分は唱姫になりたいんじゃなくて、ただ単純に歌いたいだけなんじゃないのだろうか。
不安と戦うために、不安に負けないために――そのためにこそ自分は歌を歌いたい、歌っていたいと願うのではないだろうか。
アイドルになりたい、唱姫になりたいと思うのは、「歌いたい」という願望が作り出した幻影ではないのだろうか……。
そんなことを考えているうちに、いつもの練習場所が見えてきた。
ろくに手入れもされず劣化した人工芝が広がる、小高い丘だ。
丘は、境界層でも外側の位置にあり、普段はあまり人が立ち寄らない場所だ。
だから歌の練習をするにはもってこいだし、隠れた夜景スポットでもある。
周囲より高い場所にあるぶん、周りの様子がよく見えるのだ。
ソプラは島の中心部へ向かって視線を遠くしてみた。
ゴミゴミとしたスラムの住居を土壌に、無数の鉄の森が広がっており、あちらこちらで蒼い光がチカチカと点滅を繰り返している。
まるで夜の海に蒼い宝石をちりばめたように、その光景は息を飲むほど美しかった。
あそこは自分が普段から暮らしているスラムで、暗い思い出しかない鉄の森なのに――見ようによってはこんなに美しく見えることに、ソプラは奇妙な感動を覚えた。
さらに遙か向こう側には、この第五区層・境界層と、第四区層・外周層とを隔てている、10メートルはある高いフェンスが立ち並び、凸面状のゆるいカーブを描いていた。
ソプラたち一般人があのフェンスを通り抜けることは不可能だ。
フェンスの各地点で一定距離ごとに設けられたゲートでは、武装した融社の傭兵が常駐しており、無理やり通り抜けようとすれば問答無用に射殺されてしまう。
噂では、特に交通上重要な位置にあるゲートには、戦闘専用に改造された鳴奏機までもが配備され、有事の際に備えているらしい。
現在は、主にアイドルのライブに用いられている鳴奏騎だが、元々は兵器として開発・運用された経緯があるらしい。
アプリのライブで空を飛んでいたあの鳴奏騎にも、人を殺すための装備が備わっているのだろうか?
ふとそんな疑問が過ぎり、ソプラはぶるっと身震いをする。
ソプラは振り返って、反対側、島の外延部へと向かう部分に視線を移した。
そこにも、内側と同じようにフェンスが立ち並んでいる。
だが、どのフェンスもとうてい整備されているとは言い難い有様だった。
ただの分厚い鉄製の板に過ぎないのでは、と思えてしまうくらい、どこもかしこもボロボロだ。
第四区層とを隔てるフェンスとは比べるべくもない。
それもそのはずだった。
このフェンスの向こう側には、人造島の最果てである第六区層が――この第五区層よりもさらに過酷な場所、融社からも見放された《最岸層》が広がっているのだから。




