顕現Ⅱ
「入れ」
どこまでも無機質的なボウキスの声を合図とするかのように、理事長室のドアが無音で開いた。
「理~事長~さ~ん、失礼しま~す」
気の抜けた声。
GI社本社ビル最上階、理事長室に足を踏み入れようとする者にはまるで相応しくない軽薄な態度とともに、ニケルス・ガーンズバックは踊るような足取りで入ってきた。理事長室の最奥、異常なほど横長のデスクの中央に陣取るGI社理事長ボウキス・シャレードは、しかしその人を食った態度を非難する様子もなく、両手を組んで静かに待ち構えている。鋼鉄の仮面のような、完璧なまでの無表情だ。
「……事前の連絡では、報告すべき事項があるとだけ聞いていたが……まさかそれのことか?」
「それ」とは、ニケルスの肩に背負われている巨大な銃――ルシールのことだ。
今やケースは脱ぎ捨てられ、全身が露出しているが、果たしてボウキスがアゲハ蝶のような形状のルシールを見て「銃」と理解できたかは怪しい。ましてや、その内部に「ルシール」という名の人工知能が――さらにいえばその「ルシール」が、かの伝説的な唱姫、マリア・セイバーハーゲンの人格データであることを見抜くなど、無理中の無理であっただろう。
だから、ボウキスが次に口にした言葉が、批難のニュアンスを含んでしまうのも詮無いことだった。
「なんだそれは。私は貴様に産業スパイとして、他の融社から技術や情報を盗ませるために高い契約金を支払ったのだ。くだらない玩具を集めさせるために契約したわけではない」
口調は平静ながらも、言葉には痛烈な批難が込められていた。
ニケルスは動じる風もなく、淡々と答える。
「物事を外見で判断するなんて、いつも冷静沈着な理事長さんらしくないな。これは玩具なんかじゃありません。それどころか、この人造島をひっくり返すぐらいの代物だ」
ニケルスの言葉を聞いても、ボウキスは無言でいたが、その黒い瞳は確かに物語っていた――「もったいぶらずに、その先を話せ」と。
「まあ、そこで見ていてください」
ニケルスはそう言い、大の大人が抱えるほどに巨大なルシールのボディを床に降ろして、自分も側にしゃがみこんだ。それから、いきなりその場でルシールを解体し始めた。馴れた手つきで作業を進めていき、あっという間にルシールは大小様々なパーツへと分解されていった。
解体がひと段落ついたとみるや、ニケルスは雑多なパーツ類の中から何かを取り上げた。
媒体だ。
ニケルスは口角を僅かに吊り上げ、奇術師のような意味深な視線をボウキスに送ると、その媒体のスイッチをオンにした。
瞬間、部屋の中に、あの女性の姿が浮かび上がった。
この島に生きる誰もが知っていて、しかし誰もがその存在を語ることを禁じられた伝説の唱姫。
腰元まで長く伸びた深青色の髪。
血液と蜂蜜を混ぜ合わせたようなワインレッドの瞳。
今は無き先代の唱姫――伝説中の伝説と呼ばれたアイドルの姿があった。
「これは……!」
思わず感嘆の声を漏らすボウキス。流石のボウキスも表情を崩さずにはいられないくらい、それは強い衝撃だったのだろう――その眼は大きく見開かれ、漆黒の瞳は驚愕に揺れていた。
「ただの映像データではありませんよ。列記とした、マリア・セイバーハーゲンの人格データそのものです」
胸に手を当てて俯いているマリアの幻影、その傍らに立ったニケルスは、得意げに言った。
「彼女の外面だけではない。内面をもデータ化したものが、この媒体には記録されている。マリアという妖精を呼び出すための魔法のランプ、それがこの媒体なのです。……そうだろう、マリア?」
ニケルスはマリアの幻影に問いかけた。するとマリアは、狼狽するような面持ちでニケルスの方へと振り返り、
『私はマリアではないわ。私は、ルシール……』
と、マリアの声、マリアの口調でそう呟いた。
「……どういうことだ?」
ボウキスがニケルスに問いかけた。問いかけというより、説明の要求といった方が近いような口ぶりだった。
「いやあ、このデータには厄介な点がひとつだけありまして。この媒体の持ち主が、保存されているマリアの人格データを基に、彼女とは似て非なる人工知能を作り上げてしまったのです。《ルシール》という名前の人工知能をね」
「それでは……もうマリアの人格を復元することは出来ないということなのか?」
「いいえ。ひとつだけ方法があります」
言うと、ニケルスは媒体のスイッチをオフにした。マリアの幻影が消える。
「僕が調べたところ、この媒体には一箇所だけアクセス不可能な領域がある。つまり、マリアの記憶を保存した領域です」
「……アクセス不可能なのに、なぜそこにマリアの記憶が保存されていると言い切れる?」
「なかなか鋭いですね理事長。それはこういうことです。……《ルシール》という人工知能は、マリアの人格から作られたものだ。口調や声はもちろん、性格や思考パターンもマリアとほぼ同じ。素晴らしいクオリティです。しかし、そこまでの完成度を誇る人工知能を作り上げるには、単純に生身の人間の思考パターンをスキャンしてデータ化するだけでは足りない。絶対に必要不可欠なものがあるのです」
「それが、原型となった人間の記憶ということか」
「ええ。原型である人物が持っていた記憶をもスキャンし、一緒にデータ化しておく必要がある。……なぜなら、個人の《人格》というものは、当人の記憶や経験によって形成されるものだからです。それが天然物であろうと人工物であろうと、変わるところはない」
思考パターンや性格だけデータとして抽出できても、記憶が共になければ、マリアとは似ても似つかない人格が形成されてしまう、そもそも人格形成まで到達できず自壊する恐れもあるとニケルスは付け加えた。
「……つまり、人工知能が形成されるまではマリアの記憶を保っていたが、完成された今、マリアの記憶は既に切り離されてしまっているということか。さながら記憶喪失の人間のように」
ボウキスは媒体に目を向けながら言った。
「その通り。そして、その記憶は、この媒体の中にブラックボックスとして保存されている。呆れるほど厳重なパスコードによってロックされておりました。流石の僕も突破できませんでしたよ。かといって、全く打つ手がないわけではない。パスコードの入手についてはもう目処を立てているのでね」
「では、その記憶さえ蘇らせられれば、マリアと全く同一の人格を再現することができると?」
「そうです。自らを《ルシール》と呼んで憚らないこの人工知能に、真の記憶を与え、正真正銘のマリア・セイバーハーゲンとして生まれ変わらせることが可能になるのです」
「そうか、フフ……。それは……それはなんとも、素晴らしい代物じゃないか……!」
ボウキスが相好を崩した。真一文字以外の形を知らないのでは、と思われるほど固く結ばれた口元が、今、初めてそれ以外の形を知ったというように、不敵な角度で吊り上る。彼が日本人の子孫であることを表す漆黒の瞳は、真っ直ぐに媒体を捉えて離さない。ギラついた眼差し。野心の込められた眼差しだった。
普段のボウキスからは意外とも呼べるこの反応を、ニケルスは静かに見つめていた。口元はボウキスに阿るかのような薄笑みを浮かべていたが、しかし目元は少しも笑っていない。研究者が実験の結果を観察するような目。自らの本分である産業スパイとしてのニケルスが見せる目だった。
流石のボウキスも、ニケルスの視線に込められた真意になど気が及ぶべくもなかったのだろう。ひどく興奮した声でこう言い放った。
「それさえあれば、我が社を……このGI社を、人造島で最大の融社へ押し上げられるぞ……! なぜなら我々は、あのマリアを手中に収めたも同然なのだからな……!」