鳴奏ⅩⅧ
異変が起こったのはそのときだった。何処からか、轟音が近づいてくるのが聞こえてきたのだ。
ソプラに襲い掛かろうとしていたニケルスは、腕をピタリと止め、音の正体を掴もうと耳を欹てた。
「んん……?」
ニケルスは、音のする方向――背後の上空を肩越しに仰ぎ見た。赤いサングラスに鈍色の曇天が映りこみ、その中心に黒い影がポツンと浮かんでいた。
「なに、あれ……」
自分が殺されようとしていたことに気付いてすらいないソプラは、さっきから奇矯な振る舞いばかりしている赤い男と同様、怪訝そうな顔で空を見つめていた。
影は船底のような形をしていた。バラバラという轟音を立てながら空を進んでいる。やがてその進みが止まると、今度はゆっくりと大きくなっていった。降下しているのだ。
しばらくして、影は門前の円形スペースの中央に着陸した。
「……ヘリコプター? なんでこんなところに……」
影の正体はヘリコプターだった。しかもよく見ると、機体にGI社のロゴがペイントされている。恐らくはGI社の社用ヘリなのだろう。それもVIP専用の。
「箱入り娘のお出ましか……タイミング悪ィな……」
ニケルスが凄まじい嫌悪の形相でそう呟き、盛大な舌打ちをした。間近でそれを見ていたソプラはぎょっとしたが、そもそも今から何が起きようとしているのかがまるでわからない。ただ成り行きを見ているほかはない。
やがてヘリのドアが開いて、中から二人の傭兵が現れた。続いて、その傭兵に手を引かれるようにして若い女性が機内から降りてきた。美しい黒髪を誇るその女性は、純白のワンピースに若草色のスカーフを巻いており、一目で上流階級の人間であると見て取れる。そもそもヘリに乗ってきたという時点で、只者ではないことは誰の目にも明らかだったが。
女性は、地に足を着けるなり、ソプラ達の方をきっと睨み付けると、有無を言わさぬ力強い足取りで近づいてきて、
「ガーンズバック!」
開口一番にそう叫んだ。まだまだ若々しさを湛えつつも、凛とした声色だった。
名前を呼ばれた赤い男――ニケルスは、女性に背を向けたまま、片手を額に当てて「やれやれ」という表情を作った。それから、思考をまるごと切り替えるように、即席のビジネススマイルを作ると、くるりと向き直って言った。
「これはこれは奇遇ですね、シャレード理事。こんな境界層くんだりにまで現れるとは……一体どういう風の吹き回しです」
「我が社の目を盗んで、勝手な振る舞いをする誰かさんを監視するため……と言ったらどうかしら」
若い黒髪の女性――アルム・シャレードは、ニケルスの目の前まで来ると、腕組みをしてきっぱりと言った。その態度にも言葉にも、明らかな敵意が込められている。
「おやおや」
ニケルスは広げた両手を頭の高さにまで上げると、軽く首を振ってみせた。
「シャレード理事直々の監視を受けられるとは、羨ましい輩ですねえ。もっとも、規律には特に厳しいことで知られる御社の内部に、そのような不届き者がいるとも思えませんが。……ただの冗談でしょう?」
「どう受け取ってもらっても結構。いずれにしろ、境界層には近々視察に来る予定だったのは事実よ。……まさか、来ていきなり貴方と出会うことになるとは、流石に予想していなかったけれど」
アルムが社用ヘリを持ち出してまで境界層に出向いたのは、オーディションを行う前の視察のためだというのが公的な理由だった。すでに父のボウキスにもそのように断りを入れている。
しかし一方では、「ニケルスの企みを暴く」という目的があったのも事実だ。むしろこちらが主眼だったといってもいい。そして、これはあくまで裏向きの目的だ。だからこそアルムは、ニケルスに対して冗談めかして言う必要があったのだ。「貴方を監視するために来た」とバカ正直に言えば、ニケルスと密かな繋がりがあるボウキスへ内々に報告がいくだろうし、そうなればボウキスから何かしらの干渉を受ける恐れが大きい。かといって、ニケルスに面と向かって何も言わずにおれば、その行動を牽制するという真の目的を果たすこともできなくなる。
「ガーンズバック。貴方こそ、何をしに境界層まで来たのか、今度こそ教えてもらうわよ。……まさか貴方、現地の女の子に、その……手を出すつもりだったんじゃないでしょうね……?」
「あ、あたしは、ただこの人に話しかけられただけです!」
急に自分のことが話題に出されて、ソプラは水を浴びせられたようにびっくりした。
慌てて弁解する。
「あたし、今度、境界層でアイドルのオーディションが開かれるって聞いて……そのときは、きっとここの門が開いて、たくさんの人が通っていくんだろうなあと思って、それで……」
よくよく考えてみればソプラが弁解する必要など全くないのだが、明らかに上流階級に属するとわかる人間を前にすれば、スラムの少女に過ぎないソプラが卑屈になってしまうのも詮無いことだった。
「あら。あなた、オーディションに興味があるの?」
アルムはソプラに向き直り、それまでの険しい表情から一転、ぱっと表情を輝かせて言った。
「えっ……」
「オーディション、受けるんでしょ?」
「えっと……その……」
改めてそう問われて、ソプラは答えあぐねた。そもそも自分がここまで来てしまったのは、その踏ん切りがつかなかったのが原因なのだ。
受けたい。けれど、両親の反応が怖い。
でも……受けたい。
「……受けたいなら、思い切って受けるべきよ」
優しく呟かれたアルムの言葉に、ソプラははっと顔を上げた。そこには、優しげな表情でこちらを見つめてくるアルムの顔があった。さっきまで峻厳な表情で男の人と遣り合っていた人が、こんなにも優しい表情を出来るのだということに、ソプラは驚いた。
「あなたなら、きっと受かるわ。だって、あなた、こんなにも可愛いんだもの」
そう言って、ソプラの手を取った。
「もっと自分に自信を持って。あなたなら、できるわ」
にこりと笑う。ソプラの顔にも、自然と笑顔が生まれた。胸の奥底から勇気が湧いてくるのを感じた。不思議な感覚だった。
「ちょっと、キミキミ」
ずっと無表情のまま二人のやり取りを見守っていたニケルスが、ソプラに手招きした。
「盛り上がってるとこ悪いんだけどさ、イイこと教えてあげよっか」
そう言って、ソプラの耳元に顔を近づける。アルムが一瞬険しい視線を送ってきたが、気にしない。
「この女の人、誰だか知ってる?」
ソプラはふるふると首を振る。エライ人っぽいのはわかるけれど、どういう人なのかは知らない。
「この女の人ね、GI社の理事なの。キミが受けようとしてるオーディションを主催する融社の、幹部」
「え……えええ!」
ソプラの頭が一瞬にしてぽひゅっと沸騰した。あまりの驚きと恥ずかしさで、これ以上声も出せない。目をぐるぐると回しながら、へにゃへにゃとその場に崩折れてしまった。
「ちょっとあなた、大丈夫!?」
アルムが慌てて介抱しにかかった。ヘリに控えていた傭兵が、応急セットを手にして慌しげに駆けつけてくる。
その様子を一人傍観していたニケルスは、ただニヤニヤと笑っていた。笑いの中で、「まあ、これでいいか」と口元が動いたのには、誰も気付かなかった。




