鳴奏Ⅸ
執務室から出たアルムは、ビルの北東部分にあるエレベーターへ向かった。
エレベーターのドア前までアルムが近づくと、対人センサーが反応し、ドアの手前にテンキー型の幻像が浮かび上がる。アルムは細い指でテンキーをタップして最上階を示す「30」を入力し、下方で待機していたエレベータが昇降路の内側を静かに上昇してくるのを待つ。
円柱形をした昇降路は、鉄骨と強化ガラスで建造されており、ビルの北東部から円形に食い込むようにして据え付けられていた。わざわざそのような設置方法を――しかも北東という方角を選んだのには相応の理由があるとアルムは耳にしたことがある。何でも、この人造島が浮かぶ海域のすぐ東側――かつて日本と呼ばれていた小規模な列島部では、「北東」という方角を「ウシトラ」や「キモン」などと呼び、邪なものとして忌避する文化が存在していたらしい。
人造島は、世界各地から様々な人種や文化が流入して出来上がった「異文化の坩堝」ではある。しかし、そうではあっても、旧日本海域という極東の地にその位置を占めている以上、付近の文化の影響を比較的強く受けてしまうのもまた否定できない事実だった。人造島の人種構成だってその例外ではない。アルム自身も、祖先を遡れば純粋な日本人の家系にたどり着く。彼女の美しい黒髪も、黒い瞳も、ほんのわずかに黄身を帯びた白い肌も、今は滅びてしまった列島の祖先から受け継いだものなのだ。
父親であるボウキスも同様だ。胡麻塩の髪に、彫りの浅い相貌は、今は亡き日本人の身体的特徴を、確かに受け継いでいる。
やがてエレベーターが止まり、滑るような速さでドアが開いた。アルムは動線を辿るようにして廊下を歩き、歩調が速まりそうになるのを堪えながら理事長室へ向かう。
実の父親であろうと、社内では理事と理事長という立場にある。仕事の上では、親子の間柄など何の意味もない――アルムは理事長から厳しく教えられてきた。
「失礼します」
やや強張った声でアルムが言うと、理事長室の両開きドアが音も立てずに開いた。途端、タイルカーペットの敷き詰められた、だだっ広いフロアが眼前に広がる。
奥には、恐ろしく横に長いポリマー樹脂製の黒いデスクが鎮座し、PCキャビネットが所狭しと犇めき合っていた。それらの中央で、両肘をついて手を組み、静かに座ってこちらを見つめているロマンスグレーの中年男性――彼こそ、ボウキス・シャレードその人だった。
並み居る融社のひとつ、ゴースト・インダストリアル社の創業者にして、最高責任者の座に居座る男――ボウキスは、呟くように言った。
「何の用だ」
老境に差し掛かったがゆえに幾分か嗄れてはいるが、それでも耳底に響くような低い声には、さながら漣を立てた重油のように静かな迫力がある。アルムは心が萎みかけたが、勇気を奮い立たせて言う。
「お尋ねしたいことがあります。……少々お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
ボウキスは皺の刻まれた目尻を微動だにさせず、しばらく無言でアルムを凝視していたが、
「手短に話せ」
それだけ言うと、興味なさげに視線を外した。次いで、うなじの埋殖器に手をやり、目を閉じる。恐らくずっとパソコンの幻像ディスプレイを見続けていたのだろうが、今の仕草でそれらはボウキスの視界から消え去ったと見える。
アルムは胸の前でぎゅっと手を握りしめると、凄まじいまでの威圧感を放つデスクの前まで歩みを進めた。床が粘性を持っているかのように足裏が重たく感じる。
デスクの前まで来ても、ボウキスはアルムに一瞥すらくれることはなく、目を閉じたままだ。アルムには想像もつかないような苦悶を表すように、眉間に険しい皺を浮かべている。
「ガーンズバックが独断で鳴奏機を持ち出したことは……ご存じでしょうか」
アルムが切り出しても、ボウキスは何の反応も見せず、沈黙したままだった。まるで問いに対する答えが肯定か否定であるかすらも、問うた自分自身で判断しろと暗に命ずるかのような無視ぶりだ。
アルムは、ボウキスがニケルスの行動を既知であると判断したうえで話を進めた。
「持ち出した理由について私から問い糾してみましたが、はぐらかされてしまいました」
「…………」
ボウキスは何も答えない。依然として眼を瞑ったままだ。アルムの言葉を本当に聞いているのかすらも、その様子からは定かではなかった。
アルムは怯むことなく言葉を続ける。
「ガーンズバックの行動には不審な点が多すぎます。確かにあの男は、クラウドサーフとしては申し分のない実力を備えています。ですが、あの男を好き勝手にしておくことに、私は賛成できません。……お父様、お父様はなぜ、あの男を野放しにしておくのですか? そもそも、お父様はどこから、どのような経緯であの男を雇い入れたのですか……」
そのとき、ようやくボウキスの瞼が開いた。日本人の血を引く者に特有の、黒々とした瞳が露になる。アルムの胸に一抹の期待が湧き上がった。
――しかし。
「……論外だな。この場所で私を父と呼ぶとは」
期待は一瞬にして恐怖へと姿を変えた。アルムは息が止まりそうになるのを実感する――本当は少しも止まってなどいないはずなのに。
「質問についても論外だ。お前に答える必要はない。……して、聞きたいこと、というのは、それだけか?」
「…………」
アルムは何も答えられなかった。いつの間にか、詰問する側からされる側へと置き換えられている自分に気付けた――自分の置かれた現状を認識するだけで精一杯だった。
「……下らない。時間の無駄だ」
ボウキスは明らかに呆れていた。声も語調も少しも変わらず、溜息すらも吐かなかったが、アルムにとっては自分がボウキスに失望されているのは火を見るよりも明らかだった。明確な態度に表れていないだけに、アルムの恐怖と羞恥はいっそう煽られた。
ボウキスは追い討ちをかけるように、あくまで調子を変えることなく淡々と言葉を繋いでいく。
「日々激化する融社の競争の中では、無駄にするような時間など一秒たりともないことぐらい、お前は理解していると思っていたが……私の期待外れだったようだ。お前には、もっともっと成長してもらわないと困る。私だけではない、我が社に関係する全ての人間や組織が困るのだよ。……言っている意味がわかるか? わからぬようでは、お前がこれ以上我が社にい続ける資格はない」
「……はい」
搾り出すような声で答えた。それだけでやっとだった。
ボウキスは三つ揃えの襟元を正すと、不意に立ち上がった。
「……私は、お前の経営者としての能力は評価している。少なくとも、企画発案力は、そこらの融社経営者より頭ひとつ抜けているといっていい」
威厳のある声だった。
「お前を我が社の経営陣に組み入れているのは、偏にその能力があればこそだ。もしその能力がなかったのなら、お前など他社と同盟を結ぶための政略結婚の道具に過ぎん。そのことをゆめゆめ忘れるな。……それで、だ」
ボウキスはそこまで言ってから、デスクに手を付いた。かと思った次の瞬間、複数の幻像が浮かび上がった。パソコンの幻像ディスプレイだった。普段は通信波が暗号化されており、ボウキスの埋殖器しか通信することは出来ないが、今はアルムにも認識できるよう、暗号化が解除されているらしい。
幻像に記されていたのは、アルムが一週間前に提出した、ある企画書だった。
「この件……どうなっている?」
企画書の内容。
それは、境界層でアイドルのオーディションを行う、というものだった。




