鳴奏Ⅷ
アルミニアス・シャレードは、途切れた遠隔通話を再度繋ごうとうなじに手をかけて、やめた。一度は伸ばされたはずのたおやかな細腕が、名残惜しそうにすらりと下げられる。
「…………」
結果としてニケルスにうまく丸め込められてしまったのは自分でもわかっていた。それを認められないほど自分は愚かでも未熟でもないつもりでいる。だが、認めたら認めたで、心の底で尾を引き摺る、この如何ともしがたい悔しさを感じずにはいられないのも、また確かだった。
認めたくない。だが認めなければならない。その葛藤。アルムを苛んでいたのはまさにそれだった。
「アプリ……」
気持ちは、自然とアプリへ傾いた。アルムにとって、アプリとは石山から拾い上げたダイヤの原石だった。その輝きを見つめるだけで、心が満たされていくのを感じる――宝石とは須くそういうものだ。ダイヤも然り、アプリも然り。
アルムは視線を動かし、全面ガラス張りの大窓へと向けた。人造島第二区層、真央層にそびえ立つ、地上三十階建ての高層ビル。私室を兼ねたアルムの執務室は、その二十七階のフロア全域を占めている。強化プラスチック製のビジネスデスクには執務用パソコンが置かれているが、内部にマザーボードやCPUが収められた長方形のキャビネット部分しかなく、ディスプレイやキーボードのような物理的な入出力装置は軒並み省略されている。
埋殖器を介することで、脳と電子機器との無線通信が可能になった現代では、パソコンのディスプレイの代わりに専ら幻像が用いられているほか、キーボードやマウスといった入力機器も同様、埋殖器を経由した指令により操作する形式――いわゆるブレイン・マシン・インターフェイスへと進化している。キーボード状の幻像を指でタップすることで文字入力することも可能だし、単に思考するだけでパソコンに指令を送り、直接的に操作することもできる。要するに、一口にBMIといっても様々な形式・様式があるわけだが、それらは実際に使用するソフトウェアの性能や用途、また使用者の嗜好等により、ケースバイケースで使い分けされている。
今、アルムの執務用パソコンから浮かび上がった幻像には、アプリが内周層で開催したライブ映像が流れていた。アルムはその幻像を盗み見るような姿勢で振り返ったが、すぐに視線を外した。何もない空間を指で力なくなぞると、幻像は一瞬で消え去った。
広いフロアに静寂が戻る。
「…………」
背中まで届く長く美しい黒髪をさらりと流しながら、アルムは執務室の大窓にしとやかな足取りで歩み寄り、ひんやりと冷たい窓ガラスに手を触れた。微かに反射する己の姿。二年前、十八歳の誕生日に卒業したヘッドバンド型サブコンの代わりに、今は白いカチューシャがかぶせられている。白皙の細面に映えるのは、黒く澄んだ瞳。いかにも深窓の令嬢然とした清楚な顔立ちだが、ただ大人しいだけの娘ではないと主張するかのような、釣り目気味の凛とした眼差しが、彼女生来の芯の強さを表していた。
アルムは窓に片手をついたまま、視線を下げた。見下ろす先には、幾何学的なまでに区画整理された融社のオフィス街が広がっている。極彩色の光の粒子を纏って整列する低いオフィスビル群。それはさながら、円環状に広がる虹の迷路のようにも映る。
迷路の外縁には、厳重に警備された高いフェンスが監獄のようにそびえ立つ。その物理的な障壁は、そのまま、人造島の権力階層を作り出す「壁」として存在している――中心部へ近づけば権力は強くなり、外縁部へ出れば弱くなっていく。
第三区層・内周層。
第四区層・外周層。
第五区層・境界層。
そして、最岸層。
「最岸層……」
人造島における異端の地。その異端さが、ニケルスのイメージをアルムの脳裏に呼び込んだ。どこの馬の骨とも知れない男。外見は二十代半ばのように見えるが、正確な年齢はわからない。投薬処置によるホルモン制御により若返りしているかもしれないし、整形外科手術で短期的に顔を変えている可能性もある。
謎だった。所属する融社を持たない流浪のクラウドサーフであるということ以外、アルムはニケルスの素性を何も知らない。
「お父様は、どうしてあんな男を雇い入れたのかしら……? あんな、素性も知れない、何を考えているかわからないような男を。それに、どうやって……?」
ニケルス・ガーンズバックをどこからか連れてきて、GI社に雇い入れると半ば独断的に決めたのは、他ならぬ父親のボウキスだった。
ボウキス・シャレード。GI社の創業者にして最高責任者でもある、GI社のトップだ。
ボウキスは元々「三大融社」と呼ばれる、某最大手融社の幹部社員だったが、とある理由から独立し、自分の融社を立ち上げる道を選んだ。それが二年前のことだ。奇しくもアルムの誕生日と同じ日だった。父が意図していたのかは定かではないが、父の性格から考えて、まず違うだろうとアルムは思っている。
父は仕事一筋だった。今でもそうだ。常にGI社の業績と成長のことだけを考えている。そんな父のことだから、ニケルスと契約を結んだのも、その腕前がGI社の利益にかなうと見込んだからに違いない。
そして、その見込みは正しかった。
アプリの成功がそれを証明したのだ。
ニケルスをアプリのクラウドサーフに付けてから、アプリの人気が格段に上がったのは、どのマーケティング分析値を見ても明らかだった。特に目を引くのは、ライブの集客力と配信視聴率だ。これらによる収益アベレージは、楽曲アルバムの売り上げよりもずっと高い数値を叩き出している。およそ考えられる全ての要素が、ライブのステージング技術――つまり、クラウドサーフによる寄与が非常に大きいことを示していた。
鳴奏機の操縦。楽曲の演奏技術。ステージ上の視覚的効果をイメージして操るセンス。
およそクラウドサーフに求められるスキルの全てが超一流。あんなクラウドサーフはこれまで見たことがなかった。ある特殊な構造を持つがゆえに、経験豊富なクラウドサーフでさえ操縦するのが難しいと呼ばれる《イーエス=Ⅲ²Ⅴ》までも難なく乗りこなしてみせている。今や我が社に不可欠な存在といっても過言ではない。
いや、正確には、我が社に、ではない。
アプリに、だ。
ニケルスが、アプリに必要とされている。
彼女を拾い上げた自分よりも。
「……お父様に問い質してみなきゃ。いくら腕前があったって、あんな男を野放しにしていていいものですか」
薄紅色の唇を切り結び、表情をきっと引き締めたアルムは、窓から離れ、ボウキスが待ち構える最上階の執務室へと向かっていった。




