蘇生Ⅶ
小一時間ほども歌い続けた頃にはもう、ソプラの喉はカラカラに乾いていた。息は上がり、口の中では若干の血の味も感じられるほどだ。
こうして歌の練習を行うたびに、ソプラは「歌う」という行為が如何に体力を消耗する行為なのかを身に染みて思い知らされる。これがライブステージともなれば激しいダンスも加わるし、なおかつ笑顔をキープしたまま行わなければならないのだ。それがどれほど至難の業であるかは言を俟たないだろう。
「…………」
どんなに苦しくても、どんなに辛くても。
アイドルは、その苦しさや辛さを、決して表に出してはいけない。なぜならアイドルとは、ファンの人々が抱えこんだ苦しみや辛さ、悲しみから解き放ってあげる――まさにそのために存在しているからだ。そんな苦しみや辛さとは対極の存在であるアイドルは、自分自身の苦しみが表に出ないよう、孤独な戦いを続けなければならない。
「アプリも、そうなのかな……」
幻像を通して見るアプリ・ハイエイトは、いつだって元気で、楽しそうに歌い、踊っていた。けれどその笑顔の裏側には、きっとファンには想像もできない厳しい現実が隠されているのだろう。融社の広告塔としての責務を背負いつつ、人造島に生きる人々の癒しの源として振る舞うことを求められる。それが如何に過酷な生き方であるのか、考えても及びもしない。
アイドルは、融社の傀儡であると同時に、島の人々の偶像でなければならない。そしてそうであるがゆえに――《アイドル》たりえるのだろう。
「…………」
――あたしは、そんな過酷な道を歩もうとしているんだ。
こうして歌の練習をするたび、ソプラは思いを新たにする。そしてその思いが、ソプラのアイドルになりたい、唱姫になりたいという夢を、より一層強固なものにする。だからこそ、自分は歌う――どんなに無謀な夢だと言われようと、歌い続けることをやめられないのだ。
……とはいえ。
「さすがに疲れちゃった……」
休息は取らねばなるまい。プロのアイドルでも、ベストの状態で歌い続けるのは二時間が限界だと言われているくらいだ。ましてや素人のソプラにしてみれば、一時間近くも休みなしで歌い続けられたのはむしろ上出来と言ってもいいい。
ソプラはずっと曲を流しっぱなしにしていた媒体に指令を出し、曲を止めて一息つこうとした。
――しかし。
「あれ?」
止まらない。指令の発信が上手くいかなかったのだろうか――疑問に思ってやり直すが、何度やっても結果は変わらない。まるで何者かの意志によって停止が拒絶されているかのように、媒体は文字通り機械的にアプリの曲を流し続けるだけ。そう――自分ではない、他の誰かの意志が干渉しているかのように――。
「……!」
瞬間、ソプラは自分のうなじがざわつくのを感じた。埋殖器に標準装備されている防火壁が警報を鳴らしている。不審なアクセスが検出され、感覚の一部が乗っ取られている危険性があるとの情報が、緊急用の神経経路を通じてソプラの脳に伝えらえてくる。
――誰かがわたしに侵入してる!
ソプラの猫耳型サブコンが不規則に明滅した。心の動揺をそのまま現すようにパネルが激しく点滅を繰り返す。ソプラは慌てて周囲を注意深く見回すが、これだけ開けた場所であるにも関わらず、不審な人影は見当たらない。
「誰……! どこにいるの……!?」
震える声で、追い縋るように問いかけるが、その問いに答えるものはなかった。
その代わりに、ソプラの耳元で、不意に何者かがこう囁いた。
「もっとオレに歌を聴かせてくれねェか、お嬢ちゃん」
驚いたソプラが振り返ろうとしたその瞬間、見えない何かに腕を捕まれる感触がして、それが一気にソプラの勇気を根こそぎ奪い去った。
胸元に這うような感触。何者かに背後から抱きすくめられている。しかし、その姿は視認できない――こんなに密着しているはずなのに。
「歌ってくれよ、なァ、お嬢ちゃん。囁くような声でもいい。観客は、こんなに近くにいるんだからよ……」
眼下の何もない空間に蒼いノイズが奔ったかと思えば、無骨な男の腕がいきなり現れた。ソプラの胸に腕を回し、逃げられないようにがっしりと抱きついている。
ひっ、と声が漏れそうになるところへ、男の腕が即座に動き、ソプラの下顎をぐいっと掴んだ。そのままゆっくりと後ろに引き寄せ、顔を振り向かせる。怯えきったソプラの顔をのぞきこむように、男の顔がぬっと現れた。
「へえ……こいつはなかなか楽しめそうじゃねェの……」
ゴーグルをつけた中肉中背の男――スミスの口角が釣り上がり、ニタリとした不気味が笑みが浮かぶ。その口の中から、長く、大きな、ピアスだらけの舌がでろりとまろび出た。まるでイボだらけのピンクの軟体動物のような舌が、ソプラの頬をべろりと舐め上げる。ソプラの少女としての本能が、声にならない悲鳴を上げようとするも、声は喉元で蓄えられたまま不発に終わる。
こんな風体の人、まず境界層にはいない。だとすれば、フェンスの向こう側、最岸層からやってきた「はぐれ者」に違いない――。
最岸層にいるような人間が、自分みたいな少女を捉えて何をするのか。ソプラでも容易に想像がついた。その想像を後押しするかのように、スミスの無骨な手がソプラの未成熟な胸元をまさぐりはじめた。耳元で獣のような荒い吐息が生々しいほどリアルに聞こえてきて、それがソプラの恐怖と絶望をより一層煽り立てる。
抵抗しようにも、できない。身体に力が入らない。圧倒的な絶望感が、何をしても無駄だという無力感が、ソプラの意志を次から次へと叩き潰していく。
「ひうぅ……!」
――結局、自分はただの「夢見る少女」だった。
毎日のように歌の練習をしていようが、アイドルになりたいという固い信念を持ち続けていようが、この現実を変えるには至らなかった。端から見れば、才能も持たず、誰にでもできる努力をしてきたに過ぎなかったのだ。自分はいつだってスラムの少女であり、常に搾取される側の人間であり、これからもそうであり続けるという現実は、厳然と存在し続けている。自分はただ、その現実から目を背きつつ、幸運にも身を持って体験する機会に鉢合わせなかった――ただそれだけのことだったのだ。
――この街では、誰もが不安を抱えている。
その言葉の意味が、ようやく身に染みて理解できた。
ただ、その意味を知るために払わなければならない代償は、15歳の少女にはあまりにも高すぎた。
やがてスミスの手がソプラの下半身に延び、下着の中に潜り込もうとするのを感じた。ソプラは目尻に涙を溜めながら、ぎゅっと目を瞑った。大粒の涙の珠が、最期に一度だけ輝いて、頬を滑り落ちていった。
――その時だった。
スミスの手がピタリと止まった。耳元でなり続けていた荒い吐息も静かになった。媒体から流れ続けていたアプリの曲も、いつのまにか静かになっていた。
「な、なに……?」
おそるおそる目を開き、前方を確認する。
そこには、奇妙な形の銃を右腕に携えた、長身の青年が立っていた。青年の左腕はだらりと不自然に垂れているが――怪我をしているのだろうか――全身から放たれる威圧感は並大抵のものではない。
「……払うモノを払ってもらおうか、スミス。それとも自分の命で払うか……あの二人のように」
青年は、銃口を背後の男――スミスという名前らしい――に向けた。スミスに抱きかかえられている自分など最初から眼中に入っていないかのように、その視線はあくまで真っ直ぐにスミスに注がれている。
「カハハ……」
スミスが乾いた笑いを立てた。
「まあ待て、まあ待て。あんたが境界層まで追ってくるとはさすがに思わなかったぜ。ポールとリードを犠牲にして、イチかバチかの詐欺視にも成功して、ようやく逃げ切れたと思ったのに……カハハ、このザマだ。オレたちの負けさ、クロム……」
クロムと呼ばれた長身の男は、仏頂面をさらに険しくしながら言う。
「なら、今すぐに払ってもらおう。お前の分だけでなく、他の二人の分もだ」
「生憎だが、そんなに持ち合わせがねェ」
スミスが自分のコメカミを指でトントンと叩きながら答えた。三人分の電子貨幣は記憶にはない、というジェスチャーだった。
「……ルシール」
『了解』
クロムが銃の引き金に指をかけるのを見て、スミスが慌てて弁明する。
「待て、待てったら。持ち合わせはねェが、抱き合わせならある。それで三人分の精算ができるはずだ」
「……?」
クロムが怪訝そうな顔をするところへ、スミスがソプラの両肩を持ち、前へぐいっと押し出した。
そこで初めて、ソプラとクロムの視線が合わさった。クロムは今まさにソプラを認識したというように、味気ない眼差しでこちらを見つめている。まるで商品を見るような目だ。少なくとも、生身の人間に向けられる目ではない。
「まだ乳臭さは残っているが、結構な上玉だ。そのスジに売れば相当な値段になるだろう。ああ、手ェなんか付けてねェよ。新品のままだ」
「…………」
興味なさげな顔をしてソプラをじろじろ見つめていたクロムの右腕が、フッと降ろされた。ルシールの銃口がスミスから外される。取引同意の意思表示だった。
『ちょっと、本気なの! あんなに可愛い娘をクスリの代金がわりにするなんて!』
憤りを含んだ電子声がソプラの耳にも聞こえてきた。おそらくは人工知能なのだろうが、それがあの奇妙な銃に内蔵されていることまではソプラにはわからなかった。
「……その娘を渡せ。電子貨幣もありったけ払ってもらおう」
「ああ、いいよ。これでてめェの命を繋げられるんなら、安いモンだ」
スミスはソプラの肩から片手を放した。だが、もう片方の手はまだ肩に置いたままだった。
「でもその前に、その危なっかしいモンを捨ててもらおうか。代金と娘を渡した後でドカンとやられたんじゃ、笑い話にもならねェからな」
クロムは無言で銃を投げ捨てた。ちょっと、捨て方がゾンザイじゃないの、と電子声が不満を垂れるのが聞こえたが、クロムは完全に無視していた。
「それじゃァ……取引といこうや」
スミスは突き飛ばすようにソプラの身体を押す。きゃっ、と小さな悲鳴を上げたソプラは、倒れ込むようにクロムの身体に抱き止められる。その瞬間、クロムがさりげなくソプラの背中に左腕を回し、転ばないように支えてくれたのを感じた。白い手袋に覆われた手。きっと怪我しているだろう腕。……今のは偶然だろうか? その仕草にどこか不器用さのようなものを感じつつも、ソプラは得体の知れない安堵を感じていた。自分は商品として扱われたのに。これからまた別の人に売り飛ばされるかもしれないのに――この人はそんなことをしないでいてくれるような気がする。この人は、本当はそこまで冷酷じゃなくて、ただ単に不器用なだけなんじゃないか――そんな気がしていた。
クロムは左腕でソプラの肩を抱いたまま、もう片方の手をうなじに当てていた。スミスも同じような格好を取っている。埋殖器を介して、スミスと電子貨幣の決済を行っているのだろう。襟足の長い灰青色の髪の毛を通して、賽の目のように並びながら蒼い明滅を繰り返す六基の埋殖器を見たとき、ソプラは息を飲んだ。埋殖器が六基も付いている人を見たのは初めてだった。
普通、埋殖器は一人につき一基が埋め込まれる。複数個を埋め込むことも可能といえば可能だが、そのぶん中枢神経から埋殖器へと繋がる指令系統が複雑になるため、埋殖器が一基増えるごとに、使いこなすのは幾何級数的に難しくなっていく。特に埋殖器は、現代人にとって日常生活に必要不可欠な「第六の感覚器」であるため、それが満足に使えないとなると日々の生活に支障を来しかねない。そのため、埋殖器を複数埋め込む者は、大容量の電脳処理を行う人間――例えばクラウドサーフのような――職種に限られている。
――ということは……もしかして、この人。
ソプラが疑念を抱いたそのとき、ちょうど電子貨幣の決済が終わったらしく、クロムはうなじから手を放した。忙しなく点滅していた六基の埋殖器は、すっかり沈黙し、今や蒼い残光をチカチカと発するのみとなっていた。。
「……これで全部カタはついたってワケだ。オレはもうズラからさせてもらうぜ。願わくば、アンタとはもう二度と会わないようにしたいね」
捨て台詞を残してその場を去ろうとするスミス。その背中に向けて、クロムは声をかけた。
「まだ取引は終わっていない」
スミスの足がピタリと止まる。クロムは懐から何かを取り出すと、それをスミスに見せつけた。
「コレをどこで手に入れた?」
クロムの手に握られていたのは、八角形の小型装置――電糸操屍だった。
背後を振り返るようにしてその装置を見たスミスの顔は、明らかに強ばっていた。絞り出すような声でこう答える。
「そいつに答える義理はねェ。もう取引は済んだはずだ」
「済んでいない」
「アンタに払うべきモンは全部払ったはずじゃねェか!」
「まだ利子が残っている。支払期日から遅延した分の利子だ」
激高したスミスを軽くいなすように、クロムはあくまで落ち着いた声で答えを求めていった。
「いくら最岸層とはいえ、コレを作れるだけの技術がゴロゴロ転がっているはずはない。少なくとも融社の技術開発部門、それも中堅かそれ以上のクラスでなければ作れない代物だ。……問題は、お前らがなぜ、どういうルートでコレを入手したか、だ。もしも流出ルートに融社が絡んでいるのなら、見逃すわけにはいかない」
「なんで……なんでアンタが融社にこだわる必要があるんだよ……!」
「融社には個人的な恨みがある」
「へえ……どんな恨みだっていうんだ」
「行きたくもない戦争に行かされた」
何気なく呟かれたクロムの言葉を耳にした途端、スミスの語り口が明らかに変わった。
「戦争って……あの戦争のことかい」
「『戦争』と言えば、それしかないだろう」
「……そうか。そういうことか。それなら、アンタもオレも、根っこは同じだってことじゃねェか」
スミスはカハハと乾いた笑いを上げる。ソプラは言葉の意味がわからず、ただ呆然と二人のやりとりを見つめているだけだった。
「……で。融社が絡んでいるとして、アンタはどうするんだい」
「融社と最岸層との間を結んでいる仲介人がいるはずだ。そいつの名前を教えてもらおう」
「…………」
スミスはそこで黙り込んだ。下を向き、肩を落としている。何か尋常ではない葛藤に苦しんでいるような、重大な決意を決めあぐねているような様子だ。
「オレもあの戦争に行ってきた。アンタと同じようにな」
不意にスミスは独り言のようにブツブツとつぶやき出した。今までと比べて、明らかに様子がおかしい。
「オレはあの戦争で地獄を見てきた。アンタも知っての通りだ。次から次へとと仲間が死に、敵が死に、いつ自分に順番が回ってくるか知れたモンじゃなかった。その中でオレは学んだんだ。何を賭けても守るべきは、自分の命だと……」
スミスは顔を上げた。
「あの人の名前だけは言えねェんだよ。言ったら間違いなくオレは殺されちまう。言って殺されるのなら、言わずに済む道を切り開くだけだ。それがオレがあの戦争の中で得てきた財産なんだよ。それこそが、オレが最岸層みてェな腐った掃き溜めの中で生き抜けたたったひとつの『武器』なんだよ……!」
おもむろに懐に手をやり、刃渡り15センチにも及ぶ刃物を取り出した。しかもただの刃物ではない。高周波振動ナイフ――刃部に起こされた超振動により、あらゆる物体を切り裂くナイフだ。
「殺される前に殺す! それがオレが戦争から得てきた財産だ!」
スミスは恐るべき速度でクロムに襲い掛かってきた。余りの出来事に、ソプラは思わず目を瞑った。クロムの左腕が、自分の身体をぎゅっと強く抱きしめるのを感じた。どこか硬質な感覚。生身の腕に抱えられているような感覚ではない。これは――
――機械?
「帰還兵が誇っていいのは、戦争で『何を得たか』じゃない」
クロムは右腕を伸ばした。その先にあるのは猛然と突進してくるスミスの身体だ。
「……『何を失ったか』、だ」
パシュン、と何かが射出される音がした。次いでスミスの呻き声が聞こえ、どさりと地に崩れ落ちるのがわかった。おそるおそるソプラが目を開けると、仰向けに倒れて気を失っているスミスの姿があった。その顔面を、クロムの右手ががっしりと掴んでいる。右手の付け根からはワイヤーが伸びており、それがクロムの手首の断面へと繋がっていた。
射出されたのは、クロムの右手だった。
「あなた……改造人間なの……?」
驚きと困惑を綯い交ぜにしたような声で、ソプラがクロムの顔を見上げながら言ったが、クロムは視線がかち合うのを避けるかのようにすっと外した。どこか慌てたような素振りだったが、あくまで無関心を装っている。
『そうよ。彼、ちょっとワケありでね、四肢を機械化しているの」
遠く離れた場所から先ほどの電子声が聞こえてきた。どうやらあの奇妙な形の銃が電子声の正体らしいとソプラはようやく悟る。
『結構便利なのよ、彼。今みたいにロケットパンチの真似事みたいなこともできるし……そうそう、廃ビルの屋上に一瞬で移動したりなんかもできるのよ。ワイヤーの長さも射出力も伊達じゃないんだから。カーボンナノチューブってわかる?』
わりとおしゃべりな人工知能なんだなとソプラは思った。無口で無愛想なクロムとはちょうどつり合いが取れているのが、なんだか面白かった。
それにしても――この電子声、どこかで聞いたことのある声のような気がしてならない。ノイズがかかっているのではっきりとはわからないが、確かに聞いたことがあるように思えてならなかった。
ソプラが考えこんでいるところへ、
『ねえ、あなた、さっきここで歌の練習をしていたわよね』
「……え? あ……は、はい……!」
思わず直立不動になって返事をしてしまう。この声には親しみと同時に、どこか他人に敬意を抱かせるカリスマのようなものを感じてしまう。ことソプラにとっては、特にそう思えた。
『もしかして、アイドル志望だったりするのかしら』
「え……えと……」
答えあぐねる。何せ、実の両親にも言ったことのない「唱姫になりたい」という夢を、いくら人工知能が相手とはいえ、面と向かって言えるはずもなかった。しかし、それでもソプラは勇気を振り絞り、大声で言い放った。これほどハッキリと言えたことが自分でも不思議なくらいに、
「は、はい! あたし、唱姫を目指してます!」
そう言い切った。言い終わってから、何で自分は人工知能相手に、今までひた隠しにしてきた自分の夢を大声で叫んでるんだろう、と、猛烈な羞恥に襲われる。スミスに犯されかけた時とはまた別次元の恥ずかしさに身悶えしたくなるところへ、
『……そう。なれるといいわね』
人工知能は驚くほど優しい声色で慰めてくれた。どこか感慨深げにも聞こえるその声は、ソプラの既視感ならぬ既聞感を大いに刺激した――それでも思い出せないのは変わらなかったが。
「それで……これからどうするの? あたしを売るの?」
ソプラは恐る恐るクロムに問いかける。クロムは、答えるまでもない、と言った風情で視線をちらりと向けただけだった。
やっぱりあたし、売られるんだ――。
一抹の悲しさが端緒となり、あの時の絶望が少しずつぶり返してくる。スミスの手から逃れられたとはいえ、自分の身柄がクロムの手に渡ったというだけで、自分の身体の自由を取り戻せたわけではない。
『ダメダメダメ! 絶対ダメよ! こんなに可愛い娘を……それもアイドル志望の女の子を、最岸層のゴロツキの性処理道具になってさせないわ!』
急に人工知能が怒り狂ったような声で反対する。ソプラはあっけにとられつつも、ドキドキしながら成り行きを見守っていた。
「それじゃあ金にならんだろ」
クロムが呆れたような声で答えるが、
『この娘を売ったら、私はもう二度と貴方の手伝いなんてしませんからね! ピンチになっても弾なんて一個も出してあげないんだから! ひとりで「ガンホー」ってバカみたいに叫んでればいいわ!』
「参ったな……」
呆れ声を困り声へと変えながら、クロムは、前腕部に内蔵したウィンチで巻き戻した右手で、後頭部をぽりぽりと掻く。
『それに貴方、売るっていっても、売れるルートなんか知らないでしょ』
「うっ……」
痛いところを突かれたらしい。ソプラはクロムと人工知能との力関係の実態を垣間見た気がした。見ようによっては、長年連れ添った夫婦のようにも見える。改造人間と人工知能。面白い組み合わせだなと思った。
「名前は?」
クロムが唐突にソプラに問うてきた。思えばこれが初めてのクロムとの会話になるかもしれない。
「……ソプラ。ソプラ・ラヴレス」
「そうか。俺はクロム。クロム・マーヴェリクス。……それじゃあソプラ、互いの身の上を明らかにしたことだし、早速取引といこう。俺は今、身体を落ちつけられる場所を探している。左腕はぶっ壊れたままだし、修理しないままラボに帰るにはリスクが高すぎる。そこでだ」
「……?」
「ソプラ、君を売らない代わりに、俺達にどこか近場で休める場所を提供してもらいたい。可能か?」
「…………」
ソプラはしばらく考えて、うってつけの場所があることを思い出した。
「あるよ。そこに案内すればいいの?」
「ああ」
ここに取引は成立した。ソプラは、最後の台詞の後に、クロムが一瞬だけ、ほんの僅かだけど、にっと笑ったような気がした。その、ほんのちょっぴりの笑顔は、本当にほんのちょっぴりだったけれど――
――それでも、クロムという青年が決して悪人ではないということを感じさせるには、十分だった。




