08 この世界の話
「もしかすると、」
「可能性はあるかもしれない」
そんな言葉も無く、僅かな希望も与えられず……志乃は透からあっさりと「帰れない」という事実を突きつけられた。
お母さん、心配してるだろうな。
この夏で部活も引退する筈だったのに……最後の試合も出れないなんて。
情けなくて、悲しくて……次第に胸が苦しくなる。泣きそうなのを堪えながら、志乃はぐっと唇を噛んだ。そんな志乃に、目の前に立つ透はそれはもう、表情も変えず、声色も変えず、えげつない言葉を投げかけてきた。
あまりの衝撃に、志乃は胸の苦しさも、溢れ出しそうな涙も、一瞬で止まった。
「働かざる者、食うべからずだ。この世界で生きていきたいなら、働け」
感傷に浸る暇も与えず、この男は自分を何度、絶望の淵から突き落とせば気が済むのだろう。絶望の淵は、何段階式なのか?と思うほど、突き落とされた。
もう二度目だ。
「働くわよ!!!街でアルバイトでも探すわよ!!!」
頬を伝った一筋の涙をごしごし拭って、志乃はどかどかと足音を響かせながら、荷物をまとめ始めた。そんな二人のやり取りに呆気に取られていた老婆は、何も言えずにただ、傍観しているだけだ。
「だから、俺が拾ってやると言ったんだ」
「嫌よ!お断り!!街で住み込みで働かせて貰う方がマシ」
「お前は頭が悪いのか。この世界のことを何も知らない頭が悪い使えない女を誰が雇うんだ」
どさくさに紛れて物凄い悪口言われた。頭が悪いに至っては二回も言われた。
志乃は透を睨みつけ、唇を噛み締めた。
「娼婦にでもなるなら話は別だ」
「ならない!」
「賢明だ。お前のような女じゃ稼ぎも悪い」
表情一つ変えず、透はずけずけと言いたいことを言ってくる。確かに貧相な体つきなのは自覚している。だが、人生でこれほどストレートに何度も暴言を吐かれたことは無い。あまりの腹立たしさに、志乃は更に唇を噛み締める力を強めた。
「……あまり噛むな。血が出る」
透は自分がどれほど志乃を怒らせることを言っているのか……理解していないようだ。何気無く、頬に触れてくる透の手を、志乃は力いっぱい叩き落とした。
「構わないで」
「構いたくないが。お前は……あの刀を使える。望むだけの報酬を与えるから、俺の元で働け」
「何言ってんの。刀ぐらい……誰だって」
透は志乃がまだ話している最中だと言うのに、ふい、と顔を背け、勝手に志乃の持ち物を漁り始めた。何勝手に触ってるの!と志乃がどれほど怒ろうが、透はまるで無視だ。
「ちょっと、何……」
「見ろ」
竹刀を入れていた袋の中から透が取り出したのは、真っ黒に錆びた刀だった。先ほど、志乃が握った時には取れていたはずの錆がまたこびり付いている。
「……なんで」
「使える人間が決まっている刀だ。選ばれた人間で無ければ、このように錆を纏ってしまう。九条の家に伝わる宝刀の一つだが、見ての通り、これは俺には扱えない」
ぐい、と刀を差し出され、志乃は渋々、その錆びてしまった刀を手にした。すると、刀の錆が少しずつ剥がれ始めた。
「何これ……どうして……」
「詳しくは、霧島に聞け」
「誰よ、霧島って」
「そこの術者だ」
術者…そう言われて、志乃は先ほどの老婆を見た。黙ってこちらのやり取りを見ているだけの老婆……彼女は霧島という名前らしい。
「ご説明してもよろしいでしょうか?」
にこり、と霧島が柔らかな笑みを浮かべた。
志乃は「はい」と静かに頷き、霧島の前に再び腰を落とした。
この世界には、陽と陰の国とが存在するという。
陽には人が住み、陰には人以外のものたちが住む。
この世界の人は弱く、常に「怪」という陰の国から来る化物の存在に怯えて暮らしている。
「怪」は人を襲い、食う。
陽と陰の国の境目は分かっていない。
どこからとも無く怪は現れ、人を襲う。
人はただ、その存在に怯え、小さな結界の中で細々と暮らしていた。
そんな時代に生まれたある巫女が、陰の国に存在するという「神族」と呼ばれる人と似通った姿を持つ人ならざる神力を有する青年と交わり、子を成した。
その子は特別な力を持って生まれ、その力でその地方にいた怪を全て滅ぼした。
そして、その場所を国とし、人が安心して暮らせるように国全体に結界を張った。
小さな国は、その子が生んだ十人の子によって更に広がっていった。
その長子が国の中心となり、その下の九人がそれをささえた。
それが今では、帝と九族と呼ばれる帝の直系となり、この陽を支えている。
九族は、一条から始まり、九条で終わる。
始まりの一族・一条と終わりの一族・九条は特に強い力を宿すと言われている。
その血に宿す力で帝と九族は国を治め、国を守っている。
「お分かり頂けましたか?九条将軍は、終わりの一族であり、特にその血に力を残しているのです」
霧島の説明は何となく、分かるような……分からないような。なんか、とりあえず「九条」ってお貴族様ってやつなんだなー、偉いんだなーという程度には分かっている。そしてだからこそ、「九条志乃」と名乗ったことによって驚かれたということも、それとなく理解出来た。