うつくしいもの
美しいものを、見たんだ。
尾崎が酒の席でそんな言葉をこぼしたのは、一月の終わり頃、雪の降っていた日のことだった。
あのとき俺たちは三人で、駅前の店に集まって、いつもみたいに酒を飲んでいた。俺はいいちこのお湯割りを、尾崎はウイスキーをロックで割り、田中はぬる燗だった。つまみを頼んで、仕事の愚痴なんかを言い合って、取り留めもない話をして、そのうちに勝手に夜が更けていった。
それを尾崎が口にしたのは……なんの話題の最中だっただろう。
そうだ、お前らはそろそろ結婚しないのか、って田中が言い出したんだ。
俺たち三人のなかで、結婚しているのは田中だけだった。同じゼミだった縁もあって、大学からの付き合いだけど、俺たちは仕事もバラバラ、趣味もそれぞれ違って、たまにこうやって集まって飲むだけの繋がりが続いていた。
二十五歳くらいの頃だった。田中が結婚するって言い出した。なのに結婚式には呼ばれなかった。俺と尾崎はその場にいない田中に文句を言いながら、朝まで二人で飲み明かしたことを覚えている。
もうすぐ三十歳になる俺には、一応ながら恋人が居る。
そろそろ次の関係を考えなくもない年齢だが、結婚に踏み切れないのは、俺の仕事が安定していないものだからだ。もう少し若ければ勢いで結婚しようと言えただろう。もう少し年を食ったら、諦めて結婚してくれと言い出しただろう。
なんにせよ、中途半端な状況で、中途半端な俺は、結婚を切り出すのは躊躇っていた。
飲み仲間である田中にも、尾崎にも、そうした細かい話はしなかった。ただ、まだそういう気持ちになれないとだけ言って、余裕ぶった田中からは、ゲラゲラと遠慮無く笑われた。
尾崎は、ぼそりと口にした。
美しいものを、見たんだ。
その口調は、なんともいえない感じを滲ませるものだった。妙な空気が残った。
ちょっとした話題を振ったつもりの田中が狼狽えて、それで雰囲気がおかしくなって、グラスに残っていた琥珀色の液体を、ぐいっと流し込んだ尾崎は、悪いと一言残して帰ってしまった。
残された俺たちは、店の中で、顔を見合わせた。
田中が首をかしげた。なんだ、あいつ。
俺も不思議だった。いつもなら、べらべらとご高説を垂れて、ぐでんぐでんに酔っ払って潰れるまでが尾崎の飲み方だったからだ。
それに、あの言い方は、なんだかおかしかった。
田中が言い出したことだが、恋人がいないのか、結婚しないのか、いないなら彼女を作ろうぜ。そういう風に続いていくであろう話の流れだった。なのに、吐き出された尾崎の言葉は、まるで人間ではないものを語るような、そうした違う気配があった。
美しいもの。
俺も、田中も、何か奇妙な感覚を味わってしまって、黙り込んだ。二人で並んで、黙って飲むような関係じゃない。そのあとの話は盛り上がりに欠けて、いつもより随分早く店を出た。
それから一週間ぐらい経った日のことだ。
警察が訪ねて来て、尾崎の行方を知らないか、と聞かれた。
尾崎が失踪したことは、そのとき初めて知った。
俺は心当たりがないことを素直に話した。ただ、関係ないとは思いますが、と前置きして、心に引っかかっていた飲み屋での話も付け加えた。俺より先に田中に会いに行っていたらしく、そちらでも同じことを言われたんですよね、とその警察官は怪訝そうな顔を隠さなかった。
尾崎はそれから、今も行方不明のままだ。
それ以来、なんとなく会いづらくて、田中と飲むこともほとんど無くなった。
失踪した尾崎には、どんな事情があったのか。それとも自分の意思ではなく、何かの事件にでも巻き込まれたのか。
俺にはそれを知る術は無いし、あえてそれを知ろうとも思わない。
薄情かもしれないが、俺たちの関係はその程度のものだった。
もし俺が結婚することになったとしても、田中と同じで、二人に招待状は出さなかっただろう。次に一緒に飲んだときに、結婚したと報告するくらいなもので済ませたに違いない。
尾崎を見た、と田中から電話があったのは一年後のことだった。
すっかり疎遠になっていた俺は、田中から電話が来たこと自体に驚いた。久々に飲もうという誘いかと思って話していたら、興奮した口調で飛び出してきたのがその情報だ。
要領を得ない話をどうにか順序立てて聞き出して、ようやく分かったのは、尾崎が誰かに連れられて駅前を歩いていたという事実だ。
田中が声をかけたところ、振り返った尾崎は、最初見知らぬ相手を見るような目をしていたが、やがてはっと気づいたかのような表情を見せて、その誰かと一緒にその場から逃げ去ったという。
反応が反応だ。人違いじゃないのかと俺は尋ねたが、田中は頑としてあれは尾崎だったと言って譲らなかった。しばらく会っていないとはいえ、もう何年も飲み友達を続けていたのだ。見間違えるということはありえない、と田中は強く言い張った。
俺が見たわけではないから、その真偽については判断できない。
ただ、田中が嘘を言っている風ではなかった。
どういうことだろう、と俺は首をかしげた。
俺自身が尾崎を見たのは、田中から電話があった一週間後のことだった。
というのも、さすがに気になってしまって、田中から聞き出した駅前に日参していたのだ。丁度仕事が暇だった時期ということもあり、俺は尾崎の姿を群衆の中に探し続けた。
いた。
田中の言うように、尾崎は誰かと一緒だった。その誰かの顔を、俺は知らなかった。
下手に話しかけてしまうと、逃げられてしまうかもしれない。
俺はまるでドラマに出て来る間抜けな探偵のように、拙い尾行を始めた。
駅前から離れ、どこかへと向かって、尾崎は歩いていた。ゆっくりとした歩調だ。
その脇を、誰かが同じ速度で歩いていた。腕を組んでいた。尾崎は楽しげに、横にいる誰かに話しかけ、その誰かも嬉しそうに言葉を返しているようだった。
俺はその様子を、少し離れた場所から見守っていた。
尾崎の傍らにいる誰か。
その顔が、分からない。
不思議なこともあるものだ、と思った。
自慢じゃないが、俺の目はそれほど悪くない。そこそこ離れていても尾崎の顔がはっきり見えているのに、ほぼ同じ距離にいるはずの誰かの顔はぼやけてしまって見えないのだから。
おかしいぞ、と思い始めたのは、それからすぐのことだった。
歩いても歩いても、尾崎と誰かは、どこにも辿り着くような気配を見せない。目的地を決めないで歩いているという風でもない。それを追いかける俺は、今自分がどこにいるのかも分からずにいた。見覚えのない景色を通り過ぎて、ふと気づくと、周囲が木々に囲まれていた。
尾崎たちは前を歩いている。俺は追いかける。いや、もう声を掛けてしまおうと思って、追いつこうとして歩く速度を速めるのだが、気づいたら置いて行かれてしまう。尾崎の背中がどんどん小さくなってしまって、無性に怖くなり、大声で呼びかけてみるのだが、一度も振り返ってくれない。
知らぬ間に山道に入ってしまったのだろうか。目に飛び込む緑が増えてくる。木々がぐるりと俺を取り囲んでいる。
豆粒のように小さくなった尾崎の後ろ姿が、あっという間に向こう側へと溶けていく。
俺は必死になって駆け出す。
追いつけない。
さっきまで昼だったはずの空は、知らないあいだに夕暮れの色になっていて、遠い端から少しずつ夜の黒に染まっていく。
尾崎の姿はもう見えない。あれは本当に尾崎だったのだろうか。それすら怪しい。俺は独りぼっちになってしまって、今自分がいる場所も分からず、どちらが前で、どちらが後ろなのか、来た道はどちら側なのか、それすらも分からなくなって、途方に暮れていた。
夕暮れが狭くなり、夜が広がっていた。
俺の足下も黒く沈んでいた。木々の影なのか、山の暗さなのか、俺はどうしてしまったのか。足を動かすことが億劫になり、その場に立ち尽くしていた。
そこに、それは現れた。
女性、だろうか。
そんな気がするから、きっとそうなんだろう。
なのに、俺には、それをどう表現して良いのか、分からない。
人間ではない。人間であるはずがない。
こんなに美しいものが、人間なんかであってはならない。
それは、俺を見つめ、俺の手を取り、どこかへと誘おうとした。それは俺の手を引いて、どこかへと連れて行こうとしている。それに抗うことなど、考えもしなかった。
やがてどこかの淵に辿り着いた頃、それは俺をその淵の向こうへ進むよう促した。一切の疑いを抱くこともなく、その美しいものがかくあれかしと望んだ通りに、俺はそうした。
その美しいものは、去ってしまった。
気づいたとき、俺は一人、駅の近くの公園のベンチに座り込んでいた。
胸の奥にぽっかりと穴が空いたようだった。美しいものは、もはやどこにもいないのだ。俺は助けられたのか、それとも見捨てられてしまったのか、自分が何を考え、何を見て、どうしてこんな場所でぼんやりとしているのかすら、何も分からなくなってしまって、なのに頬を涙がすべり落ちる感触だけが熱くて、悲しかった。ぽろぽろと、次から次へと、目から涙が溢れて止まらなかった。
俺は、まだ結婚していなかった。だが、もう何年も同棲をしていた。
家では恋人が待っているはずだった。
尾崎のことが、少し羨ましかった。あんなものを見てしまって、もう戻らなくていいと、本心から思ってしまったのだろう。
きっともう二度と会えないであろうことは、どういうわけか確信していた。
帰り道の記憶はない。駅前から歩いて帰ったのか、それともバスに乗ったのかすら、よく覚えていない。
ただ、ようやく家に辿り着いたとき、俺は一度だけ振り返った。
すでに空は闇に覆われ、星は雲に隠れ、月は朧気に仄暗く輝いていた。
幻かもしれない。夢だったのかもしれない。ただ、美しいものを、見た。
それだけのことだった。
俺は大きくため息を吐き出して、顔を上げて、自宅のドアを力一杯開いた。
帰りが遅くなったせいか、恋人がわずかに怒ったような顔をして、それでも出迎えてくれた。
その不機嫌な顔に、俺は言うのだ。
結婚しよう、と。
そのときの恋人の顔は、あんまり美しいものとは言えなかったが、少なくとも、ずいぶんと幸せそうではあった。
それで良いのだと、思った。