ザ・ロンゲスト・デイ
しばらく小説を書くことから離れていたんですが、友達に書くぞという啖呵を切ってしまったので書き始めました。作者のマイページに飛んでもらうと、書きかけの小説があると思うんですが、今回はそれを新たに書き直したものです
──聖歴792年、夏至、某国
若い男が、木立に囲まれた坂を登っていく。なみなみと水が入ったバケツを提げて、ゆっくりと坂を上がっていく。
「ふふっ、坂の上の雲だな、まるで」
男はひとりごちた。男の眼前に広がる未舗装の坂の上から積乱雲が顔を覗かせる。青空に高く伸びる雲は次第に太陽を覆い隠して、初夏の昼下がりにしばしの清涼をもたらした。この隙にと、男は歩調を速めた。
風にそよぐ木立の中を、少し息を切らせながらも男は黙々と坂を登る。坂を登りきると、そこは小高い丘の頂上だった。
「運動不足ですかね。たったこれだけなのに、ずいぶんと疲れましたよ」
自嘲気味に言いながら、男は呼吸を整えて襟を正す。
入道雲に隠れていた太陽がふたたび顔を出したのは、ちょうどその時だった。陽光が男と、男の視線の先にある人工物を照らし、人工物に刻まれた文字が明らかになる。
『津村栄一之墓』
日本式の墓石だった。
「お久しぶりです」
男は一礼して墓石へ寄ると手に提げていたバケツから杓を取り出し、水をゆっくりとかける。
「今日はね、いいものを持ってきたんですよ」
それからスポンジを取り出して墓石を洗い始める。
よく手入れが行き届いているからか、墓石にはそれほど目立った汚れはなかった。
「日本酒ですよ。敷島皇国から取り寄せたんじゃなくて、日本人が日本式の製法で作った本物の日本酒です。去年に販売が開始したんですが、これがなかなかに人気で、入手にはちょっと無理をしました」
男は額の汗を拭いながら、カラカラになった花を新しいものに取り換え、それから数珠を取り出して手を合わせた。
「こないだ、久々に娘さんと話しましてね。本当なら、今日もここに来るはずだったんですがね。相変わらず美人さんでしたよ」
そういいながら男はグラスを取り出して、酒をコップに注いで墓前に供えた。
「俺はスクーターで来たので、水で失礼しますよ」
そういって男はグラス同士を軽くぶつけた。
「献杯」
男は水を飲み干すと、一礼した。
「そろそろ迎えが来そうなので、これにて失礼します。またここには来年きます。お盆も、できれば」
男はそういうと、手荷物をまとめて坂を下っていく。
「芹沢閣下!」
坂の下から、男を呼ぶ声がした。
「どういうおつもりですか! あなたには立場というものが」
「旧友の命日なんだ。それぐらいは勘弁してくれないか」
男の顔からは、先ほどまでの柔らかさは消えていた。
「ですから、お立場をお考えください」
「……」
男はこの国にとって、いや世界にとって重要な人物だった。彼の名は歴史に残り続けるだろう。偉業も悪行も、余すことなく。
「さあ行きますよ」
「窮屈なこって」
このままでは引きずられかねないと、男はついに観念して坂を下っていく。
「閣下、それは酒では」
「飲んじゃいないよ。スクーターで来たんだから。俺にだって道交法の知識くらいはある。心配なら呼気中のアルコール濃度を測るといい」
「そんな時間はありません。念のためその酒は私が預かっておきます」
「ああそうしてくれ。こんなにゾロゾロと来たんだ。荷物持ちでもやってくれなきゃたまらんよ」
飄々とした風でありながら、男はこの対応に心底辟易としていた。誰にも気づかれないよう小さくため息をつく。
男は名残惜しげにいま下ってきた坂を振り返る。相も変わらずに木立は風にそよいでいて、その向こうには抜けるような青空が広がっていた。
その坂道の向こう側から、さながら男を覗き見るように背の高い白雲が立ち込めてくる。
「閣下、行きますよ」
男はその白雲を流し見ながら、従者らに半ば引きずられる形で霊園をあとにした。
とある男の話をしよう。
世界を滅ぼす魔王と呼ばれる男の話を。
この世界の混沌と破壊の渦中にあり続けた男の話を。




