鬼教官ヴァルター
俺は自室に戻るなり、ヴァルにこれでもかというほど注意された。
それはもう、同じことを何度も何度も。
「ギル様、殿下に術を放つなど、言語道断です……。あの場で処刑されていたとしても不思議ではなかったのですよ」
「だからぁ、魔法が使えるなんて知らなかったんだよ。俺、記憶喪失だよ?あの人止めようと立ち上がったら、もう放ってたんだよ」
先ほどの気品はどこへやら。ヴァルは、大きくため息をつくと、ガクッと肩を落とした。
「これは、遥かに重症のようですね……。ギル様の放った魔法は殺傷能力の極めて高い攻性術式。
なぜあのような術式を詠唱なしに……。
もし、私が咄嗟に守護術式を重ねなければ、殿下の強大な魔力を持ってしても、内臓破裂は避けられなかったでしょう」
え……なんか、今、めちゃくちゃ怖いワード出てきたんですけど……。
数時間前まで、俺の最大の敵は月曜の朝だったんですが?
俺は、あの恐ろしい兄上に、内臓破裂をお見舞いしていた別ルートを想像し、恐怖に身を竦めた。
「……それは、あの、ごめんなさい」
急にしおらしくなった俺に向かって、ヴァルは呆れたように、ゆっくりと首を左右に振った。
「やっとご自身の過ちを理解したようですね」
次の瞬間、ヴァルの眼光がギラリと光った。
「明日から、術式の鍛錬に入ります。これまでギル様が習得されてきたことを一から学び直していただきます。短期間で戦闘に耐えうる水準まで戻す必要がありますので、多少手荒な修行となりますが、身体で覚えるほかありません」
なんか、このお方、今までと雰囲気が違いすぎるんですが……。まさか、命までは……奪わないよね?
「あの……手荒な修行とは?」
「途中、負傷することもあるでしょうが、その都度、私が治療いたしますので問題ありません。
……身体が覚えるまで、繰り返します。ご容赦ください」
背筋に冷たい悪寒が走る。
俺の青褪めた顔を見て、ヴァルは目を細め獲物を見定めるように薄く笑った。
その時、俺は思い出した。
そうだ、ヴァルもヴィランの一味だ。
それも、ただの構成員じゃない。
夕餉の席で見せた、人智外れた瞬発力。
あの一瞬で攻撃を無効化した、底の見えない魔力──
未だ、一度も視線を外さない彼を前に、俺は苦笑を浮かべながら、ゆっくりと後ずさった。
翌日、俺はおひさまも目覚める前から鍛錬場に立たされていた。
目をこすり、寝ぼけ眼で周りを見る。
天井はどこまでも高く、床は黒光りする大理石。
ゴツゴツとした石壁は、目を凝らすとゆらゆらと歪んで見える。おそらく魔術で硬化されているのだろう。
鍛錬場の端には魔術訓練用の人形が並んでいる。
そして、壁沿いにあるのは──
うん。見ないでおこう。なんか、鞭とか竹刀とか、拷問具とか見えたけど、俺には見えない。
血みたいなものも見えたけど……
俺には、なんにも見えない!
俺は、視界を狭めて前を見た。
そこに、いるのは────
驚異のラスボス。
そう。そう呼ぶにふさわしいほどの魔力を解き放ち佇むヴァルター。
もう、わかるよね。この人、絶対容赦ない。
「今日は一日、術の鍛錬に励みましょう。食事や休息は、成果に応じて与えます」
静かに微笑むヴァルターにつられ、俺も口元を引きつらせる。
「まずは、無詠唱にて防いでください。
……ご安心を。死なない程度には加減します」
次の瞬間、彼は悪役に相応しいまでにダークな声で、始まりの合図を告げた。
「────始めます」
刹那────
空気が爆ぜた。
身体が後方へ吹き飛び、石壁へと打ち付けられる。
凄まじい衝撃に、肺が潰れ、空気が一気に押し出される。
「がっ……」
今のは……何だ?
何も見えなかった。
聞こえなかった。
詠唱する口元も、術光も、ヴァルターの動きでさえも。
床に転がり背中を丸め、むせながら咳き込む俺に、ヴァルターは淡々と告げた。
「立ちなさい。敵は常に無慈悲です」
その声が落ちると同時に、床が爆ぜた。倒れることを許さないとでもいうように大理石に背が触れる度、爆ぜる衝撃が何度も身体を叩きつける。
「内なる魔力を感じるのです」
骨が軋む音が響く。
「こんなことでは、本当に死んでしまいますよ?」
息が吸えない。
圧縮された空気が炸裂し、遅れて電流が筋肉を強引に痙攣させた。
攻撃が止んだのは、意識が途切れる寸前だった。
死ぬ────そう感じた瞬間、身体の奥で生への本能が暴れ、小さな波動が指先から漏れ出した。
それはドーム状の薄い膜となって広がり、次の爆発を僅かに弾き、その衝撃を分散させた。
酸素を求めて、必死に口を開く。
「初めて魔力で防ぎましたね。ですが、放出が遅すぎます。朝餉と昼餉は抜きです」
何これ……俺、昨日まで普通の高校生だったんだよ?
口喧嘩すら滅多にしない、超平和主義者だよ……。
なんで、俺が……。
もう、どこが痛いのかなんてわからない。
全身が痺れ、力が入らない。
悔しさと虚しさに押しつぶされ、天井を見つめる視界がぼんやりと滲んでいく。
静かに歩み寄ってきたヴァルターが、俺を見下ろし、無情に息をついた。
「泣いていらっしゃるのですか?魔王の御子息でもあらせられる貴方が……。情けない。皇族の恥ですね。少し休憩を取りましょう。十分後に鍛錬を再開いたします」
足音が遠ざかっていく。
こいつ……仮にもギルの世話係なんだろ。
なんの情もねぇのかよ……。
去り際、ヴァルターは俺を振り向き、言葉を落とした。
「ああ、そうだ。昨日、ギル様が廊下で声をかけたあの使用人の件、ガルディス殿下もすでに認識されております」
え……?
「処罰はギル様に一任すると命を受けておりますが……脆弱な貴方に冷静な判断ができるとは到底思えません。彼女の件は殿下に処罰していただきましょう。おそらく鞭打ちの上、奴隷送りでしょう」
……何なんだよ。どいつもこいつも人の尊厳を踏みにじりやがって。
ただ、ふらついただけ。それが罪? 処罰?
……ざけてんじゃねぇよ
怒りと理不尽さが、全身を貫く。
逆流した血液が左腕へと流れ込み、焼けるように熱を帯びる。
抑えきれない感情が身体の奥でうねり、腕が痙攣を始める。
周りの気圧が、次第に上昇していく。
その気配に、扉を開こうとしたヴァルターの手が──動きを止めた。
僅かにこちらを振り向いた、次の瞬間。
────ッ!
心臓と左腕が同時に跳ね上がり、鋭い閃光がヴァルターへと襲いかかった。
魔力が波紋のように空気を揺らし、訓練用ダミーが激しい爆発とともに吹き飛ぶ。
高窓が打ち砕かれ、砕けた硝子の粒子が冷たい光を帯びて宙を舞った。
煙と粉塵で白く霞むその奥に、ヴァルターの姿があった。
僅かに上げた顎。細めた瞳。
彼の掲げた左手に吸い寄せられるように、周囲の霞がゆっくりと吸収されていく。
「……ヴァルター?」
「……はい?」
声が震える。身体はもうボロボロだ。
正直、怖くて仕方ない。
それでも──
俺はよろめきながら立ち上がった。
真っ直ぐに彼を見据え、確かな覚悟で告げる。
「彼女は無罪だ」
息を整えながら、俺は続けた。
「……彼女の処罰を決めるのは、俺だ」
その言葉に、ヴァルターはさらに瞳を細め、ゆっくりと口角を上げた。
「休憩は撤回です。鍛錬を再開します」




