軽い命なんてない!
廊下を曲がり、俺たちは階段を下りた。
その先に控えた重厚な扉の前で、ヴァルが静かに片手をかざすと、両脇の従者が呼吸を合わせたかのように扉を開いた。
大きな広間の中央には、長大な食卓が鎮座し、灯台の炎がゆらゆらと揺らめいている。
柱には、俺の肩にあるものと同じ紋章が大きく刻まれており、壁沿いに武器や武具、戦利品のようなものが整然と飾られている。
食卓にはすでに三人が席に着き、それぞれの執事が隣に控え、主人たちの動きを見守っている。
先ほどヴァルから聞いた話を元に────
まず、一番手前に座っているのが六歳の妹、ミーナ。ドレスを着た彼女は、にこにこと笑顔を浮かべながらこちらを振り向いている。
その向かいの席で俯いているのが、十歳の弟、カイル。俺と同じコートを羽織っているが、彼もまた使用人と同様、怯えるように目を伏せ固まっている。
そして。
最奥よりわずか手前に鎮座している男──次期王位継承者である二十歳の第一子息、ガルディス。その背筋はピンと伸び、眼光は鋭く、この場にいる誰もが気圧されるほどの存在感を放っている。
ガルディスの向かい側、一席だけ空いた席が俺を呼んでいる。
……絶対あそこだよぉ。
ナプキンまできちんと準備された席なんて……他にないもん。
え……あの人の前とか、普通に無理なんですが。
胃が縮み上がって、食べ物も喉通らないよ?
進め、と言わんばかりの圧を後ろから感じ、ヴァルに押されるように自分の席まで歩み寄る。
腰を下ろすと同時に、前から、地を這うような声が飛んできた。
「ギル、随分待たせてくれたな」
「…………」
あの……この人、怖いんですけど。
この場合、なんて答えれば?
斜め後ろに控えるヴァルに、縋るような視線を向ける。
顎を僅かにひいたまま、ヴァルが即座に返答する。
「一刻前、後頭部を強打され、ギルバート殿下は自室にてご休息中でございました。回復魔術は展開しておりますが、殿下ご自身の失態に鑑み、完全にはかけず、軽度にとどめております。ガルディス殿下をお待たせいたしまして、誠に申し訳ございません」
ガルディスは鼻で笑い、鋭い双眼を俺に向け、軽く顔を傾けた。
「ギルらしいな」
次にガルディスは、その眼光を隣に座るカイルに向けた。
「もし、こいつであれば、即刻、処罰を言い渡していたところだ」
視線を感じたカイルは、かすかに肩を震わせ、さらに背中を縮こまらせた。
「ああ、もう一つ、ギル。お前が傷を負った場所の清掃員は、すでに牢に入れてある。安心しろ」
……え、なに、どういうこと?
……牢屋なんて大袈裟すぎない?
俺が眉をひそめていると、女性の使用人が食事を運んできた。
かすかに震える手で、湯気を立てるスープ皿を抱えている。
彼女がテーブルに近づいた時、その体勢がわずかに崩れ、揺れたスープが一滴、俺の裾へとかかった。
「申し訳ございません!」
即座に別の使用人が駆け寄り、布巾で裾を拭っていく。
……ここの奴ら、どんだけビビってんだよ。別に大したことじゃないでしょ。
ただ、気になるのは目の前に座るガルディスの不気味な笑い声。
その嘲笑は、静寂に包まれた部屋で、怯える彼女だけに向けられている。
ここ、笑うとこですか?
あー、この男、無理です。生理的にほんと無理。
今も怯えて立ち尽くす彼女に、俺は怖がらせないように穏やかな声をかけた。
「これくらい、大丈夫だよ。洗えば取れる」
その時、部屋の空気が一段と重く沈んだ気配がした。
「……どうした、ギル」
前方からガルディスの低い声が響く。
────その直後、何かが俺の頬を掠めた。
咄嗟に触れた指先が、赤く染まる。
同時に、彼女が喉を押さえて、苦しげに呻き始めた。
「ゔっ……」
なに……が起きた?
わけがわからず、慌てて周囲に視線を走らせる。
カイルは相変わらず俯いているし、ミーナは運ばれたスープに口をつけ、執事に慌てて止められている。
ヴァルを見上げても、彼は無表情に遠くを見つめたまま微動だにしなかった。
ガルディスは、スープを零した使用人を見据え、何事かを呟いている。
ついに彼女は、両手で喉元を押さえたまま、膝から崩れ落ちた。唇の色が瞬く間に紫に染まり、呼吸は乱れ、肩が小刻みに揺れている。
ちょっ……待ってよ。このままじゃ、彼女ほんとに死ぬって……
『ォブスク……モゥタリス……』
ガルディスの囁きは、途切れることなく続いている。
その時、ようやく気づく────
掲げた彼の手元が、淡い光を放っていることに。
どういう原理かなんて知らねぇ。
けど、嫌でもわかる。
──彼女を殺そうとしているのはガルディスだ。
今もなお、彼女は死を前に呻きながら、もがき続けている。
何してんだよ……。
誰か止めろよ……。
……なんで誰も動かねぇんだよ。
やめろよ、やめろ……やめろ……もう、やめろっ!
「────やめろっ!!」
立ち上がった瞬間、俺の左腕に焼けるような熱が走った。
底知れぬ力が体内から渦巻き、無意識に腕が跳ね上がる。
迸った光の矢が閃光の如く、ガルディス目掛けて放たれた。
────その瞬間、ヴァルは俺の視界から気配を消した。
気付いた時には、彼はすでにガルディスの脇へ滑り込み、その前に身を差し入れていた。光の矢は、彼の腕によって力強く弾かれ、宙へと消えていく。
その背後で、ガルディスの執事が俺へ狙いを定め、片手を銃のように構えていた。
……今の、俺が?
信じられず、思わず目を見開く。
……腕に宿った熱、迸った光────
「……ギルバート。貴様、私に何をした?」
二人の執事の向こうから、ドスの利いた声が死刑宣告のように鳴り響く。
瞬時に、ヴァルはガルディスの前に片膝をつき、頭を垂れた。片手を膝に添え、もう片方の手を背へ回している。
「ガルディス殿下……誠に申し訳ございません……!ギルバート殿下は先の負傷により、いささか混乱しておられます。罰はすべて、私が請け負います」
鬼気迫った彼の姿に、その場が一気に凍りつく。
ヴァルを見下ろし、ガルディスは口角を上げた。
「お前が王の御前以外で片膝をつくとは珍しいな、ヴァルター卿。……まあ、いい。ギルは私の可愛い弟だ。兄に楯突くようになったその勇気、成長と捉えよう」
状況が掴めず困惑する俺に、ガルディスはその瞳を向けた。
「いいか、ギル。今日のところはお前の大好きな“ヴァル”に免じて許してやる」
しんと張り詰めた静寂の中、解放された彼女の、むせるような咳だけが響く。
その音をかき消すように、ガルディスが言葉を重ねる。
「だが、次はない。次期王位を継ぐこの私にかすり傷でもつけようものなら、その命ひとつでは償えぬ。肝に銘じておけ」
片膝をついたまま、姿勢を崩さずに敬意を示すヴァルに向かい、表情を消したガルディスの声が落ちる。
「こいつの教育を怠るな、ヴァルター」
「御意」
──パン、パン──
不意に手打ちの音が響く。いつの間に現れたのか、背筋を伸ばした凛々しい女性が王座の隣に立っていた。
「兄弟喧嘩はそのくらいになさい。これより、国王陛下がお見えになります」
その深紫のドレスは床を滑るように広がり、肩から腕に施された金の刺繍が光を淡く反射する。きっちりと編み込まれた髪。その上で控えめに輝くティアラ。
なんともわかりやすい──彼女が俺の母上、リリアーナ皇后だ。
皇后陛下の合図で、重厚な扉がゆっくりと開く──悲鳴のように軋む音が、これから現れる人物の恐ろしさを物語っていた。




