恐れられる王子
意識を取り戻した時、瞼の裏には闇が陰っていた。
ここは?
鬼が蔓延る地獄か、はたまた天国と地獄を隔てる狭間の、閻魔様の巣窟か……。
ただ、明らかなのは、俺の意識が確かにこの場所に存在すること。
俺、さっき死んだよな?
あんな高さから落ちれば、例えそこに運良く(運悪くか?)下水が流れていたとしても、生きていられる可能性なんて、ほとんどない。
俺が思考に耽っていると──
不意に俺の耳に、見知らぬ人物の声が聞こえてきた。
「……ギルバート様、ギル様」
その声を聞いた途端、後頭部に割れるような鈍痛が走った。
痛みに顔をしかめながら、おそるおそる瞼を開ける。
俺の視界に映るもの、それは天国とも地獄とも似つかない洋城の一室だった。
目の前には、燕尾服を着た30代前半くらいの男性が立っている。どう見ても執事なのに、胸元に並ぶ勲章と肩の紋章がまるで軍人のようだ。
白手袋をつけた手は腹の前で重ねられ、厳かではあるが、俺に敵意は向けられていない。
……まあ、見るからにわかる。こいつが味方なら普通に強い。
「ギルバート様……お目覚めになられましたか?」
はて?ギルバート?何、その貴族みたいな名前。
周囲を見回すも、俺以外には誰もいない。
気品高そうな彼が、真っすぐに俺を見つめている。
やっぱり、それ、俺に言ってます?
「えっと……誰それ?」
僅かに緊張を解いたはずの彼の表情が、ヒヤリと凍りつく。
「何も……覚えておられないのですか?」
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執事男の名前は、ヴァルター・フォン・エーヴェルグライン。
ギルバート──つまり俺は、彼を『ヴァル』と呼んでいるらしい。
まず、ヴァルは、手鏡を俺のもとに持ってきた。
体を起こそうとする俺に、透かさず手を伸ばし、背中を支える。
お礼を告げ、銀の装飾が施された手鏡を掴み、自分の顔を映す。
わお!イケメン!……てか、誰だよ、これ。
俺、顔面偏差値50って自負してるんだよ?
真ん中も真ん中。思いっきり中レベル。
それが、この顔?
落ちた衝撃でイケメンに!?
顔が潰れて、劇的ビフォーアフター!?
……ってわけではないらしい。
ヴァル曰く、ここは地球ではない。
魔族と人間が共存する世界──『ゼルバロス』
これが異世界転生ってやつ?
マジでこんなことあるんだな。
ただ、転生……したここ。ついてるのか、いないのか。俺がやってきた先、それは────魔王城。
そして、俺は、その魔王の第二子息であるらしい。
名前はギルバート・フォン・ノクスフィールド、十五歳。
このギルバートという男、先ほど清掃したての廊下で足を滑らせ、頭を強打したんだと。
だから、こんなに頭が痛いのだ──。
なんかドジすぎない?
恥ずかしっ。俺じゃないけど、恥ずかしっ。
穴があったら入りたい。
……いや、穴があったから落ちたのか。
まあ、俺も人のこと言える立場じゃなかったわ。
とりあえず、これから夕餉の時間とのことなので、俺はベッド端に座り、揃えられたブーツを履いた。
立ち上がった瞬間、ふわりと揺れる視界。
俺の肩に、ヴァルがすっと手を添える。
しばらくすると視界が安定してきた。
改めて自分の服装を確認する。
黒のシャツに黒ベスト。膝下までのダークなブーツ。
ヴァルが差し出したブラックロングコートに身を包む。裏地に施された金の刺繍が気品を示し、肩の魔族の紋章が王族としての威厳を主張している。
なるほどね、The悪役だ。
「もう大丈夫……一人で歩ける」
今日の夕餉は自室でも良い、とのことだったが、早くこの目で、俺が置かれた状況を見ておきたかった。
ヴァルが開いた扉の向こうには、長い廊下が続いていた。多くの人の往来はあるのに、異様なほどの静けさが広がっている。
彼の背中を追うように、慎重な足取りでついて行く。
忙しなく行き交う使用人が俺を見るなり、さっと道を開けピタリと止まって、頭を下げる。
──皆の者、苦しゅうない、面を上げい。
調子に乗って、胸を張ってはみたものの、こうも仰々しくされるとなんだか落ち着かない。
というのも、俺に向けられるそれは、敬意と呼ぶには皆、余りにも怯えきっているからだ。震えている者までいる。
顔色を失っている使用人の一人が、微かに身体をふらつかせた。
「大丈夫?」
俺が咄嗟に手を伸ばすと、すぐに別の使用人が駆け寄ってきた。深く頭を垂れ、動きを止める。
「申し訳ございません!この者、即刻下げます!」
男はさらに青褪めた使用人の腕を掴み、逃げるようにその場から連れ出した。
廊下はまた、水を打ったように静まり返った。
は?なに?俺、大丈夫って聞いただけだよ?
「ギルバート様……どうか、お控えください」
ヴァルが姿勢を崩さぬまま、僅かに振り向き、言葉を落とす。
床を見つめたまま、マネキンのように動かない使用人たち。
「…………?」
誰一人として顔を上げようともしない彼らに、居心地の悪さを感じつつ、俺は小さく背中を丸めて廊下の真ん中を進んで行った。




