遍在する嫌がる彼氏
新入社員は全滅だった。辺り一帯は焼け野原であり、希望は残されていなかった。僕が生まれてから三十九年も経たないうちに景色が様変わりしてしまったようだ。予徴はあった。うまくいくためのルーティーンすらうまくいかず、打席に立てば立つほど己の無力さ、そして一回ヒットを打ったところでみじめな率を残すだけで上がり目なんてないんだという現実が痛切に感じられた。が、そうやって自嘲できるような凡ヒットにすら恵まれなかった。
「すみません。彼氏がいやがるんで」
ありとあらゆる場所に恋人がほかの男とふたりで飲むのを嫌がる彼氏が存在する裏腹、僕だけが存在していない気がする。
諦めなければ活路は開ける、と信じる。夏も終わりつつある時期、中途社員がやってきた。まだ二十代半ばの彼女には彼氏がいない、らしい。
定時を迎えた途端、あの部署もこの部署も社員も派遣も業務委託もアルバイトも詰めこんでぎゅうぎゅうになったワンフロアそのものが命を宿したかのように脈動しはじめ、一挙に注がれたひとびとの関心が二つしかない出入り口に緊張をもたらしていた。僕の左隣に座っていた金子さんは……なぜか彼女の席は僕より上座に配置されていた……席を立ちながらノートパソコンの電源をびゅっと落とし、ぱたんとカバーを閉じた。その、中途で入ってきたばかりなのに定時ですぐに帰るんだ、と失望させる隙も与えないほど自然な所作に、僕は思わず顔をあげた。頭の後ろの下のほうでくしゃっとまとめられた柔らかそうな茶髪、夏を引きずっている襟のない半袖の白シャツに腰の位置の高さを見せつけるゆったりした灰色の幅広パンツ。靴はぺたん……そり残された頬の産毛の光の当たり方が変わるとき、ふわりとお花や石けんのよい香りがすることはなかった。無臭というより嫌がる彼氏のいない殺風景なにおいがした。
どこを切り取っても貯金より投資を重視していそうな女性。
僕は預けた上半身の重みだけで背もたれを極限まで倒し、今にも去ろうとしている金子さんの行く手をさえぎった。
彼女はいつものピンと張った背筋のまま硬直し、避けようと思えば避けられる路上の野生動物をそのまま轢き殺しそうな眼光でこちらを見下ろした。
「ああ、お疲れ様です」
「あのさ、よかったら今から飲みに行かない? すぐ近くの店なんだけどクーポンでハイボールが飲み放題なのよ。しかもイカの唐揚げがついてきて……」
僕はジャケットの内ポケットから財布を取り出して中に入れていた紙クーポンを見せようとした。バリバリバリバリ。しかし彼女がすっと手を伸ばして制止したので「見るまでもないか」とバリバリした財布のふたをぺたぺたとくっつけて懐にしまった。
「二名様から使えるから」
「はあ」
「前からお喋りできたらいいなって思ってたのよ」
「そうですか」
一言目に予定があるとも言わないし、二言目に彼氏が嫌がるとも言わない。僕はこの時点で背もたれを小刻みに弾ませていた。会話が続いている。言葉の応酬が、ラリーが。目の前にいる人間が僕の誘いについて考えあぐねている。彼女の意識のなかに僕がいる。遍在する彼氏よりは少なくても、確実に、いる。
にこり。彼女が笑った。にたり。僕も笑った。
「あの~~~いるではないですか」
「いるって、何が」
「どのような存在かは道義を重んじる私としましては簡潔に申し上げることができないのですが、いるではないですか。誘いを断られたことで逆上し、相手を面罵したり周囲に虚偽の風説を流布したり誹謗中傷したり付け狙ったり殺害したりするような、ふつうの範疇には当てはまらない方が。無論、穴田さんは人を傷つけるような防衛機制を働かせないと信じておりますが……思いがけない反応が返ってきたとたんに他責思考に陥るような、存在そのものがマイナスの、生きているだけで迷惑な、周囲から嫌われて馬鹿にされて疎外されて当然の邪悪な化け物、でしたら申し出を断るだけでも躊躇しますので」
怒濤の奔流にのまれて「い、いや、僕はそういうのじゃないから」と口をパクパクすると彼女はわざとらしい安堵の様子を見せて「よかった~~~~~[……]~~~~~」と語尾を極限まで伸ばした。
「よかった、よかったですなあ。穴田さんが自殺しなくてもよい人間で。飲みですか? 絶対にイヤです。二度と誘わないでください」
うれしそうに「おつで~~す」とこちらに手を振ってサッと退勤する彼女の背を椅子から立って棒のように見送っていると、その横を通り抜けようとした新入社員の古川くんが椅子の脚に引っかかって前のめりになった。彼はなめらかに無理のない体勢に戻り、じゃまな僕の椅子をデスクの下にそっと体の側面で押しやって「す」と去ろうとした。が、僕は引き留めるようにすがるように誰でもいいから飲みに行かなくてもいいから今この瞬間だけでもそばで一緒にいてほしいとしがみつくように、彼の肩に手をかける。
「お疲れ! あのさ、よかったら今から飲みに行かない? すぐ近くの店なんだけどクーポンでハイボールが飲み放題なのよ。しかもイカの唐揚げがついてきて……」
「すみません。彼氏がいやがるんで」
僕は振り返りもしない無防備な彼の首まで腕を伸ばして勢いよく引き倒すように尻もちをついた彼に馬乗りになるように清潔感のある端正な顔面に固めた拳を振るうように僕のだか彼のだかわからない血が飛び散るなかで歯を折り鼻を砕き眼を陥没させるように彼の涎か髄液か涙かがこぼれるのも無視して脾臓を破裂させるように泣きわめく女も羽交い締めにしてくる男も傍観者も上長も殴って殴って全部みんなすべて破壊しなかった。




