大学生編(完結)
――葉山鹿乃子の初恋は、幼稚園児の頃。相手は坂上馨くんという。
ひまわり幼稚園では滑り台のうえの女帝として君臨し、続くかもめ第一小学校では児童会長として民主制を敷き、さらにひよどり中学校では恋に生きる少女として大いなる迷走をしたのち、鹿乃子は幼馴染の馨と付き合うことになった。
めじろ高校での三年間は、鹿乃子にとっては穏やかで満ち足りた時間だった。何しろ、大好きな馨と同じ高校に通い、教室や廊下で顔を合わせたり、毎日ではなくても一緒に登下校ができたのだ。
そして現在。葉山鹿乃子、二十歳。
人生において、もっとも大きな壁が立ちはだかっている。
「かのちゃん、今上がり?」
バイト先のベトナム料理店の先輩に声をかけられ、「はい、お先です!」と鹿乃子は元気よく返事をした。
高校生の頃は左右で三つ編みにしていた髪は、今はセミロングにして栗色に染めている。髪をまとめてヘルメットをかぶると、駐輪場に止めていたスクーターのエンジンをかけた。
三月のまだ冬の気配が残ったつめたい風が身体を切る。
鹿乃子の家は、最寄り駅からバスで一時間弱かかる。高校時代は、それでもたらたらバスに乗っていたが、大学に入学してバイトで資金を貯めると、鹿乃子はすぐに原付の免許を取った。
そして、まるっとしたフォルムのかわいい空色のスクーターを買った。
これでバイト先から時短で家に帰れる。鹿乃子はほくほくした。
「馨くん、ただいまー!」
家の駐輪スペースにスクーターを止めると、鹿乃子は葉山家ではなく、百歩ほど先にある坂上家のほうに向かった。先にメッセージを送っていたので、玄関には外灯がともっている。鍵は開いていた。勢いよくガラス戸をあけると、台所のほうから「おかえり」という声が返る。馨である。
「かの、言ってた時間より早くない?」
「馨くんのごはんが食べれるというから、道路をかっ飛ばしました!」
「ごはんは逃げないと思うけど……」
「もうちがうよ、わたしの彼氏に早く会いたかったんだよ!」
ヘルメットを置くと、鹿乃子は台所でお鍋をみている馨に後ろから飛びついた。
大型犬がじゃれつくみたいにぐりぐり背中に頭を押しつけていると、「バイト、お疲れさま」とヘルメットをかぶっていたせいでぺたんこになった髪をちょっと撫でられる。馨からは、干したてのお布団みたいなよい香りがする。ずっと顔をうずめたくなる香りだ。
後ろから馨のおなかに腕を回して、顔だけをのぞかせた。
「今日の馨くんごはんは何ですか?」
「豚の角煮と……林檎が入ってるサラダかな?」
「ふふっ、林檎が入ってるんだ」
ここでこじゃれたカタカナ名のサラダにならないところが馨のよいところだ。
一度身体を離すと、鹿乃子は手洗いを済ませて、配膳のほうのお手伝いをする。
今日は馨のおかあさんは定期的な地域の集まりに出ていて、夕飯もそこで済ませてくるらしい。そうすると、馨はひとりで夕飯をとることになるので、鹿乃子は都合がつく限り一緒にごはんを食べるようにしている。親には「今日は馨くんちでごはんを食べます!」と朝のうちに言ってある。
神社を営んでいることもあり、坂上家は昔ながらの平屋の和風建築だ。
こたつ台のうえに豚の角煮と、林檎が入ったシンプルなレタスのサラダ、きんぴらごぼう、ナスとお揚げの味噌汁が並ぶ。
席につくと、手を合わせていただきますをした。
幼稚園から高校までずっと一緒だった鹿乃子と馨だが、大学は別々の学校に進んだ。
鹿乃子は外語大の英語学科、馨は福祉系の大学にそれぞれ通っている。
馨はてっきり神学部がある大学で神職の資格を取るとばかり思っていたのだが、それはのちのち養成所に通うことにしてやめたそうだ。
馨のおかあさんは馨に、神さまのことはそのうち教えるから、まずは社会を見てきなさいと言った。馨は近所のおじいちゃんやおばあちゃんにかわいがられて育ったので、地域の福祉施設で働けるような資格を取るのだと思う。
はじめ、進路が別々になりそうだったとき、鹿乃子はうろたえた。
――わたしも馨くんと同じ大学に行く!
と言いかけたが、馨が学びたい方向は、鹿乃子のそれとはちがう気がする。
でも、離れたくない。……離れたくないが、鹿乃子の心にいまだわずかばかり残っている女帝の矜持がそれをゆるさない。馨のことは大好きだけど、馨のくっつき虫になるのはかっこわるいなあ、と思ってしまう。
結局、鹿乃子は馨とは別の進路を選んだ。
あれほど離れたくない!と思っていたのに、いざ別の大学に通うと、ゼミに、ショートステイに、バイトにダンスサークルにといそしんでいる。
もともと好奇心旺盛で、目の前のことに全力で取り組む性格だ。それと学校が別々だと、頻繁にメッセージをやりとりしたり、外で待ち合わせをしてデートをしたりといった胸きゅんイベントが発生することにもきづいた。これもこれでわるくない、と鹿乃子は満足した。
「ダンスサークル、最近何ダンスしてるの?」
ごはんを食べ終えると、馨はみかんの盛られた籠とほうじ茶を持って、こたつ布団に入ってきた。
「アルゼンチンタンゴ!」
「アルゼンチン……」
馨はいまひとつ想像がつかなかったようだ。
スマホを取り出して、アルゼンチンタンゴの動画を見せる。くっつきあって見ていると、広告が入ったはずみに目が合った。ふわっとよそ風みたいなくちづけが落ちる。鹿乃子は声を立ててわらった。ちょっと外していた頃もかわいかったけど、わたしの彼氏、キスがとってもうまくなった! かわいいし、すてきだ。
喜びの余韻に浸りつつ、こたつ台に置いたノートパソコンをひらいて、ゼミの課題をはじめる。三分くらいは機嫌よく文字を打ちこんでいたが、途中で鹿乃子ははっとなった。
(しまった! またやってしまった!)
そうなのだ。葉山鹿乃子、二十歳。
人生において、今、もっとも大きな壁に直面している。
幼馴染の馨と付き合いはじめて早五年。
――進んでいないのだ。
キスの先に、進んでいないのだ。
これはゆゆしき事態である。
たいへん、ゆゆしき事態である!
いつもならば、鹿乃子は即時状況を改善するべく、目標設定とそこに至るロードマップを作成し、着実に事案を解決するべく行動を起こしただろう。
しかしだ。しかしなのだ。
馨と鹿乃子は、徒歩百歩くらいの近所に住んでいて――しかも親と同居している。
幼馴染というポテンシャルが、ここに来て巨大なハードルに変わるとは。
(外に出かけた帰りに誘うことも、できなくはないけど……)
――でも無理!!
心の中で鹿乃子はじたばたとした。
鹿乃子は周りと比べても、わりと積極的なほうの女の子だと思う。
自分から馨に好きだと伝えたし、手をつなぐのだって自分から勇気を出して、キスはしたかったから、したい!と馨に言った。でも、そんな鹿乃子にも言えることと言えないことはある。もし誘いをかけて、馨から芳しい反応が返らなかったら……あるいは嫌だと言われてしまったら……考えただけでおなかが痛くなりそうだ。
(馨くんにはきらわれたくない……)
課題をやっていたはずが、途中から煩悩が入り混じって、キーボードを打つ手が止まってしまった。鹿乃子が停止した配膳ロボットみたいに動かなくなったからか、「……かの?」と対面で春のおまつり用の造花を折っていた馨が顔をのぞきこんだ。
「なんか疲れてる?」
大きな手がそっと熱を測るように額にあてられる。わずかに色素が淡い、澄んだ眸がじっと自分を見ている。このまま、心の奥底までのぞかれてしまいそうだ。奥底というか――この煩悩が。
「わーーーーーーっ!?!?」
混乱して鹿乃子は叫んだ。
さっきまでは心の中でじたばたしたり、悶えたりしていたが、額に馨の手をあてられるなり、何かのスイッチが入ったみたいに咽喉から叫び声が出てきた。馨のほうは驚いたようすで、「えっ」と手を引く。
「ど、どうしたの?」
「ごめん、無理っ!」
「ええ?」
鹿乃子はノートパソコンをばたんと閉じてすばやく荷物をまとめると、こたつから立ち上がった。あっけに取られている馨に「帰る!」と宣言する。
返事は聞かなかった。防寒着とヘルメットを取って脱兎のごとく廊下を駆けたあと、玄関のガラス戸のまえで一度足を止めた。
「馨くんはひとつも悪くないからね!」
そこだけ念を押しておき、坂上家から飛び出た。
*…*…*
「ということがあったんだ……」
ダンス練習前のストレッチをしつつ、鹿乃子は友人の水原朋に言った。
朋は唯一、高校から同じ大学に行った仲間だ。英語学科の鹿乃子に対し、朋はスペイン語学科に所属しており、ダンスサークルに誘ってきたのも彼女だ。
結果、鹿乃子は英語学科で学びつつ、アルゼンチンタンゴを踊り、ベトナム料理店でバイトをするという国際色豊かな大学生活を送っている。
「まあ幼馴染だと、切り替えが難しいみたいな話は聞くかもね」
「わたしたちはそんな通例に囚われない、とても仲良しカップルだと思います!」
「はいはい、ごちそうさま。なら、もう坂上くんにぶっちゃけちゃったら?」
「い、言えないよー。わたしにも押せるところと押せないところがあるんだよ」
前屈姿勢のまま、鹿乃子はしおしおと肩を落とした。
今日は自主練の日なので、鹿乃子と朋以外にサークルメンバーはいない。
学校で借りたスタジオ室で、だらだらしゃべりながらストレッチをしている。
「それに馨くんは、由緒正しい神社の跡取りだから……何かあるのかもしれないじゃん。婚前交渉はしちゃいけない戒律とかさ」
「やっぱり聞かないとわからないやつじゃん」
「そうなんだけど……」
「どちらにしても、かのちゃん、七月になったら一年留学するんでしょ。もやもやしたまま別れないほうがいいと思うよー」
「そうそれ! 馨くんと離れるのが今からすごくさみしい! どうしよう! 毎朝おはようのメッセージをして、毎晩オンライン通話したら怒るかな? オーストラリアは季節はちがうけど、時差はあまりないんだ!」
鹿乃子はぱっと身を起こして、さみしい気持ちを訴えた。
英語学科に所属する鹿乃子は、三年次、オーストラリアの大学に一年間留学するプログラムに参加することにしたのだ。全員参加が強制されるものではないが、せっかくの機会だと手を挙げたら、書類選考と面接のすえ、留学費用が半分免除される特待生に選ばれた。今は三月なのでまだ先の話だが、すでにときどき、さみしさの波がこみあげる。
「そんなにさみしがるなら、手を挙げなければよかったじゃん」
「でも、挑戦してみたくはあったし! もちろんさみしい気持ちはあるけど!」
高校まではずっと同じ学校だったから、いつだって探せば、教室か、校舎裏の花壇の片隅に馨はいた。けれど、大学に入ったとたん、メッセージのやり取りをしなければ今馨がどこで何をしているのかわからないし、このうえ留学したら、海の向こうの季節が真逆のエアーズロックとコアラの国だ。小学生の頃、一緒に登校するしないで言い合っていたのが微笑ましくて、ちょっぴり切ない。
鹿乃子はスタジオの鏡に映った自分のすがたをあらためて見つめた。
思えば、滑り台のうえでえらぶっていた園児から大きくなったものだ。
二十歳だ。選挙権も、原付免許も持っているし、お酒ものめる。
「馨くんは子どもの頃からずっとブレないんだよ」
半分ひとりごとみたいに鹿乃子は鏡に向けて言った。
「ひまわり幼稚園ペリカン組の馨くんだった頃から、胸の真ん中にちゃんと馨くんだけの物差しがあって、誰に何を言われても、どう思われても、ぜんぜんブレない。結局、小中高、ずっと花壇のお世話係をしてたしね。神社の境内の掃除も、いやがっているのを見たことない。馨くんは近所のおじいちゃんとかおばあちゃんにかわいがられているけど、それは馨くんが相手のことを一度だって雑に扱わないからだよ。わたしの彼氏は、すごくすごくかっこいいひとなんだよ。わたしは何でもすぐに手を出してすぐに飽きちゃうけど、馨くんみたいにかっこいいひとになりたいんだ……」
話しきったあと、ストレッチをしている朋を振り返る。
「……ごちそうさま?」
自分のほうから尋ねると、「もう満腹」とにまにま笑われた。
お気に入りの空色のスクーターは、今日は整備に出している。
大学からの帰り道、久しぶりに高校時代に使っていたバスに乗った。鹿乃子と馨の家までは、直行便がないときはバスを乗り継ぐ必要があって、高校時代はよく中継地点のバス待合所でベンチに座ってふたりでバスを待ったものだ。今は学校が別々だし、ひとりで待合所にいても楽しくないから、バスはあまり使わない。
後方の席に座ってしばらくすると、にわかに窓ガラスに水滴がつきはじめた。
雨が降ってきたのだ。
鞄を探って、鹿乃子は顔をしかめた。折りたたみ傘を家に忘れてきていた。
(なんか今日ツイてないなー)
窓ガラスにこつりと頭をあてて、まあいいか、と思い直す。
濡れないように走ればいい。
昔から走るのは得意だ。雨に追いつかれないように速く走ればいい……。
やや投げやりに思っていると、鞄の中の端末がちいさく振動した。
ケースをひらくと、馨からメッセージが届いている。
――傘持ってる?
薄闇にひかったそのシンプルなメッセージを見たとき、なぜか鼻の奥がつんとした。
この世界で、雨が降ったら、わたしの傘を心配してくれるひとがいる。
両親と、あと馨くん。
それはなんてすごいことなのだろう。
奇跡みたいに……きっとわたしにとってはすごいことだ。
スマホ画面に指を滑らせてから、鹿乃子はちょっと迷った。
昔から誰が相手でも、
――だいじょうぶ!
と恰好をつけてしまう性格なのだ。滑り台のうえの女帝の名残か。
だって、傘持ってないって言ったら、わたしのやさしい彼氏は雨の中迎えにきてくれそうだし。
惰性のように、だいじょうぶまで打ったあと、文字を一度消去した。
ふいに、わたしはこのひとに、傘がないと訴えたい!と強く思った。
このささやかで、取るに足らない、だけどかなしい気持ちを、このひとには余さず掬い上げてほしい。そして、もし馨くんが傘を忘れたときはわたしが迎えにいってあげたい!と同じくらい強く思った。たとえもう同じ校舎にはいられなくても、海の向こうのエアーズロックからであっても。
――ごめん、傘忘れた。迎えに来て!
メッセージを送ると、すぐに既読がつき、
――今どこ?
ぱっとまた画面が輝き、返信があった。
鹿乃子はバスの前方に表示された次の駅名を確かめる。ふたりでよく並んで座ったバス待合所までは、あと三十分ほどのはずだ。
「かの」
バスを降りると、すでに馨はバス待合所で待っていた。
馨がいつも使っている長傘と、鹿乃子用にもう一本傘を持っている。室内着っぽいジャージのうえに雨具代わりのウィンドブレーカーを羽織っていた。
「馨くん! 傘ありがとう」
「ううん」
なんということもないようすで、馨は傘を鹿乃子に渡した。
「今日天気予報晴れだったのに、急に降ったね」
「走って帰ろうと思ってたから、たすかったよ……」
「そんな強行突破しなくても」
乗り継ぎのバスが来るまではまだ時間がかかりそうなので、鹿乃子は馨の隣に腰を下ろした。木造のバス待合所は、やはり今日も鹿乃子と馨以外ひとがおらず、雨の薄闇に豆電球がぽつっとひとつ灯っている。塗装の剥がれた屋根に桜の枝がかかっていて、よく見ると蕾がわずかに膨らんでいた。もう春が近いのだ。
「……何かあった?」
馨は降りしきる雨から鹿乃子に目を戻した。
「え?」
「このあいだうちに来たとき、かの、へんなかんじだったから」
「ああー、そうだよね……あれはへんだったよね!」
奇声を上げたすえ、急に家から飛び出ていったのだから、どう見ても奇行である。
馨にどう説明しよう。適当にごまかすこともできなくはないけれど……。
迷ったすえ、鹿乃子は腹をくくった。
――馨くんは雨の中、わたしを迎えにきてくれた。
わたしの傘の心配をしてくれた。
わたしの大好きなひとは、かっこよくて、すてきで、そしてわたしが大好き!
(そうだ、自信を持つんだ。何度でも勇気を出すんだ!)
弱気になっていた気持ちを振り払うと、鹿乃子はすこし背伸びをして、馨にくちづけた。
急にされると思っていなかったようで、馨は瞬きをする。
しっかりと間近から馨の目を見た。
「わたしは馨くんが大好き! 世界でいちばん大好き!」
鹿乃子は雨音に負けない大きな声で言った。
幸いにもここは田舎で、周りにひとなんかいない。
中高と放送委員をしていたから発声と活舌には自信がある。
「そして、馨くんはわたしが好き!」
経験と実績に基づく確度高い推測である。
「わたしは馨くんとキスの先にも進みたいけど、馨くんは嫌!?」
「えっ」
途中まで鹿乃子の声量に圧倒されているふうだった馨だが、遅れていわんとしていることを理解したらしく、わずかな光源でもわかるくらい赤くなった。
「もし嫌だったり、家の事情でいかんともしがたい戒律があるなら言ってほしい!」
「い、いやじゃないよ」
びっくりしたようすで馨は首を横に振った。
「いやじゃないけど、ただ……」
「ただ?」
訊き返した鹿乃子に、馨は困ったような表情をする。どう伝えようか悩んでいるのか、首に手をあて、足元のあたりに目を落とした。
「ただ、昔、かののばあちゃんと約束してて……」
「約束? なんの?」
「かののばあちゃんが死んで半年くらい経ったときかな……。朝、神前に供える向日葵を切っていたら、かののばあちゃんが気まぐれに現れたんだ」
そういえば、馨は子どもの頃から、幽霊とかあやかしと呼ばれるすこしふしぎなものたちを見る。
ひな壇のまえで、馨が桃の花を供えたとたん、十二単のうつくしい女性がふわりと現れたことを鹿乃子は思い出した。あれ以来、鹿乃子はああいったものを見ていないが、馨はときどき、ふしぎなものたちから聴いた話をすることがある。
(おばあちゃんも、会いに来てたんだ……)
「それで、かのと付き合いだしたことを話したら、すごく喜んでくれて……。そのとき、ばあちゃん、『結婚するまでは節度あるお付き合いをするのよ』って言ってたから、うんって約束したのに、結局あまり……節度あるお付き合いができてなくて……。キスもいっぱいしちゃうし……。反省してる……」
馨はしょんぼりと肩を落とした。
対する鹿乃子のほうは別の衝撃を受けていた。
――そっち!?
てっきり鹿乃子のことをそういう目で見られないとか、赤ちゃんの頃から一緒だったからとか、そういう哀しい話をされるのかと恐れていた。ワンチャン、大事すぎて手を出さないやつかもしれないとも思っていた。
鹿乃子の祖母が亡くなったのは中学三年生のときだから、五年前か。それからずっと……もういなくなったひととの約束を守ろうとしてくれていたのか。祖母と交わしたささやかな約束を大事にしてくれていたのか。
まるで春風に吹かれたみたいに、鹿乃子の胸にあたたかな気持ちが湧きあがる。
わたしが大好きになったひとはどうしてこんなにすてきなのだろう!
世界の隅々にまで自慢をしたい! 何か国語あったら足りる!?
「大丈夫だよ! おばあちゃんにはこれが現代の節度ですってわたし、言うし!」
あしたは月のお参りの日ではないが、さっそくお墓に足を運んで伝えてこようと鹿乃子は決意した。たぶん鹿乃子のおばあちゃんなら、あらそうなのね、とけろっとした顔でうなずきそうだ。
「ねえ、おばあちゃんとほかに何か約束した?」
これ以上、節度やらなにやら持ち出されると大変だ。
鹿乃子が尋ねると、「もう一個、約束はした」と馨はうなずいた。
「何?」
「……言ったほうがいい?」
「うん」
すこしばかりためらうそぶりを見せたが、馨はやがて背筋を伸ばしてベンチに座り直した。わずかに緊張した面持ちで、鹿乃子のほうをまっすぐ見つめてくる。
「『俺はかのをこの先ずっと大事にします』」
飛び込んできた言葉に、鹿乃子は目を大きくして、馨を見返した。
恥ずかしくなってきたのか、馨は所在なさそうに視線をそらして目を伏せる。
思わず膝のうえにあった馨の手を握っていた。緊張のためか、つめたく強張っている。鹿乃子はより一層強く手を握り込んだ。
「わたしも……馨くんをすごく大事にするよ」
「うん」
「この先もずっと、大事にする」
「……うん」
そのとき、ふいに鹿乃子は生まれたときから隣で昼寝をして、一緒にひまわり幼稚園に、かもめ第一小学校に、ひよどり中学校に、めじろ高校に通い、大学は別々で、でも昔よりずっと近くなった男の子の、心に触れた、と思った。やわらかな、まるい心の端に触れたと思った。
それは泣きたくなるような静かな感動を、何度でも鹿乃子に与えた。
「任せて!」
泣き出す代わりに、鹿乃子は自分の胸を叩いた。
「何しろわたしは天下無双の滑り台のうえの女帝だからね!」
「しかも、アルゼンチンタンゴが踊れる」
「弓矢も射れるし、英語もしゃべるよ!」
目を合わせたあと、ふたりでこらきれなくなってわらいだした。
雨はいつのまにか上がっていた。わらい声が雨粒みたいに濡れた大地に跳ねた。
ひとしきりわらいあったあと、馨は待合所のかたわらの草むらに腰を落とした。何かをすこし探すようにしたあと、ベンチに座る鹿乃子のほうに戻ってくる。
「かの、手出して」
「うん?」
深く考えずに右手を差し出すと、ちがったらしく、左手を取られた。
薬指にはめられたのは、シロツメクサをくるっと回してつくった指輪だ。
「葉山鹿乃子さん、いつかお金貯めたらほんものを渡すから、そうしたら、俺と結婚してください!」
「する! 絶対するよ!!」
秒で鹿乃子は返事をした。
湧きあがる喜びのあまり、溜めをつくるのを忘れてしまった。
眉をひらいて、薬指にはまったシロツメクサの指輪を胸に引き寄せる。端がほんのり薄紅に染まったシロツメクサの花が鹿乃子の薬指で咲いている。
わたし、今、なんてすてきな約束を交わしたのだろう。
うれしくなって、鹿乃子は馨に抱きついた。
「馨くん、大好き!!」
・
・
今はまだシロツメクサの指輪がほんものに代わるまで――
あと0歩。
《Fin》