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中学生編(後編)

 あの夢を見るのは、何度目になるのだろう。


 ――ないしょだよ。

 陽光に溶けるようにふわっと微笑み、六歳のかおるが人差し指を口元に立てる。

 ひな壇のそばに置かれた花瓶の中で、桃の花がみずみずしく咲き誇っている。


(桃の花……)


 夢の中の鹿乃子かのこは園児のすがたをしているものの、中身は中学生の鹿乃子だ。入学式の日に、すてきな恋をしよう!と決意して、ずっと運命のひとを探していた今の自分だ。

 鹿乃子はもし運命のひとに出会えたら、バックには花が舞うと信じていた。

 薔薇だろうか、日本風に桜だろうか。ツユクサやシロツメクサの可能性もあるから、見落とさないよう気を付けていないといけない。そう思って、注意を払いながら中学生活を送っていたというのに。


(あれがわたしの『花』だったの!?)


 瞼裏にくっきり焼き付いた桃の花。

 なんて可憐で、でも果敢げなのだろう……。


「――もう運命のひとに出会っていたの!? 園児のときに!?」


 叫んで、鹿乃子はベッドからがばっと身を起こした。

 朝である。

 爽やかなミントグリーンのカーテン越しに冬のやわらかな陽が射し込んでいる。

 この夢を見るのはもう何度目になるのだろう。

 

 ――わたしは馨くんのことが好きなんだ。


 中学二年生の夏に、ひょんなことから幼馴染の馨への恋を自覚してしまってから一年とすこし。

 夢の中であわあわ考えていたせいで起き抜けから若干疲れ気味になりつつ、鹿乃子は壁にかけられた紺のブレザーの制服を見た。


 中学三年生の冬。中学生活はもうすぐ終わりにちかづいている。

 中学一年生のあいだに相手を見つけて恋に落ち、中学二年生までに告白をして、中学三年生はすてきなお付き合いライフを送るという、入学したその日に定めた鹿乃子の壮大な計画は、折り返し地点で総崩れをしたまま、まもなく期限を迎えようとしている。進捗は遅れに遅れ、何ひとつ未達成のまま。

 これはゆゆしき事態である。

 たいへんゆゆしき事態である。

 これまでの鹿乃子であるならば、不死鳥のように奮起して、計画の立て直しと軌道修正を図っただろう。何しろ、幼稚園時代は滑り台のうえの女帝として君臨し、小学校時代は、児童会長として民主制を敷いてきた鹿乃子である。決断力と実行力には自信がある。

 

 しかし。しかしである。

 中学時代後半の鹿乃子は、まったくの腑抜けであった。


 恋を自覚して以来、馨と目を合わせるのがこわいのである。

 言葉を交わすのも不安でたまらないのである。


 廊下で遠くに馨のすがたを見つけただけで、即時Uターンを決め、脱兎のごとく逃げ出してしまう。交友関係が重ならないせいで、中学三年で同じクラスになっても鹿乃子と馨が教室内で言葉を交わすことはまれだったが、それでもどうしても会話をしないといけないときは、おろおろと視線がさまよい、自信がない子みたいにちいさな声でしゃべってしまう。

 園児時代は、滑り台のうえの女帝とまで言われた自分が。

 今は女帝の名は捨てたが、それでも中学時代は放送委員として、はきはきと全校生徒を相手に放送室からスピーチをしている自分が。

 馨のまえでは、ひとつもちゃんと話せないのである。


(馨くんのくせに! 馨くんのくせに!)


 八つ当たりのような気持ちで、馨くんなんて嫌い、と鹿乃子は思う。

 でも、次の瞬間には、やっぱり目が馨の背中を追っている。

 クラス内で取り立てて目立つわけではないが、中学生の三年のあいだに馨はぐんと背が伸びて、身体つきも男の子っぽくなって、鹿乃子はかっこよくなったと思っている。それに、クラスの誰よりも姿勢がいい。目の色が澄んでいて、騒がしくなくて、あと雨音のように落ち着いた声の響きも、ぜんぶいい。

 周りで馨に対してそんなことを言っている女子生徒にいまだ会ったことがないけれど、ひよどり中学校の男子たちの中で、馨がいちばんかっこいいと鹿乃子は思っている。

 そして――


 ――好きなひとは、いる。


 中学二年生の夏のあの日。

 好きなひとがいるのか尋ねた鹿乃子に、そう打ち明けた馨の言葉や表情を思い出しては、せつなく胸を痛めているのだ……。

 

「でもかのちゃん、馨くんが誰が好きなのかはそのとき聞かなかったの?」


 衝撃的な夏の日のすこしあと、鹿乃子が大好きな祖母が入院する病院にお見舞いに行くと、話を聞いた祖母がふしぎそうに尋ねた。

 外の暑さは増すばかりで、祖母のベッドのそばには向日葵が生けてあった。

 訊かなくても、鹿乃子にはすぐにわかった。馨が生けたものだ。

 鹿乃子の祖母は、元気な頃は朝の散歩が好きだったけれど、入院してからは調子がいいときに院内の庭を車椅子で回るくらいしかできなくなってしまったので、きっと馨が祖母のために持ってきたのだ。

 透きとおった淡いブルーの花瓶の中で、お日さまを集めたみたいな、明るい花が咲き誇っている。祖母は向日葵と同じ、爽やかなイエローのカーディガンを羽織っていた。


「だって、聞けないよー」


 鹿乃子は普段人前ではあまり見せない情けない顔をして、しょんぼりと俯いた。

 祖母は昔から聞き上手で、鹿乃子のどんな話にも穏やかに耳を傾けてくれる。


「馨くんは、わたしとちがって一途だもん。その子のこと、きっとずっと好きだったんだよ」

「そうねえ。小学五年生のときに、きらきら輝いているその子を見てどきどきしたときから、ずっと好きみたいねえ」

「待って! おばあちゃん、馨くんが誰が好きか知ってるの!?」


 前のめりになって鹿乃子は尋ねる。

 ベッドのうえで半身を起こした祖母は「うふふ、知ってるー」とくすくすわらっている。


「わたし、何を隠そう馨くんの恋のアドバイザーだもん」

「えっ、ええーっ! なんで教えてくれなかったの?」

「アドバイザーには相談者の秘密を守る義務があります」


 祖母は茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。

 まさか、幼馴染の鹿乃子ではなく祖母のほうに馨が恋愛相談をしているとは思わなかった。馨らしいといえばそうかもしれないけれど……。


「馨くんが好きな子は、とっても元気な女の子で、次々べつのことをするから、ずっと目で追ってしまうんですって」

「ふううううん」


 馨の好きな子の話を聞いてもべつに楽しくない。

 鹿乃子は口をへの字に曲げて、足をぶらぶらさせた。


「でも最近は、その子が誰かと恋をしたくて一生懸命だから、話を聞いていることしかできなかったんですって」

「えっ、馨くん、好きな子から恋愛相談されてるの!? ひどくない!?」


 憤慨して、鹿乃子は顔を上げた。

 馨からずっと想われているくせに、きづかないで恋愛相談をするとは、なんてひどい女子だ。一度顔を見てやりたい。そして馨の代わりに鹿乃子が文句を言ってやるのだ。それで、馨とその子がうまくいってしまったら、鹿乃子は心が萎れたようになるだろうけれど……。


「そうだけど、その子が一生懸命なのはわかるから、つい話を聞いてしまうそうよ」

「馨くんはおひとよしだなあ……」

「うふふ、そうねえ」


 祖母は楽しそうに鹿乃子の話を聞いている。一緒に住んでいたときより痩せてしまったが、目元に宿るひかりは春の精のようにやさしい。

 鹿乃子は急に泣きたくなった。

 祖母はいつまでこんなふうに鹿乃子の話を聞いてくれるのだろう。


「おばあちゃん、わたしね……。馨くんのことは好きだけど、馨くんの恋を応援する気持ちにはなれないんだ。だってきっと、その子よりもわたしのほうが馨くんのことずっと好きなのにって黒々とした気持ちが湧いちゃう……」


 足元に目を落として、鹿乃子はうなだれた。

 

「わたし、ぜんぜん馨くんみたいにやさしくなれないや」


 入学式の日、胸を希望いっぱいにふくらませて、恋をしよう!と奮起したのに、いざ恋をしたら、ひとつも楽しくない。馨に告白してもどうせ振られるし、その先のお付き合いにいけるわけがない。鹿乃子の計画は、相手も自分のことが好きであるという奇跡みたいな前提で成り立っていたのだ。

 こんなふうに自分だけが好きになるなんて思わなかった。

 ぜんぜん楽しくない。きらきらした気持ちにもならない。

 恋をしよう!なんて思わなければよかった……。


「かのちゃんは知っているかしら? 桃の花言葉」

「え? ううん……」

「じゃあ、今度調べてみるといいわ」


 花好きの祖母はうふふと得意げに微笑み、鹿乃子の手を握ってきた。


「ね、かのちゃん。おばあちゃん、かのちゃんにおまじないかけてあげるわね」

 

 祖母の両手は年相応の皺が刻まれていたが、手のひらはすべすべしている。

 鹿乃子も眉をひらいて、祖母の手を握り返した。


「おまじない? なんの?」

「かのちゃんがいちばん大事なときに勇気を出せますように」


 握った手の甲をとんとんと叩いて祖母が言う。

 子どもの頃に祖母がしてくれたおまじないだと思い出した。

 いつもえらぶっていた鹿乃子だったが、ときどき年相応にぐずっていたとき、祖母は決まって最初に見つけ出してくれた。


 ――はいはい、かのちゃん。元気になあれ。


 すべすべした手で鹿乃子のちいさな手を包んで、手の甲を叩いてくれる。

 ふしぎなもので、祖母に手をとんとんされると、幼い鹿乃子はすんっと泣きやんだ。


 祖母が長い闘病生活のすえに亡くなったのは、鹿乃子が中学を卒業する間際、桜前線がちょうど九州の端にかかりはじめた頃である。

 合格した高校の制服を一足早めに見せに行くと、弓なりに目だけを細めて喜んでくれた。鹿乃子の中学生活の後半は後悔することばかりだけど、祖母に高校の制服を見せられたことはいちばん立派にできたことだと思っている。



 *…*…*



 その年は例年より桜の開花が遅れて、卒業式の日、ひよどり中学校に植えられた桜はどれもまだ蕾だった。

 晴れ渡った青空の下、体育館の舞台で、鹿乃子は卒業生代表として答辞を述べた。

 腑抜けた中学校生活を送っていたが、成績は上位をキープしていたし、放送委員として参加した全国放送コンテストでグランプリを獲ったことが評価されたらしい。


 式が終わると、鹿乃子はクラスの男子に体育館裏に呼び出された。

 なんだ?最後に果たし合いか?と疑いつつひとりで向かうと、そこには鹿乃子を呼び出した男子――東野ひがしの佐馬さまくんが立っていた。

 クラスでも一番か二番のすらりとした長身で、きれいな顔立ちをした男の子だ。女子たちはアイドルグループのナントカくんに似ているとよく噂している。

 佐馬くんは、中学最後の一年を生徒会長として活躍していた。


「ごめん、葉山はやまさん。急に呼び出して……」

「ううん、どうしたの?」


 鹿乃子は中学に入ると学級委員にはならなくなったが、放送委員の仕事でときどき佐馬と関わることはあった。鹿乃子とはべつの意味で弁が立つ男子で、いつもスマートな物言いをするのに、なんだか今日はやけにもじもじしている。

 どうしたのだろうと不審に思っていると、佐馬が迷いを振り切ったようすで顔を上げた。


「俺、ずっと葉山さんのことがいいなと思っていて……!」

「えっ、いつから!?」


 驚きのあまり、鹿乃子は思わず素で訊き返した。

 鹿乃子もちょっと抜けているところがあるが、佐馬から告白されるなんて、ひよどり中学校の全女子生徒が思っていないだろう。告白するよりされる側の男子だ。


「児童会長選挙で葉山さんに負けたときから!」

「そこなの!?」

「それまで誰かに負けたことなかったから!」


 さすが佐馬、質疑応答のラリーがすばやく的確だ。

 つい感心しかけて、鹿乃子は遅れてうろたえた。

 ――佐馬くんが好きだった! 昔からわたしを!


「児童会長、はじめは葉山さんのほうがいいわけないって腹が立ったんだけど、葉山さん、一年間ちゃんとやってて、仕事に対してすごく真面目で、そういうところがすてきだなって思って……」


 いつもはスマートなのに、耳まで赤くして告白をする佐馬を鹿乃子は驚きをもって見つめる。

 児童会長の仕事がんばってたの、見ててくれたんだ……。

 それで今日、勇気を出して告白してくれたんだ……。

 じんわりした感動が胸に染み込んだ。

 

「葉山さんは俺のこと、どう思ってる?」


 真剣な表情で問われて、鹿乃子の心臓が跳ね上がる。

 ほかのひとから告白されたときとは、状況がちがっていた。

 今日は、中学校生活の最後の日なのだ。


(どうしよう……)


 佐馬は鹿乃子が好きだという。

 しかも、外見じゃなくて、鹿乃子の仕事ぶりを見て、好きになってくれたのだ。

 すばらしい。ひとりで告白に挑む勇気もある。すごいことじゃないか。

 ここで鹿乃子が佐馬を好きになってうなずいたら、一発逆転、計画の進捗遅れを取り戻し、目標達成することができる。

 正真正銘、中学校生活、最後のチャンスだ。


(でも……)


 わたしが好きなのは馨くんだ。

 あの日、華やかなひな壇のまえで、幼い馨の心の端に触れたと思ったとき。

 桃の花が香り高く、鮮やかに咲き誇っていた。

 鹿乃子の心にも、花が咲いた。


 ――好きなひとは、いる。


(でも、わたしの好きなひとは手に入らないじゃん……)

(それなら、べつのひとと付き合うしかないじゃん……)


 どうしたらいいのだ。

 何が正しいのだ。


「ううー……」


 汚い気持ちときれいな気持ちでぐちゃぐちゃになって、こめかみが熱っぽく痛む。

 こらえきれずに涙がぼろぼろあふれだした。

 艶やかなローファーに涙が点々と落ちる。

 卒業式なのに、と鹿乃子はかなしくなった。

 卒業式なのに、どうしてこうなってしまうの。


「――かの!」


 そのとき、後ろから大きな声で呼ばれて、鹿乃子は腕をつかまれる。

 鹿乃子と佐馬のあいだに飛び込んできたのは馨だ。

 走ってきたのか、息を切らしている。鹿乃子の泣き顔をびっくりしたように見てから、馨は佐馬を振り返った。


「かのに何をしたんだ!?」


 めずらしく馨が怒っている、と鹿乃子はきづく。

 幼い頃から一緒にいた鹿乃子でないときづかないくらいのちがいだが、馨は今とても怒っている。

 涙が引っ込む勢いであわてた。

 馨はたぶん、体育館裏で佐馬が鹿乃子をいじめるか何かしたと思っている!


「馨くん、あのねっ」

「俺、いま、葉山さんに告白してて!」


 佐馬の言葉に、「え!?」と馨は声に出して固まった。

 佐馬と鹿乃子を見比べ、みるみる頬を染める。瞬間湯沸かし器みたいな変化だ。


「わあああ、ごめん……」


 ぱっと鹿乃子の腕から手を離し、消沈したようすで馨はうなだれた。

 

「かのが戻ってこないって水原さんに聞いて、勘違いした……」

「いや、俺のほうこそ。すぐに戻るって水原さんたちに伝えておいて、坂下くん」

「……うん」


 馨は一瞬傷ついた表情を見せたが、何も言わずにうなずいた。

 心なしか、肩がしゅんとしている。

 そのとき、天啓が降りたみたいに、あっ佐馬くん無理だ、と鹿乃子は思った。

 だって今、このひと、馨くんを「坂下くん」って呼んだ。

 馨くんは、坂「上」馨くんだ。

 馨くんの苗字をまちがえるやつは、わたしは好きじゃない。

 ちいさいことか? ちいさいことだ!

 でも、馨くんは誰のなまえも絶対に間違えたりしない!


「ごめんなさい! わたし、佐馬くんとはお付き合いしない!」


 鹿乃子はきっぱり佐馬に告げた。

 佐馬は眸を揺らして鹿乃子を見返す。


「どうして……」

「ほかに好きなひとがいるから、ごめん! ――馨くん行こう」


 告白現場に立ち会わされることになり、所在なさそうにしている馨の手を引っ張って、鹿乃子は歩き出す。

 馨はなぜか俯く佐馬のほうを気にするそぶりを見せたが、黙ってついてきた。

 入れ違いで、別の男女ふたり組が体育館裏にやってくる。

 今日の体育館裏はおおにぎわいだ。


 教室にはまだクラスメートたちが残っているはずだが、鹿乃子はなんとなく校舎の東にある花壇のほうへ足を向けた。三区画ほどに分けられた花壇では、馨が三年間、お世話をした花たちが開花を迎えている。赤、白、黄のチューリップが風に揺れて愛らしい。鹿乃子たち以外にひとはいなかった。

 

「……かの、平気?」


 鹿乃子がずっと黙っているからか、馨が尋ねてきた。

 それでようやく握っていた馨の手を離す。


「断っちゃったや……」


 気まずさに駆られて、へへっと鹿乃子は苦笑する。

 

「中学校生活最後に、大逆転で目標達成するチャンスだったのにね」


 冗談っぽく言うつもりだったのに、存外、湿っぽい声が出てしまう。

 馨は痛ましげな表情をして沈黙する。その顔を見たら、もう冗談めかして何かを言うのもぜんぶいやになった。

 眦に残った涙を鹿乃子が手の甲で拭っていると、そっと反対の手を取られた。

 両手で包むようにされて、とんとんと軽く手の甲を叩かれる。

 何をしているのだろうとふしぎに思って、おばあちゃんの元気になるおまじないだときづいた。鹿乃子が泣いていたから、おばあちゃんの代わりにしてくれたのだとわかった。


「話なら、聴くから。いつでも、何でも」


 祖母のすべすべしていた両手とちがって、馨の手は歩いてきたせいか、ほかほかと熱くなっている。大きくて、すこし骨ばっていて、でもやさしい手だ。


「かののばあちゃんがいなくなっても、俺がかのの話、聴くから。おまじないも、俺が何度でもするから。だから、あんまり……泣かないで」


 めずらしく一生懸命、馨は言葉を重ねている。

 馨の紺のブレザーの胸ポケットでは、淡いピンクの造花が揺れている。

 まるで桃の花みたいだ、と思ったら、しょぼしょぼしていた視界が急にぱっと色づいた。

 

 ――ね、かのちゃん。

 ――おばあちゃん、かのちゃんにおまじないかけてあげるわね。


 ねえ、おばあちゃん……わたしの「いちばん大事なとき」はここ?

 そうなの? でもちがう?

 ねえ、勇気ここ?

 誰か教えて。こわいよ。わからなくて不安だよ。


(でも……)


 わからないなら、わたしは今ここだって思いたい。

 ここだ、今、勇気を出すのだ。


 桃の花言葉は――


『わたしはあなたのとりこ』


 そして、


『天下無敵』


 今、ここで覚悟を決めろ。

 思い出せ、滑り台のうえの女帝を! あの輝きと誇りを!

 無敵になれ、わたし!

 


「わたしは、馨くんが好き!!!」



 鹿乃子は大きな声で高々と宣言した。


「ひまわり幼稚園と、かもめ第一小学校と、ひよどり中学校で、いちばん好き! 馨くんが世界でいちばん好き! ずっと馨くんが好きなんだよ! 馨くんにもわたしのこと好きになってほしい! 同じくらい好きになってほしい!!」


 全国放送コンテストでグランプリを獲った声量と活舌のよさで滑らかに言い切った。

 だけど、これだけのことを言うのに胸がどきどきして、息が荒くなる。

 逃げたくなるような気持ちで一度、目を落としてから、勇気を出して顔を上げると、馨はびっくりしたようすで鹿乃子を見返していた。声量のほうか、内容に驚いたのかはわからない。


「うん」


 おまじないのときの名残で鹿乃子の手を握ったまま、馨はうなずいた。

 目の奥が澄んでいて、夏空みたいだった。


「俺も、かのがずっと大好き。同じくらいというか、俺のほうがきっと好きなんじゃないかって思うけど……」


 馨の手が微かにふるえていることに鹿乃子はきづく。

 緊張しているのだとわかった。

 鹿乃子は馨の手を握り返した。深く考えずにそうしていた。

 馨が瞬きをして、それから、くすぐったそうにふわっと微笑む。

 ひな壇のまえで見たときと同じ、陽に溶けるような笑顔だ。

 桃の花みたいな可憐な笑顔だ。

 

「だから、もしかのも同じふうに想ってくれるなら、俺と付き合ってください」


 その言葉にはっと夢から覚めたみたいに、鹿乃子は馨を見つめる。

 そうだ、いま、馨は鹿乃子が好きだと言った。

 付き合ってくださいと言った! 


「ちょっと待って、馨くん、わたしのことが好きなの!?」

「うん」

「嘘でしょ!?」


 ――きづかなかった!!


 混乱を極め、青空に向けて鹿乃子は叫ぶ。

 開花を待つ木々のあいまから、くすくすわらう祖母の声が聴こえた気がした。

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