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小学生編

 かおるの幼馴染は、まぶしくて遠い。まるで彗星みたいに。


 彼女は葉山はやま鹿乃子かのこといって、かつてはひまわり幼稚園の滑り台に君臨する通称「女帝」だった。

 過去形なのは、鹿乃子がひなまつり以来、ぱたっと興味を失ったかのように滑り台に君臨することをやめてしまったからなのだが――。


 月日は過ぎ去り、滑り台の攻防から五年後の冬である。

 ひまわり幼稚園の女帝だった鹿乃子は、馨とともに近所のかもめ第一小学校に入学するや、華麗なる転身を遂げた。はきはきして物怖じしない鹿乃子は、率先して学級委員を引き受けるようになり、三年生になると、クラスメートの満場一致で代表委員に選出され、四年生になると児童会の書記に立候補、五年生の一年間を務めあげたすえ、いままさしく、児童会会長へ名乗りをあげた!


『葉山鹿乃子さん、児童会会長立候補!』


 鹿乃子の立候補は、校内新聞でも取り上げられ、いまや一躍時の人である。

 対抗馬である同じく五年生の東野ひがしの佐馬さまくんは、野球がうまくて、通っている塾の全国模試では七位の秀才らしくて、あとは背も高くてかっこいいので、鹿乃子と票は割れると見込まれている。

 かもめ第一小学校、選挙旋風到来である。


 ――という校内のお祭り騒ぎをよそに、五年三組美化委員の馨の毎日はひとつの波風もなく、平穏に過ぎ去っていく。

 美化委員の仕事は、かもめ第一小学校の校舎の裏にある「みんなの花壇」のお世話をすることである。あまり人気がない委員なので、じゃんけんに負けた子ばかりで構成されている。なお、馨は珍しく美化委員を自ら志願した。


 春から夏の時期は、花もたくさん咲いて、お世話にいそしむ子たちも多いが、今は二月で、花の種は皆土のなかである。みんなの花壇のお世話をする子はおらず、馨は毎日ひとりで種に水をあげている。

 誰かにやらされていると思ったことはない。

 ひとりで黙々と土いじりや雑草抜きや水やりをする時間も、馨はすきなのである。

 手から伝わるふかふかした土の感触も、豊かなにおいも、ひかりに水晶みたいにきらきらと舞う水飛沫も……。


 今日の美化委員の仕事をひとりでしっかり終えると、花壇の横に置いていたランドセルをしょって、馨は学校を出る。

 校門では鹿乃子が児童会の選挙戦のために、下校する子たちにビラを配っている。

 

「児童会長には葉山鹿乃子ちゃんをお願いします!」


 鹿乃子の横では、仲良しの楢葉さんと水原さんが声がけをしている。

 イラストが描かれたビラを渡され、馨は素直に受け取った。もともと、ティッシュ配りのティッシュもビラも、ぜんぶもらってしまうたちである。


 淡いブルーのダウンコートになまえの入ったタスキをかけた鹿乃子が、はっと睫毛を揺らして馨を見つめる。長い黒髪はいつも左右で二本のおさげを結っている。おさげを結ぶカラーゴムがそのときどきでちがっていて、今日はパステルイエローの水玉だった。

 鹿乃子は何かを言いたそうにもごもごと口を動かしたが、仲良しのふたりがふしぎそうに鹿乃子を見つめると、急にきりっとした表情になって口をひらいた。なぜかほんのすこし、顎を上げて馨を見下ろすようにする。なお、そんなことをしなくても、鹿乃子は馨よりも背が高い。


「いま、帰りなんだ、《《坂上くん》》」

「うん」

「……何してたの?」

「裏の花壇の世話してた」

「ふううん……」


 鹿乃子は目を伏せて、おさげの毛先をくるくると手でいじる。

 何か話したいのかな、と思ってすこし待ってみたが、口を開くまえに、べつの下校の児童が通りかかった。すかさず仲良しのふたりがウグイス嬢もかくやの声を張り上げ、はいはい、坂上さかがみくんはどいてくださいね、我らが未来の児童会長・鹿乃子ちゃんとの面会時間は終了です、という雰囲気になった。

 押されるように道をあけて、馨は鹿乃子を振り返る。

 鹿乃子は選挙運動に戻っている。

 こちらをもう振り返ってはくれなそうだった。

 

「……ばいばい、《《葉山さん》》」


 もらったチラシを折りたたんでポケットに入れると、足早に校門から離れた。


 

 滑り台の女帝だった鹿乃子が、学級委員に華麗なる転身を遂げてもう何年も経つ。

 ひまわり幼稚園時代は女帝として専制を敷いていたが、時代の波にあわせ、鹿乃子も民主制に移行したようだ。

 鹿乃子は、クラス内でも外でも、友だちが多い。校長先生やほかのクラスの先生たちの覚えもめでたい。「あっ、坂……ええと、坂『下』くん!」と廊下で呼び止められる馨とは大違いである。

 クラスメートもときどき、いじわるではなく「坂下くん」と呼んできたりする。馨もぼんやりしていて、「あ、うん」とうなずいたりするので、馨といつもつるんでる友人たちは、呆れた顔をしている。まあ、坂上でも坂下でもおおむねニュアンスは伝わるし。


 鹿乃子との距離は、入学以来、ひろがるばかりである。

 確か小学一年生の頃は、家が近所のこともあって、一緒に登校していた気がするけれど、鹿乃子はそのうち、「かおるくんとは一緒に登校しない」と言い出し、ある日、すごく真剣な顔で、「わたし、今日から、かおるくんのことは坂上くんって呼ぶから!」と告げてきた。

 あれは小学一年生の二学期の終わりだ。

 かおるくん、かの、と呼び合っているふたりにきづいたクラスメートが「かおるくん」と合わせて呼ぶと、鹿乃子はなぜか怒髮天を突く勢いで怒り、「かおるくんは坂上くんだから」と言い出したのである。


「だから、わたしのことも、かのじゃなくて、葉山さんって呼んで」

「かのは、かのなのに?」


 馨は面食らって尋ね返した。

 そのときふたりは神社の境内にいた。馨の母親は、大地女神の娘を祀る神社の神主をしている。幼稚園の頃からふたりの遊び場は神社の境内だった。

 そよそよと楠が葉を鳴らすなか、鹿乃子は眉根を寄せてじっと馨を見つめている。

 べつに改名したわけではないのだから、かのはかのでよいのではないか。

 そう思ったのだが、鹿乃子の決意は固かった。


「下の名前で呼び合うほど、わたしたち、仲良くないでしょ!?」


 激しい眼差しで言われ、馨はさらにショックを受けた。

 仲良くなかったんだ!? とは訊き返せなかった。

 急に泣きたいような気持ちになってしまったのだ。


 しぶしぶ、「……うん」とこっくりうなずくと、

「そうだよね」と鹿乃子は安心したようすで微笑んだ。

 

「これからは、かのじゃなくて葉山さんって呼んでね」

「うん」

「人前でかのって呼んだら怒るからね」

「うん」

「ちゃん聞いてる、坂上くん?」


 うん、としょんぼりうなずき、馨は家に帰った。

 あれ以来、かののことは、かのとは呼んでいない。

 鹿乃子は自分から言いだしたくせに、はじめ三回にいっぺんくらい「かおるく……あっ坂上くん」とか言い直していたが、馨は一度も「かの」とは呼んでいない。

 もともと、しゃべるときにはよく考えてから口をひらく性格なのだ。かの、という呼び名はちゃんと口にするまえに馨の胸の中にしまわれて、「葉山さん」と一度も間違わずに呼ぶことができた。

 けれど、そうするとき、決まって馨の胸はきゅっと痛みで引き締められた。

 ひな壇のまえでわらいあったのが、記憶ちがいに思えるくらい、鹿乃子はいまや遠く届かない存在である。

 鹿乃子がいま何を考えているのか、馨にはちっともわからない。



「児童会長には葉山鹿乃子ちゃんをお願いします!」

「児童会長には東野佐馬くんをお願いします!」


 児童会選挙当日まで一週間を切り、今日も学校は選挙活動で忙しい。

 指定の掲示板にはポスターが張られ、誰に投票しようとみんなが言い合っている。馨の友だちの桂木くんは、佐馬くんを応援すると言っている。葉山さんはかわいいけど、はきはきものを言うから、こわいんだもん、だそうだ。

 そうかなあ、と馨は首をひねる。確かに鹿乃子は自分の気持ちを率直に口にするけれど、こわいと思ったことはない。


 放課後、いつものように「みんなの花壇」の世話をした馨は、ひとりランドセルを置いた教室に戻ってきた。廊下を歩いていたとき、教室の外に立つ女の子のすがたが見えて、あれ、と思う。鹿乃子である。いつもとすこしようすがちがい、どこか所在なくたたずんでいるように、馨には見えた。

 ――どうしたのだろう?

 俯きがちの鹿乃子に声をかけようとすると、


「児童会会長、どっちに投票する?」


 という声が教室の中から聞こえてきた。

 馨は教室の中と、廊下に立つ鹿乃子とを見比べる。

 だから、入れないのか、ときづいた。

 鹿乃子は馨を目にするや、みるみる顔をこわばらせ、ばつがわるそうに口を真一文字に引き結んだ。話しかけないでほしいと鹿乃子の全身が言っている。馨はその場にとどまるべきか、教室の中に入るべきかで悩んだ。


「佐馬くんに決まってるじゃん。だって葉山、あいつ、えらそうだもん!」

「わかるー! 顔しかかわいくない!」


 クラスメートの笑い声がげらげらと続く。

 馨はおそるおそる鹿乃子をうかがった。

 鹿乃子は俯いて、頬を赤らめてふるえていた。にわか雨みたいに、大きくひらいた目がうるみ、眦に涙が滲む。びっくりして馨が口をひらこうとすると、鹿乃子は次の瞬間、決然と顔を上げ、まるで雄々しい鹿のような俊敏さで身をひるがえした。

 ばん!と音を立てて、教室のドアをひらく。


「いま誰が言った!?」


 鹿乃子は大きな声で、尋ねた。


「わたしに言いたいことがあるなら、わたしに言えっ!!!」


 げらげらわらっていたやつらのうち、いちばん端にいたクラスメートのもとに鹿乃子は彗星のように飛んでいく。襟をつかんで、床に引きずり倒した。残っていたべつのクラスメートたちが驚いて、わああっと声を上げる。「先生呼んでくるっ」と女子のひとりが教室を出て行った。


「かの、かの!」


 クラスメートと取っ組み合っている鹿乃子の背中に馨は飛びつく。

 児童会会長候補の鹿乃子がクラスメートと喧嘩をしているなんて、先生に見つかったらたいへんだ! なんとかして止めないと……。

 無我夢中で鹿乃子をクラスメートから引き剥がしていたのだが、


「かおるくん、邪魔っ!」


 鹿乃子の容赦ない肘鉄をおなかに喰らった。

 はずみに身体が離れて、壁にどしんとぶつかる。

 黒板消しとチョーク、そしてとどめとばかりに、算数の時間につかう大きな分度器が馨のうえに落ちてきた。教室内はもはや阿鼻叫喚の地獄絵図だ。

 駆けつけた担任がぎょっとして、クラスメートにつかみかかる鹿乃子と、その近くでなぜか分度器に押しつぶされている馨とを見比べる。

 何があったのかを察することはできなかったようだ。

 

「坂上くん、鼻血が出てる。保健室にいきましょう。葉山さんたちはあとで事情を聞くからそこにいて」


 言われてきづいたが、床に点々と血が落ちていた。

 大きい分度器おそるべし。

 ――そのあとのことを馨は詳しく知らないが、鼻血を出した馨が保健室でつめものをしてもらっているあいだに、鹿乃子たちと担任のあいだで話し合いがもたれたようだ。

 保健室に戻ってきた担任に馨は一生懸命、クラスメートが先に鹿乃子の悪口を言っていたこと、鹿乃子はそれに対して反撃に出たに過ぎないことを訴えた。先生は真剣に耳を傾けてくれたけど、児童会選挙のゆくえはわからない。


 しばらくしたら、鼻血は止まった。

 馨は担任が持ってきてくれたランドセルをしょって、保健室から出た。

 教室に行こうか、靴箱に行こうか、迷っていると、廊下にぽつねんと鹿乃子が立っていた。馨にきづくと、はっと長い睫毛を揺らし、自分のほうからちかづいてきた。


「――帰るの?」


 鹿乃子が尋ねた。

「うん」と馨が顎を引くと、「わたしも帰る」とうなずき、鹿乃子は下駄箱に向かった。細い肩を怒らせている。鹿乃子は怒っているのだろうか。不安に思いながら、馨は鹿乃子の背を追った。

 校門を出て、いつもの通学路を数歩の距離をあけて歩く。

 鹿乃子はランドセルのベルトを握りしめて俯いたままだ。馨はおろおろと左や右に目を向け、しばらく考え込んだあと、「かの」のなまえは胸に一度しまって、「葉山さん」と呼んだ。


「だいじょうぶ?」


 鹿乃子の咽喉がひくっとふるえた。

 堰を切ったように、ぽろんぽろんと、透明な宝石みたいな涙が鹿乃子の頬を伝う。

 馨はあっけにとられて鹿乃子を見返した。鹿乃子が泣いている!


「だいじょうぶじゃないよう……」

「あ、うん、そうだった。ごめん……」

「ちがうよ! なんでかおるくんが謝るの!?」


 鹿乃子は泣きながら怒るという器用なことをやった。眉間をぎゅっと寄せたあと、やっぱり力をこめていられなかったのか、うわーん、と天を仰いで泣き出す。

 鹿乃子の感情のめまぐるしさについていけず、馨は立ち尽くすばかりだ。


「ごめんね、かおるくん、おなかぶつけてごめんね、分度器落としちゃってごめんね……わたしのこともうきらいになった!?」


 馨はぽかんと瞬きをする。

 鹿乃子はてっきり児童会選挙のゆくえを気にして元気がないのかと思っていたが、彼女の頭を今いっぱいに占めているのは、どうやら馨のことらしい。言葉を失い、馨はただただ鹿乃子を見つめる。


 どうしてこの子は、つよくて、つよくて、ときどき、びっくりするほど打たれ弱いんだろう?


 澄んだ泉のように胸にあふれてくるものがあって、馨は鹿乃子の手をつかんだ。

 自分と同じくらいの大きさの手を引いて、家までの道を歩き出す。

 手袋をしていない手は、とてもつめたい。でも、みるみる熱くなる。鹿乃子は体温が高い。

 桜の花はまだ咲いていないが、梅の花は早いものが一輪、二輪咲いていた。


「おれさ!」


 馨はなるべくがんばって、大きい声で言った。

 人生には、大きい声をがんばって出さないといけないときがあるのだ。


「おれは、かのに一票入れるから。だって、かのが、いちばんかもめ第一小学校でかっこいいから!!」


 振り返ると、鹿乃子が大きく目をみひらいていた。

 ひかりが射して、朝の水面のように強く輝いて見えた。

 しばらくのあいだ、鹿乃子は馨を見つめていたが、やがてなぜか地団太を踏んだ。


「どうしてかおるくんは、いつもきらきらしてるの……」

「えっ、きらきら?」


 ふしぎに思って首を傾げると、鹿乃子は今度は林檎のように頬を赤らめ、

「なんでもないよ!」とさっきの馨よりもずっと大きい声で叫んだ。



 ――選挙戦は、最終的に鹿乃子の完全勝利で終わった。

 はきはきと舞台で就任のあいさつをする鹿乃子を、馨は並んだ児童の列の端っこから見上げる。彗星のように遠い女の子は、でも、馨の心臓のいちばん近くにいる。誰よりもきらきらして、同じくらい、どきどきしている。

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