第1話 ……迷っているのは君の心だよ。私の心じゃない。
小鹿姫と藤姫
……迷っているのは君の心だよ。私の心じゃない。
霧深き森
あなたはどこにいるの?
暗い夜の森の中にはとても深い霧が立ち込めていた。
周囲の景色はかろうじて、なんとか見ることができるけど、少し先の風景は真っ白な霧に覆われてしまってなにも見ることができなかった。
近くに生えているたくさんの大きな木には、緑色の蔓が絡まるようにして生息していた。
小鹿姫は、その宮中ではあまり見たことのない植物にそっと手で触れてから、しっとりと水気を帯びた焦げ茶色をした大木の表面を手のひら全体で撫でるようにして触った。
それから小鹿姫は、その水気を帯びた大きな木の表面を触って、少し濡れた右手で、自分の腰に差している『一本の不思議なまがまがしい妖気を帯びた恐ろしい刀』のつかをしっかりと握りしめる。
意識を集中する。
……周囲に敵意は感じない。
まだこの近くに、『あれ』は存在していないらしい。(巣穴はまだ遠いようだ。もっと深い森の奥に、たくさんの人間の死体と一緒にあるにだろう)
小鹿姫は鮮やかな蜜柑色の着物を着ている。
帯は鳶色をしていて、その着物の上には深い緑色をした羽織を羽織っていた。長くて美しい艶やかな黒髪は紅葉色をしたかんざしで、頭の後ろで猫のしっぽのように、まとめている。
体つきは小柄だけど、その身のこなしや足の運びかたは、とてもしなやかで、小さな森の動物のようだった。
小鹿姫の(年相応の)童顔の顏には、そばかすがあった。
小鹿姫の年齢は、十三歳だった。
目に見えない、深い霧に閉ざされている高い空から鳥の鳴く声が聞こえる。
月の綺麗な夜空を飛ぶ孤独な一羽の鳥の姿を、小鹿姫は頭の中で想像した。
周囲の気配に変化はない。
それを確認して、小鹿姫は再び、霧深い夜の森の中を歩き始めた。
この不気味な雰囲気のする『死の香りの漂う』夜の森の中のどこかに身を潜めて隠れている、恐ろしいもののけを探して……。
そのとき、がさっという音が小鹿姫のすぐ近くの木の後ろから、聞こえた。瞬間、小鹿姫は音のした木から距離を取り、刀を握り、迷いもなく、すぐに抜刀の姿勢に入った。