阿鼻地獄へ
暗く深い大穴が空いていた。穴の端から端などはとてもではないが見ることができない。
その穴はあまりにも深く、下を見ても底など見通せるはずもない。ただ光を飲み込む黒々とした虚が広がっているだけだ。
そんな穴に一本の細い橋がかかっていた。
一人が通るのがやっとほどの幅であり、手すりなども存在しない。
その橋を、一人の男が渡っている。震える足を慎重に動かし、視線を下に向けないように、橋の向こうにかすかに見える灯りを目指して、ゆっくり、ゆっくりと、足を擦るようにしながら少しずつ歩いていく。
いつからそうしていたのか分からないが、長い間そうしているであろうことはその疲弊した表情から察することができた。
どれくらいそうして進んだだろうか。
肉体的な疲労が原因なのか、それとも精神的なものか。
男は足を滑らせた。瞬間、男の口から悲鳴が溢れ、その体は闇の中へと落ちていった。
悲鳴をあげながら青年はベッドの上で跳ね起きる。いま見た夢のせいか、身体中が冷や汗で濡れていた。
青年は辺りを見回し、そこが自分の部屋であることを確かめると大きくため息を吐いた。
いやに生々しい夢だった。足の裏に感じる橋の感触、瞼の裏に焼き付いた闇の色、そして落下の瞬間に耳を掠めた風の音。
すべてが実感を持って青年の頭にこびりついていた。
だが所詮夢は夢だ。
ベッドから降りた青年は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。飲むにつれて少しずつ夢の記憶が流れていくようだった。
青年は若くして成功した実業家だった。
学生時代から学業において優秀な成績を残し、大学はトップの成績で卒業。一流企業に入社するもしばらくしてから独立して成功を収める。現在婚約している女性は独立する前の会社の部長の娘であり気立ての良い美人である。
このようにどこから見ても、誰から見てもまさに絵に描いたような、夢のような人生を送っている人物だ。
そんな人生を送っている青年であるからこそ、多少目覚めの悪い夢を見ようとも気にすることなくその日の仕事に打ち込み、そして昼食を食べる頃には夢のことなど跡形もなく忘れ去っていた。
その日の夜、青年がベッドに上がり眠りに入るとすぐさま風切り音が耳を掠め、なにも見えない中で落ちていく感覚だけが襲ってきた。
昨日の続きである。
自分の手すら見えない暗闇の中、どこまでもどこまでも落ち続けている。
朝になり青年は叫び声とともに目を覚ました。昨日と同じく冷や汗が冷たく流れている。
それから毎日青年はその夢を見る事となった。
何回かであれば青年も気にはしない。だが、連日連夜となるとさすがに参ってしまう。
青年は医者に相談する。
「夢というのは現実とバランスを取っているものです。あなたは成功者で、あらゆるものを持っている。だからこそ夢にはなにもないのです。落ち続けるのはおそらく、あなたは内心ではいまの立場を失い、失敗者に転げ落ちることを恐れていることの現れでしょう」
そのようなことを言われるが、夢を見なくなる方法などは分からず、効きもしない精神安定剤が処方されるだけで終わってしまった。
そうしてまた何日か経ったある日、青年はバーで一人の男性と意気投合した。その男性はちょっとした催眠術を使えるらしく、たまにそれを応用して不眠症などの治療を行っているらしい。
青年はすぐさまその男性に、このような夢に苦しんでいて助けてほしい、と頼み込む。
すると男性は腕組みをしてこう言った。
「たしかに私の催眠術を使えば夢を見なくすることは可能です。しかし、それは不可逆で永続的なものなのです。再び見たいと願っても、どうにも出来ませんよ」
青年はそれでも構わないと答えた。成功した現実があれば、夢などなんの価値があるのだ、と。
男性はあまり気の進まないと言った様子だったが、最後には青年の願いを聞いて催眠術をかけた。
「さあ、これで今日眠れば夢の世界とはオサラバです。失われる夢の世界に乾杯」
男が妙な言い回しをすることに首を傾げながらも青年も男に続いて杯を掲げて酒を飲んだ。
その日の夜、青年は夢がなくなるとはどのようなものなのかを楽しみにしながらベッドに横になると、目を閉じた。
そして目を覚ました男は、一毛の光も刺さない暗闇の中、鼓膜が破れるほどの風切り音と、どこまでも落ちていく感覚をその身一杯に味わいながら、夢の世界が永遠に失われたことを悟った。
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