3.リリスの婚約解消について
「明るくしているけれど、やっぱり、婚約解消がかなりショックだったのよ。そのせいで熱が出たんだと思うの」
熱でうとうとしているリリスの枕元で、母の声が聞こえる。
(あれ? 私、どうしたんだっけ?)
意識がうっすら戻ったリリスは目を開けようとするが、気だるさが勝ってしまって上手く開けられなかった。
まぶた越しに感じる室内は明るい様子だ。
おぼろ気に、昨夜高熱を出し夕食を中座して早々に寝た事を思い出す。明るい様子から今は翌朝か翌昼なのだろう。
まだまだ熱は高いみたいで、体中が痛くてだるい。
ここで、母に呼応して長姉のラスティアの声もした。
「リリスが熱なんて珍しいものね。お医者様も熱だけだし疲れが出たのでしょう、って言ってたもの。そうねえ、あの婚約解消は辛かったでしょうね。婚約して数ヶ月で一方的に解消だったし」
どうやらリリスを心配して、ベッドサイドには母と一番上の姉が来ているようだ。
「……少し情報を集めたのだけど、我が家に正式に解消の申し出がある前に、リリスはあの令息から夜会で何か言われてたらいしのよ」
母が言いにくそうに切り出す。
「は? なにそれ? お母様、初耳よ?」
ラスティアの声が低くなる。
「しーっ、リリスが起きちゃうわよ」
起きてますよー、聞こえてますよー、とリリスは思うけれど、熱で体中が痛い上に、咽もカラカラで目を開けるのもしんどいのだ、二人に声をかける事は諦める。
今、二人が話題にあげているのは、三ヶ月ほど前にあったリリスの婚約解消の話だ。
ここの所、リリスがしっかり落ち込んでいた原因。
リリスもそろそろ年頃だし、意中の相手もいないなら婚約を、と家格や年齢を考慮して進められたリリスの婚約は、婚約者の令息と数回おざなりに会っただけで、あっけなく先方より解消の申し出があった。
そして、母の言う通り、令息の家からの正式な申し出の前にリリスはある夜会で、婚約者だった令息より心無い言葉をかけられている。
「リリスは何を言われたの?お母様」
「グレイシー家の二人の姉は美人なのに、お前は地味で俺には相応しくない、とか言われたらしいの」
(あ、お母様、ちょっと違います)
リリスはここで、心の中で待ったをかける。
正確には、「あの美人姉妹の妹ならきっと美人だろうと婚約を了承したのに、蓋を開けたらすごい普通の地味令嬢じゃないか、詐欺だろう?」だ。
そう、リリスの婚約者はリリスの実物を見ないまま、家同士の婚約を結んだのだった。
まあ、リリスとて、その令息は遠目で見ただけで、家格も釣り合うし、悪い噂もなさそうだしいいか、くらいの気持ちではあったので、あんまり向こうばかりも責められないが、詐欺扱いはひどいし、本人にそれを言わなくてもよかったんじゃないかな、とは思う。
「何様のつもり?あの令息がなんぼのもんよ」
ラスティアの口が悪くなる。
「ラスティ、お口」
すかさず入る母の注意。
「あのご令息が、よくそんなお口をお叩けになりましたわね」
「私も友人が教えてくれて、本当にびっくりしたわ。でも、まあ、そんな方だったのなら、早めに解消してくれてよかったと思ってるの」
そこで、ひんやりした母の手がリリスの額に当てられる。
「私の可愛いリリスが、そんな方に嫁がなくてよかった。リリスの性格なら、婚約した後にゆっくり穏やかな信頼と愛を育むのがいいかと思ったんだけど、間違っていたみたいね」
母の声は後悔に満ちていた。
「……私もそう思ったし、皆もそうだったのよ、お母様。リリスだって納得していたわ」
(そうよ。お母様)
ラスティアの言葉にリリスは心の中で同意する。
地味で臆病なリリスでは恋愛結婚なんて難しい。でも手に職を持って働く気概もなかった。
なら家同士の婚姻は悪い手段ではない。
相手の評判は悪くはなかったし、婚約中に少しずつ仲良くなれればと思っていたのだ。
実際はひどく適当なデートが二回と、夜会で投げつけられた心無い言葉。そしてあっさりとした婚約解消だった。
婚約はまだ内々のもので、お披露目をしていなかったので醜聞とならなかったのは幸いだろう。
「ありがとう、ラスティア」
「でも、ますますリリスの自信は萎むわね。昔からちょっと卑屈なのに」
「旦那様に似て、本当に可愛いのに」
「お父様に似てるのを本気で褒められるのはお母様くらいよ。確かによく見れば可愛いけど」
「よく見なくても……」
「はいはい、お母様はね。親の贔屓目よね。リリスは表情が動くと可愛いんだけどねえ。それには仲良くなってよく見ないと気付きにくいのよねえ」
「とにかく、次の婚約はリリスの良さをきちんと理解していただける方にしましょうと思ってるの」
「もちろんよ。私もパスカルもリリスはとても大切なのよ。変なとこに嫁にやるくらいなら、子爵家で子守か会計係としてちゃんと面倒見るわ」
「ラスティ、いい子ね」
「ありがとー」
「ラスティ、お口」
「お褒めいただき光栄ですわ」
リリスは今回の婚約解消ではそれなりに傷ついていた。昔から引っ込み思案で、同性にも緊張するが異性はもっと緊張する。友人は少なく、男性の友人は皆無だった。
茶会や夜会を幾つかこなす内に、男性とも挨拶や雑談程度の交流なら出来るようになったが、特定の方ときちんと向き合った事はなかった。
今回の婚約が成った時は、自分相手に婚約してくれた事が嬉しかったし、顔合わせや人生初のデートではけっこうときめいたりもしたのだ。
デートが適当な事には気がついていたけれど、きっと相手も緊張しているんだ、と誤魔化した。
だから、一番のコンプレックスである姉達との比較に加えての詐欺扱いにはしっかり落ち込んだ。
そうして夜会も茶会も参加する気になれないくらいではあったので、自分を思ってくれている母と姉のやり取りがとても嬉しい。リリスは思わず口元を緩めた。
「あら、笑った?」
「うなされたんじゃない? ねえ、ところでお母様、あの人形なに?」
ラスティアはリリスの机の上でタオルで巻かれている人形に気付いたようだ。
「昨日、リリスと出掛けた時に古道具屋でリリスが買ってきた中古の人形よ。この子がこういうのを欲しがるのってとても珍しいし、作りは良いもののようだから、まあいいかしらと思って持って帰ってきたの。リリスは自分でお風呂で洗ったみたいね。あら、洗うとますます綺麗な人形ね」
「ふーん。リリスがねえ。……人形の髪の色、リリスと同じなのね」
「ええ、良い兆候でしょう」
「遅れてきた夢見る少女期かしら」
「ふふ、だったらいいわね。この子はどこに行っても、あなたとマースに全部持っていかれていたから」
母の言葉に、そうだったなあ、とリリスは少女時代を思い返す。
長姉のラスティアは四つ上、次姉のマースはリリスより三つ上で、リリスが令嬢達のお茶会にお招ばれするようになると、もちろんセットで招ばれて出席はいつも三人一緒だった。
華やかなラスティアに、艶やかなマース。
完全に見た目で負けてるリリス。
「あれ? 妹、大したことないな」という視線が突き刺さる。どうしても、俯き加減になるリリス。
そして中には、面と向かって意地悪を言ってくるような令嬢もいた。
「お姉さん達に比べると、あなたってずいぶんと華がないのねえ」
ますます俯くリリス。
そしてもちろん、これに姉達が黙ってる訳がない。
「あらあら、うちのリリスは本当に優しい子なんですわよ」
「そうですわあ、外見しか見れない意地の悪いレディとは比べようもないですわあ」
華やかと艶やかが怒ると怖い。
リリスを苛めた令嬢は泣かされていた。
そして“妹想いの優しく強い姉”という事で、姉達の評価は上がる。二人の姉達は一歩間違えば性悪令嬢となるところだったのだが、そこらへんの立ち回りも上手かったのだ。
その二人の影で地味街道まっしぐらのリリス。
「そら自信も萎むわよねー」
「ラスティ、お口」
「自信も喪失しますわよね」
「あなた達は口も達者だったし」
「リリスが困ってるなあ、と思ってでしゃばったのもよくなかったわね。もっと、こう、見守るべきだったわ。今思うと」
「あなた達二人は本当に、誰に似たのかしらねえ」
「は? 何言ってんの? お母様よ?」
「ラスティ、お口」
「お母様でございますわよ。ほら、お母様、もう出ますよ、リリスを起こしたら悪いわ」
「そうね。ミミ、後はよろしくね」
母がベテラン侍女のミミに細々と言付けてから、長姉のラスティアと出ていく。
リリスは再び深い眠りに落ちた。
***
そうして更に丸一日眠って、三日目の朝、リリスはぱっちりと目を覚ました。
体はまだ重たいけれど、熱は引いてそうだ。
ふう、やれやれ、とベッドから体を起こす。
『やっと起きたか、待ちくたびれたぞ』
(ん? 今のなにかしら?)
声が聞こえた気がしてリリスはきょろきょろする。
誰もいない。部屋にはリリス一人だ。
『おい、ここだ。リリスと言ったか?』
やはり、何やら聞こえる。低い女の声だ。しかも、リリスを呼んでいるようだ。
不審に思いながら、ベッドからそろりと降りて声がしたなあ、と思う方へと目を向けると、机の上の人形が居た。
「………え?」
『鈍いやつだな、わたくしだ』
声は明らかに人形から聞こえてくる。
先日、古道具屋でリリスが購入した人形だ。
「え? 人形が?」
『確かに今は人形の身ではあるのだがな、わたくしはだな』
「ひゃあああっ」
リリスはびっくりして、もつれる足で母と父を呼びに行った。




