12.秋には
「はああぁーーーーっ」
男が見えなくなるとリリスは途端に脱力した。
廊下の休憩用の椅子を見つけてへなへなと腰を下ろす。
「こわかったぁ、びっくりしたああぁ」
シオンに見つかった時の比ではない。
さっきの男は関わってはいけない類の人だと思う。
『リリス、大丈夫か?』
ガー様が心配そうに聞いてくれて、ますます力が抜けた。
「なんとか」
『すまない。今のはかなり危なかった。あいつがあの目つきの時は見境がないからな』
「けっこう怖かったです」
一瞬、首を絞めて殺されるかもとも思ったのだ。
こうして冷静になると何の問答もなしに明らかに無害なリリスをいきなり殺すとは考えられないが、あの時は本気でそう感じた。
『わたくしの考えが甘かった。お前の身を危険に晒してしまった』
いつもは自信満々なガー様の声が弱々しい。後悔と自責の気持ちが溢れている。
「執務室を突撃しようと提案したのは私ですし、こうして無事です。そんなに気にしないでください。それよりさっきの方はお知り合いなんですか?」
ガー様が使った“あいつ”に引掛かってリリスが聞くとガー様が頷く気配がした。
『あれは、わたくしの故郷より連れてきた侍従だ。サイラスという』
「侍従さん……」
てっきりヤバいお仕事をされている人なのかと思ったのだが、違うようだ。首を絞められると感じたのは気のせいだったのだろう。
なーんだ、ちょっと雰囲気が怖いだけの侍従さんだったのかあ、閣下を殺すとかも冗談だったのね、とのんびりしだすリリスにガー様が続ける。
『元は祖国の暗部の人間だ』
「えっ」
暗部とは表立って出来ない汚れた仕事をする部門だ。そしてガー様の祖国は海を渡った大国である。そんな大国の元暗部の男。
リリスの背中は再びひやりとした。
「…………ガー様、ひょっとしなくても、さっきはかなりのピンチでしたか?」
『最悪、殺されていたな。遺体は秘密裏に葬られただろう』
「ひえっ」
首を絞められると感じたのは気のせいではないらしい。
『あいつを拾った当初はよくああいう目をしていて扱いに困った。最近はずっとまともになっていたはずなのだかな』
「じゃあ、閣下を殺すとか言ってたのも本気? でも守るとも言ってましたよね」
『サイラスに最後に命じたのは隣国へ向かうあの男の護衛だ。その任を解かないままわたくしが幽閉されたから今も従っているのだろう。いい加減嫌気がさしている可能性はある。わたくしは亡くなったことになっているのだから好きにすればいいだろうに、あいつは少々頭が硬くて融通が利かないのだ』
「へ、へえー」
(頭が硬いというより自由っぽかったけどな、ガー様の感性ってちょっと独特よね)
リリスはサイラスとの先ほどの会話やその様子を思い出し、そして気付く。
「もしかしてサイラスさんが言ってた“お嬢”はガー様のことですか?」
ガー様は大国の姫であったのだから“お嬢”呼びは変だと思うが、あんなに異様な雰囲気の美しい男が慕っていたのはガー様しかいない気がした。
どうやらお嬢は亡くなっている様子だったし。
『そうだぞ。あいつと出会った当初、わたくしはお忍びの令嬢の体であったからか、あいつはずっとわたくしをお嬢と呼ぶのだ』
ビンゴであった。
「サイラスさんはガー様に忠誠を誓っていたんですか?」
『あいつの言葉を借りるなら、サイラスはわたくしの下僕で奴隷で犬らしいぞ』
「…………愛し合っていたりとかは?」
聞きにくいけど念のためにそう問いかけるとガー様の纏う雰囲気が一気に冷えた。
『男女の愛ということならそんな事実はない。犬への愛なら与えていたが?』
地の底から聞こえてくるようなガー様の声。
「ひゃっ、すみません。そうですよね、ガー様は大公閣下一筋ですもんね」
『……ふん、妻とはそういうものであるからな』
そう言ったガー様の声には少しだけ照れのようなものが混じっている。もし生身のガー様がここにいれば頬を赤らめて目を逸らしていたのかな、なんてリリスは想像した。
「じゃあサイラスさんの一方的な片思いですね。重たい主への愛があるようでしたよ」
冷静にサイラスとのやり取りを反芻すると、サイラスはガー様を追って生を終えたい願望があるようだった。そしてその願望はガー様から与えられた閣下の護衛という命令のせいで叶えられていない。
『サイラスは拾ってやったわたくしに多大な恩を感じているのだ』
「なるほど、恩ですか」
(恩よりも深そうだったけどなあ……サイラスさんにとってガー様はとっても大切なお嬢様だったんじゃないかな)
きっと今も亡くなったガー様を悼んでいる。
瞳がどうしようもなく暗かったのはかけがいのない人を失ったからではないだろうか。
先ほどの美しい男とは二度と関わりになりたくないが、唯一無二の人の魂が入った人形のガー様の存在は教えてあげたいと思う。
(大公閣下にも教えてあげたいな……)
おそらくランスロットもサイラスと同じように暗い世界に居るのだろう。
何とかしてコンタクトを取ってガー様のことを伝えてあげたい。そして是非、生身のガー様とも再会して欲しい。
リリスはもうガー様のことを呪いの人形だなんて思っていなかった。ガー様は絶対に生きている。早く魔法を解いてランスロットと会うべきだ。
リリスはこれまではガー様の気持ちを汲んで二人を会わせてあげたいだけだったが、ランスロットやサイラスの為にも何とかしてあげたいという気持ちが沸き起こってくる。
(さっきみたいな怖い思いはしたくないけど、出来る範囲でもっと頑張りたいな)
リリスは決意も新たに舞踏会場へと戻り、姿の見えない義妹を心配しまくっていたパスカルと合流した。
気分が悪くなってしまって化粧室に居たのだと伝えるとパスカルは早々にリリスを屋敷へと連れ帰ってくれた。
自室へと戻ったリリスはくたくたで、さっさと湯浴みをすると倒れるように眠った。
❋❋❋
暗い廊下をサイラスは進む。
通い慣れた一室まで来ると、ノックもせずに扉を開けて中に入った。
「……サイラスか」
部屋の奥の執務机の男が顔を上げる。男は淡い金髪に水色の瞳の苦み走った美形で、その目には全く生気がない。
自分もこんな目をしているのだろうな、とサイラスは思う。
いや、おそらくサイラスはこれよりはマシなはずだ。
少なくともサイラスには主のガーベラが最後に与えた命令があり、それに縋って生きている。
四年前、己の全てであったガーベラが亡くなった。ガーベラを喪った当初は彼女を死に追いやった者たちへの憎悪と復讐が生きる糧だった。
サイラスは諸悪の根源である前国王、ガーベラを捕縛した騎士団長、幽閉していた砦の領主をどうやって惨たらしく殺すかを考え、それを実行するために生きていた。
騎士団長は国王の命令に従っただけであり、ガーベラが亡くなったことをひどく後悔していたので失脚だけさせて殺すのは見送った。
砦の領主についてはいろいろと悪事もあったので、追い詰めて難なく殺した。
あとは前国王だけとなり、これが一番殺したい奴だったのだが一番の難関でもあった。物理的に難しかったのもあるが、前国王については今目の前にいる男、ガーベラの夫であり大公であるランスロットが止めたせいでもある。
止められた時は、いくらランスロットでも排除しようかと考えた。殺気を隠さないサイラスにランスロットは言った。
「今はダメだ。国が混乱する。それはガーベラの本意ではない。国王を消すとなればそれなりの準備も必要だ、五年ほど待て」
それで何とか怒りを抑えて五年待つことにしたのだがその一年後、前国王はあっけなく自然に死んだ。
崩御の一報を聞いた時は、何を勝手に死んでいるんだと愕然とした。しかも前国王の死に際は一瞬で、ほとんど苦しまなかったとも聞いて深く絶望した。
あいつはサイラスが出来うる限りの苦痛を与えて殺す予定だったのだ。
それ以降のサイラスは完全に生きる目的を失い、だらだらとランスロットを守っているだけの生となった。
だが、ランスロットもまた自分と同じく前国王の死以降は生きているのか死んでいるのかよく分からない顔をしている。
サイラスは改めて、表情のほとんどない金髪の男を眺めた。
(果たして、これを守る意味はあるのかな)
こんな状態のランスロットを生かしておくのをガーベラは善しとするのだろうか。
サイラスは暗い瞳で自分を見るランスロットに向けてへらりと笑った。
「なあ閣下、いっそのことあんたを殺そうか? その後に俺も死ねる」
「…………」
ランスロットはまるで甘美な愛の囁きを聞いたかのようにぼんやりとした。
「魅力的な申し出だな。しかし、それには及ばない。俺の無意味な生はもうすぐ終わる」
しばし恍惚とした後にランスロットは静かに言った。
「もうすぐ?」
「この夏には王太子が成人し、秋に成人の儀式がある」
「つまり、甥の成長を見届けてから自死するのかな? 手伝おうか?」
サイラスが手伝った方が確実だろう。
「手伝いはいらない」
「閣下に何かあれば屋敷の者も城の者も助けようとするよ。実際、屋敷の使用人達は最近の閣下を特に心配している。俺の手伝いがあった方がいいと思うな」
「邪魔は入らないんだ。王族の成人の儀式は神殿の聖殿で行う。中に入れるのは王太子と後見役の俺だけだ。そこで何かあっても治癒師は間に合わないだろう」
どうやらこの男は既に自分の最期の時を決めているようだ。
(成人の儀式でねえ)
王族の成人の儀式は十六才を迎えた王族が、神殿の聖殿の祈りの間で一晩祈りを捧げるというものだ。
それにより神の加護が強くなるらしいが、サイラスはただの肝試し的なものだと思っている。
儀式の晩、聖殿の外は何重にも結界が張られ、中に入るのは国王とその年に成人を迎えた王族だけだ。
祈りの間に王太子がこもってしまえばどこからも邪魔は入らない。
(確実ではあるな)
サイラスは顎に手を当てて納得した。
それにしても神性な儀式を血で汚すなんて、いつものこの男であれば絶対にやらないことである。王室そのものへの恨みは健在のようだ。
最期の時を儀式に合わせるのは、最愛の人、ガーベラを奪われた無念を世間に思い知らせるためでもあるのだろう。
「そういうことなら閣下の意思を尊重しようかな。お嬢からの命も破らずにすむしね」
サイラスはうっそりと笑った。




