騎士たる男の結婚
まだ私が騎士になりたての頃だ。
仲間と飲んでいて、酔っぱらったはずみで、騎士への憧れを語った。
「ただ一人の姫君に忠誠を誓う、そんな騎士に憧れていたんだ」
一瞬の沈黙の後、その場にいたものは一人残らず爆笑した。
「そんなにおかしいか?」
私はそれまで、騎士を目指す者は多かれ少なかれ、その思いを持っていると考えていたので戸惑った。
「いや、すまん。悪くない憧れだと思う。
だが、自分に当てはめてみると、こっぱずかしいなと思って笑うしかなかった」
「そうか」
「気を悪くしたなら済まない」
「いや、そうだな、皆が同じ考えというわけでもないな」
私はそれ以降、そのことを口にしないようにした。
私はごく平凡な騎士だ。
伯爵家の四男として生まれ、無事、成人を迎えた。
身体が丈夫で、運動神経にも問題が無かったので王都の騎士団に入った。
それから、はや十数年。
王都の騎士というのは、職種としてなかなか人気がある。
生きのいい若者たちが、毎年のように入団を希望するのだ。
そもそも若く体力のある者に向いた仕事だ。
もちろん、ベテランの騎士も存在する。
統率力や政治力に優れていれば、団長や副団長にと望まれる。
または特別に剣技に優れていて、指導員として残る者もいる。
だが、何事にも平均的で平凡な騎士である私は、そろそろ退団後の道を模索しなければならない時期だ。
「ちょっといいか? 来週からの辺境伯領での合同演習のことなんだが」
勤務を終えて更衣室に向かう途中、副団長に声をかけられた。
「実は、一人欠員が出てしまったんだ。お前、代わりに行けるか?」
妻子は無く、寮暮らしの私。
実家の伯爵家にも、どうしても必要な用がなければ行くこともない。
更には恋人なんてのもいないので、こういう時は融通が利く。
「大丈夫です」
「そうか。じゃあ、頼む。予定表はこれだ。
それから、遠征用の物資は倉庫の方に手配してある。忘れず受け取りに行ってくれ。以上だ」
「了解しました」
倉庫番とも長年の付き合いである。つい訊いてしまった。
「欠員の理由を聞いているか?」
「ああ、辞退した奴が出たんだ」
「不祥事?」
「いやいや、おめでたい話さ。
初めての子供が出来て、奥さんの悪阻がひどいらしい。
ちょっと、置いていけないと団長に断ったんだと」
「そうか、奥さん、早く落ち着くといいな」
一昔前なら有り得ないが、今の騎士団は家族を大切にする風潮が強い。
家族を大事に思う、その気持ちが人を護り、国を護るのだという考え方だ。
もちろん、有事であれば、そんな我が儘は通らない。
今回の遠征は訓練目的だから、許されたのだ。
とにもかくにも、そういうわけで、私は仲間たちと共に辺境伯領へ旅立った。
物見遊山ではないが、多少の気楽さをもって馬を走らせる。
一週間かけて無事、目的地に着いた。
辺境伯領の騎士たちは、王都の騎士と比べて少々荒っぽいところがある。
しかし、打ち解けると非常に気のいい連中で、付き合いやすい。
学ぶことも多く、演習期間の二週間は充実していた。
無事に予定を消化し、王都への出発を翌日に控えた一日。
夜には別れの宴会が予定されていたが、それまでは自由時間である。
王都に待つ者がいる騎士たちは、土産を探しに街に出かけた。
私はといえば、せいぜい、倉庫番に酒でも買っていこうかと思うくらいだ。
もっとも、彼の好きな酒は、帰途の宿場町で手に入るものなので、ここでの買い物は無い。
明日からはまた、一週間の馬の旅が始まる。
今日くらいは、ゆっくりと過ごすのも悪くない。
一人、辺境伯家の広い敷地を散策していると、犬の鳴き声がした。
まだ若そうな甲高い声。
姿を探してみれば、大きな木の枝に小さな犬がしがみついていた。
猫じゃあるまいし、犬が木に登るなんて、と思ったが、傍らに潰れた木箱が見えた。
おそらく、木箱によじ登ったが不安定で、慌てて木に移ったところ、箱が潰れてしまったのだろう。
足がかりがなく、降りられなくなったのだ。
「よしよし、可哀そうに。少し大人しくしてろよ」
久しぶりに木登りをし、子犬を抱き下ろした。
よほど不安だったのか、見ず知らずの私にしがみついてくる。
地面に下ろそうとしても離れないので、仕方なく抱いたまま背中を撫でていると、そのうち寝てしまった。
思いがけない相棒を得て、私は散策を続ける。
しばらく歩いていると、辺境伯家の従僕らしき若者と行き会った。
「失礼いたします。王都からお越しの騎士様ですね。
その子犬はどこで見つけられましたか?」
「ここに来る途中で。
犬のくせに木登りをしていて降りられなくなっていたのを助けたんです。
辺境伯家の飼い犬ですか?」
「それは、ありがとうございました。
その子は、お嬢様の飼い犬でして。先ほどから探しておりました」
従僕に手渡しても子犬はまだ寝ていた。大物だ。
それにしても。
「辺境伯様にはお嬢様もいらっしゃるのですね」
初日の晩、歓迎の宴の席で、さらっとご家族を紹介していただいたが、その中に令嬢はいらっしゃらなかった。
「……実は、少々お身体が弱いので、公の席にはあまり出られません」
「これは、余計なことを訊いてしまいました。申し訳ない」
「いいえ」
従僕とはすぐに別れたが、そのまま歩いていると再び彼が現れた。
「騎士様」
「ああ、先ほどの……」
「お時間はおありでしょうか?」
「ええ、夜の宴までは暇です」
「お嬢様が、お礼にお茶をご一緒出来ないかと」
少し考えてしまう。
「大変にありがたいのですが……その、最近はあまりマナーに自信がなく」
従僕は笑顔で言った。
「お嬢様は気になさらないかと」
「それならば、お邪魔させていただきましょう」
「どうぞ、こちらへ」
促されて道を戻ると、先ほどは気付かなかった小さな屋敷がある。
土地の起伏に加え、生け垣や立ち木を利用して目立たぬようにしているのかもしれない。
「お招きありがとうございます」
「ようこそお出でくださいました。
先ほどは、わたしの犬を助けて下さって、ありがとうございました」
庭先に居た令嬢は車椅子に座っていた。華奢で美しい方だ。
車椅子は瀟洒で、なかなか凝ったデザインだった。
「すみません、身体が弱いものですから。
外に出る時は車椅子を利用していますの」
「ああ、いえ。少々、不躾に見てしまいました。
お気を悪くなさらないでください。
美しい車椅子だと思いまして」
「ありがとうございます。家族からの贈り物です」
「そうなのですね」
令嬢はご家族から愛されているようだ。
室内に案内され、お茶と素朴な焼き菓子でもてなされる。
「急にお招きしたので、いつものお菓子しか用意できなかったのです」
「いえ、とても美味しいです。
こちらで頂く食事も、バターの風味がすこぶる良くて、つい食べ過ぎてしまうんです。
演習目的の遠征に出て、太って帰ったら、残留組に何を言われるか」
令嬢は微笑んだ。
「良い牧場がいくつかございますから。
父の若い頃は、まだ国境での諍いがあって、領内で落ち着いて農業という雰囲気ではなかったと聞いています。
今は平和なので」
「辺境伯様始め、領内の皆さんの努力が実ったのですね」
「ええ。……残念ながら、わたしは何も手伝えなくて」
「作った作物を美味しいと食べてもらえることは、きっと農民の喜びになりますよ」
そう言うと、彼女は少しホッとしたような顔をした。
「そうだわ、ラミエルのお話をお聞きしなくては」
「ラミエル?」
「助けていただいた子犬です」
「あの子は、お転婆な子ですね」
子犬は雌だった。
「いつもは聞き分けが良いのですけど、今日に限ってお庭から出てしまって」
「子猫ならばともかく、子犬の木登りは珍しいです」
「まあ」
その瞬間を目撃したわけではないのだが、自分が見たものから推察したことを説明した。
「腐った木箱ですか。
そんなものが放置されていたんですね」
その後も、王都の様子などを訊かれて、話が弾んだ。
気付けば、一時間ほども経っている。
「これは、長々とお邪魔してしまいました。
お身体に障ってはいけません。そろそろお暇を」
「こちらこそ、お引止めしてしまって。
楽しいお話は、良い薬になります。
ありがとうございました」
一週間後、無事、王都に帰還した。
旅の間も、通常の業務に戻っても、ふとした時に、不思議と令嬢を思い出してしまう。
三十も過ぎて初恋か、と思う。
だが、少しばかり違うような気もする。
強いて言うなら、古の時代の、ただ一人の姫を護る騎士のように、彼女の近くに居たいのかもしれない。
まるで、おとぎ話のような妄想。
口にしたら、また、呆れられそうで、とても他人には話せないと思っていた。
「お前に面会だ。私も同席する、すぐ来てくれ」
遠征から三月ほど後のこと、巡回から帰った私は副団長に呼ばれた。
案内されたのは、上客用の応接室。
ここで会うような相手に、全く心当たりがなく困惑する。
「失礼します」
副団長に続いて室内に入ると、中に居たのは辺境伯様だった。
「お久しぶりでございます。先だっては大変お世話になりました」
「ああ、久しぶり。元気そうだ」
「あの、私に面会と伺いましたが……」
「突然に済まないが、この機会に是非、君と話してみたかったんだ」
辺境伯様は王城での会議出席のため、王都に来られたという。
「副団長に聞いたのだが、君は引退後の道を模索しているとか?」
「はい。正直、騎士としては平凡なので。
そろそろ席を空けるべきなのですが、これといって特技もありません。
どう踏み出してよいやら悩んでおります」
副団長が少し呆れ顔をしたが口は挟まない。
「ということは、こちらを退団する意向だが、その後の予定は無いのだな?」
「はい、左様です」
「ふむ。では、辺境伯領へ来ないか?」
「辺境伯領、ですか?」
王都より、さらに屈強さが求められる辺境伯領の騎士。
今からそこへ入るのは、少々難しそうだ。
「しかし……」
「騎士団員としてではなく、護衛騎士を頼みたいのだ」
「護衛騎士?」
「ああ。娘の護衛騎士だ」
そう言われて、また彼女の面影が鮮明になる。
離れの庭の、瀟洒な車椅子で微笑んでいた令嬢。
「娘が、君と話したことを、あまりに嬉しそうに言うのでな。
その時に控えていた使用人も、本当に楽しそうだったと」
「それは光栄です。
私にも、思い出に残る、楽しい時間でした」
「そうか。ならば受けてもらえるか?」
「異存はありませんが、なぜ私なのでしょう?
一度、話をしただけなのに」
「その話すことが大事だからだ。
娘を住まわせている離れは、敷地内にあるので、そこまで危険は無い」
本邸にいては、人の出入りが多く疲れさせてしまうと、令嬢を離れで静養させているのだという。
敷地内は騎士の巡回も行われているので、あの時、私の散策も許された。
「身分は護衛騎士だが、仕事の半分は話し相手だ。
使用人は足りていると思うが、やはり立場的に遠慮がある。
君ならば、伯爵家という出自を持った対等の話し相手になってくれるのではないかと期待するのだが」
そう言えば、あの時、ずいぶん遠慮なく話をしてしまった気もする。
優しい彼女でなければ、嫌がられたかも知れない。
「あの子も、幼い時に比べれば、ずいぶんと身体の調子も良くなってきた。
医者からも、少しずつ外に出て、体を慣らすよう勧められている。
その付き添いもしてもらわなければならないので、面倒かもしれないが」
「面倒とは思いませんが、私のようなもので本当によろしいのでしょうか?」
「もちろん、可愛い娘の側に、下手な男を置くわけにはいかない。
だが、副団長が君の人柄を保証してくれるそうだ。問題ない」
副団長が頷く。
「ありがとうございます。是非、お受けしたいと思います」
「よろしく頼む」
話は決まり、半年後に騎士団を退職することになった。
これから仕えることになる令嬢に、土産というか、ふと思いついたことがあって、副団長に相談した。
家の外では車椅子に乗るという令嬢。
その手元にテーブルのようなものがあれば、いろいろと使えるのではないだろうか。
副団長が奥様に訊いてくれたところ、公爵夫人の甥にあたる伯爵の奥方が、家具のデザインをしているとのこと。
連絡してみると、辺境伯家の車椅子を設計したのは、その奥方だという。
お願いがあるといえば、伯爵邸へ招かれた。
「申し訳ありません、子供が小さくて手が離せないものですから。
こちらまで、ご足労頂いてしまって」
乳母もメイドもいるが、それだけでは手が回らないらしい。
活発なお子さんが二人なのだから、さもありなん。
「辺境伯家のご令嬢が使われている車椅子が、貴女の設計だとか。
たいへんに美しく素晴らしいものでした」
「まあ、令嬢がお使いのところをご覧になったのですか?
いかがでした?」
伯爵夫人は、実際に使用されるところを見られなかったので、気になっていたようだ。
「実家の工房の者が直接、辺境伯家にうかがって納品し、調整をしたのです。
納品時は喜んでいただけたようですが」
「遠出はなさらないので、庭で陽を浴びたり、お茶を飲まれたりする時にお使いのようです。
座り心地がよく、寛げるとおっしゃっていました」
「それは、よかったです。教えてくださってありがとうございます」
「いえ。それで、本日うかがった用件なのですが」
「はい」
「車椅子の肘掛けに乗せられるような、小さなテーブル代わりのものを作れないかと」
「テーブルですか?」
「本や飲み物などを置けるようなもの、ですね」
「ああ、なるほど。
少々重い本など読みたいときも、便利そうですね」
「少し器用な者なら板を加工して作れるかもしれませんが、あのように美しい車椅子ですと、それでは似合いません。
デザイン的に揃いになるようなものだと、雰囲気を壊さないと思うのですが」
「わかりました。調整に出向いた者が、設計後に直した部分も記録しているはずですし、お作りできると思います。
少々、時間をいただきますが」
「どれくらいでしょうか」
「二月あれば、なんとか」
「そうですか。
それで、注文しておいて何ですが、あの車椅子に似合うものとなれば、相当なお値段になると覚悟はしていますが……」
一応、資金は確保したが、万一不足すれば実家などから借り入れなければならない。
「ご心配なく。今回は無料でお作り出来ます」
「無料!?」
「むしろ、こちらからお礼金を払わねばならないかもしれません」
「どういうことですか?」
「工房で、車椅子の注文が増えているのです。
ご高齢の貴族や、商家のご隠居など、お金に余裕がある方たちから注文が入って来まして。
そこに、オプションでテーブルボードが付けられるとなれば、また、注文を頂けそうですから」
伯爵夫人は商売人の顔で微笑んだ。
一月半ほどで出来上がって来たボードは見事な仕上がりだった。
アイディア料については、また何か作って欲しい時のために貸しておくことにした。
出来れば、直接令嬢に渡したかったが、時間が取れない。
丁度、車椅子のメンテナンスがあると聞き、職人に託すことになった。
しばらく後、令嬢からお礼の手紙が届いた。
『お会いできるのを心待ちにしております』と締めくくられており、少しばかり心臓に悪い。
古の物語では、特に優れた騎士が姫君の護衛騎士となった。
私は騎士にこそなったものの、王城内警備の第一騎士団でも、城壁外での荒事に対処する第三騎士団でもない。
城下町を守るという、比較的穏やかな仕事内容の第二騎士団の所属だ。
つまり、あまりに平凡な騎士が、まるで古の騎士のごとく、ただ一人の姫君に仕える機会を得たのだ。
余談だが、国教会が祀る女神のお使いは犬とされている。
ひょっとすると、令嬢の飼い犬こそ、私に幸運をもたらした女神の使いかもしれない。
などと、今度こそ、夢見がちな男と馬鹿にされそうなことを思う。
王都での騎士としての務めを無事に終え、辺境伯領へと向かった。
騎士団から、餞別代りに引退間近の馬を一頭譲られた。
引退と言っても、旅の供としては十二分に働いてくれる馬だ。
何度か騎乗したことがあるが、私との相性もいい。
王都で護衛騎士の仮契約は済ませてあったのだが、本契約は当然、任地に赴いてからだ。
ところが、辺境伯家に着いた日、執務室で差し出されたのはなぜか婚約に関する書類だった。
「護衛騎士の雇用契約では?」
ひどく驚いたものの、気を取り直して訊いてみた。
「実は、君がここへ来るとわかってからの、あの子の喜びようがなぁ。
しかも、君の贈ってくれたテーブルボード!
あの工房の特注品と来れば、君の娘への気持ちも測れようというもの。
体調もずいぶん上向いて、医師によれば気力が体力を向上させていると言うし。
もういっそ、婚約してくれないか? 不都合だろうか?」
「……不都合ではない、かもしれませんが」
「ならば頼む。護衛騎士の契約書も用意してある。
婚約中は護衛騎士として給金を払うし、結婚まで進めば子爵位を用意しよう」
子爵位とは、一介の騎士にとって破格の扱いだ。
しかも、辺境伯領の一部を領地とするが、直接経営をすることはなく、利益だけが子爵家に入るのだ。
子爵の身分は私に与えられるものの、実際は全てが令嬢の財産と考えるべきだろう。
それにしたって、身分に加え生活するのに十分な財産が保障されるのである。
幸運などというものではない。
「あの子を守れる騎士は、君なのだと思う」
「辺境伯様」
「君のただ一人の姫君に、あの子はなれないだろうか?」
「それはもう、お会いした日から、あの方のお姿を忘れたことはありません」
「では……」
「ですが、せめてサインの前にお嬢様と話をさせていただけませんか?」
「そうだな。今、案内させよう」
「いえ、離れでしたら道を覚えておりますので」
記憶によれば視界を遮るものはほとんどなく、迷うことは無いはず。
しかし、一年経たない間に、ずいぶんと離れの周りは様変わりしていた。
踏み固められただけの道ではなく、平らな石が敷かれ、花や木も新たに植えられたようだ。
おそらく、体調がよくなってきたという令嬢の行動範囲を広げるべく、整備したのだろう。
離れの庭を囲む生け垣が見えてきた頃、何かがこっちへ向かってくるのが見えた。
大きな……犬だ。
敵意は感じないが、飛びつかれてよろめきそうになる。
踏ん張りどころだと堪えたが、この犬はなかなかの重量だ。
「あ、こら、お客様になんてことを!」
見覚えのある従僕が、犬を追って来た。
ということは。
「お前は、ラミエルか。大きくなったな」
なんとか地面に下ろして、頭を撫でて宥める。
「申し訳ございません。気配を感じたらしく、飛び出してしまって」
「大丈夫ですよ。それにしても大きくなった」
犬と共に生け垣の間から入って行けば、令嬢は車椅子で庭にいた。
「ようこそ、お待ちしておりましたわ」
「お久しぶりです。お元気そうで安心しました」
「ありがとうございます。あの、お礼を申し上げないと。
贈っていただいたテーブルボード、とても便利で、喜んで使わせていただいております」
「それは良かった」
「父が……無理を言っておりませんでしたか?」
「婚約のことでしょうか?」
「はい。打診も何もなく、こちらへは仕事として来られるはずだったのに、いきなり話が変わってしまって。
断られるのは覚悟しておりますが、護衛騎士も引き受けていただけなくなったら、と思うと……」
令嬢は目を伏せる。
「ただ一人の姫君に忠誠を誓う、そんな騎士に憧れていたのです。
そのことを、若い頃に話したら、仲間に笑われてしまいました。
それからは誰にも話しませんでしたが、その気持ちはずっと持ち続けています。
私の姫君になっていただけますか?」
令嬢は車椅子から立ち上がった。
「わたしでよろしいのですか?」
「貴女がいいのです」
私は跪き、浅く首を垂れる。
令嬢が私の額に、軽く口付けた。
控えているメイドも従僕も息を殺し、厳かな雰囲気がその場を満たす。
しかし……
「ふ、ふふっ……」
令嬢が堪えきれないというような笑い声をこぼした。
私もそろそろ限界だ。
「駄目よ、ラミエル! もう、いいところだったのに台無し」
警戒を怠ったわけではないが、厳かな儀式のために無防備な背中を晒してしまったことは否めない。
その背中を、放っておかれていたラミエルが見逃すはずが無かった。
チャンス、とばかりに私の背中に登ってきたのだ。
「重い」
先ほどは飛びつかれ、今は背中に前足をかけられている。
これ以上、汚れを気にしてもしょうがないので、私は地面に尻を着いた。
するとラミエルは正面に回り、撫でてと言わんばかりに擦り寄って来る。
「こちらのご令嬢からも、騎士として認めてもらえたようだ」
「まあ、少し妬けますわ」
そう言われて思わず目を合わせると、お互い赤面して俯いてしまった。
ラミエルは私たちの顔を見比べて、不安げに鼻を鳴らす。
それを慰めようと伸ばした手のひらが、犬の頭の上で重なる。今度は固まってしまった私たちに、従僕がしびれを切らした。
「お二人とも、お茶の用意をいたしますので、中へお入りください」
後から聞いたところでは、彼は従僕を経て執事見習いになっていた。
その後、子爵家の執事となる彼は、年甲斐もなく初々しい私たちを叱咤激励する、力強い味方となってくれたのだった。