55 ハル様、婚約破棄を望む?(1)
皇太子妃教育は多岐にわたる。
その為に、全然ハル様に会えていない。
ハル様も忙しいのか、こちらにいらっしゃらないのです。
それにしても、学ぶ事が多すぎるんですけど・・。
まさか、このような事まで勉強がいるのかと呆れてしまう分野まであって、疲れ果ててます。
その筆頭が刺繍です。
皇太子妃教育の一環で、刺繍の勉強を追加されてしまった私・・。
はっきり言って、前途多難。
前世、一番嫌いな授業は体育ですが、その次に家庭科でした。
特に針と糸を扱うすべての作業が苦手でした。
波縫いをしては最初の玉結びを忘れていたり、ミシンでは端ミシンをかければ、端過ぎて縫えていなかったりといった具合です。
でもそれは可愛い出来事です。
針で手を刺しまくり、出来上がった作品は血染めの刺繍ハンカチ。
展示室には呪詛が掛けられた、呪いのハンカチを見ようと黒山の人だかりになった事もありました。
こんな私の刺繍が、美しい訳がない。葡萄を刺繍すれば紫の岩石といわれ、四つ葉のクローバーを刺したつもりが青虫と間違えられました。
貴族の嗜みに刺繍は要らないと誰か言ってやってください。
その他の嗜みも出来ませんが・・。
刺繍の先生は40歳のエリザベス・コート伯爵夫人。とてもスレンダーな女性で真っ黒な髪の毛をひっつめて、いつも片眼鏡越しに刺繍の出来映えを観察するのです。
その瞳の奥が怖くて・・。
しかも少しばかりヒステリックな所があり、刺し間違えを見つけるとけたたましく怒るのです。
ですが、その刺繍の腕前は帝国一と呼び声高く、彼女に刺繍を教わりたいと言う方は沢山います。
いつもは我が屋敷に来て教えて下さっている先生が、本日は先生の都合により、ご自宅に伺うことになった。
コート伯爵のお家は、帝都の外れにある森を抜けた高台にあります。
前に一度来た時も思ったのですが、ここから一望出来る帝都の見張らしが最高のお家なのです。
「アルルーナお嬢様、ようこそいらっしゃいました」
コート伯爵夫人は、お腹の前で手を組んで頭を下げてお辞儀をする。
その角度がデパートの店員さんのような角度です。
「先生、今日も宜しくお願いします」
私も同じようにお辞儀をした。
コート夫人のようにピシッとしたお辞儀ではありませんが・・。
顔をあげた途端、先生の瞳が光った。ああ、今日もいっぱい怒られそうです。
私は嫌な予感を感じながら、先生の家のリビングに入った。
侍女のパウラと、護衛のジュスターさんは隣の部屋で待ってくれている。
待っている間、二人も先生のお弟子さんに刺繍を習っているのです。
じっと待っててもらうより、気兼ねなく教えてもらえます。
先生の質素な感じとは真逆のリビング。
ブロドリー作家として有名な先生のお屋敷は、可愛い小物や刺繍等の愛らしい調度品とヴィンテージ家具が調和したホッとできる空間なのです。
ホッとできる室内とピリッとする先生。
しかし、この空間にもう一人、全く似合わない人が奥のソファーに座っていた。
長い金髪をなびかせて、地中海を思わせるブルーの瞳をこちらに向けている。まさに『美』の一文字の男性が微笑んでいる。
この部屋が美術館のような作りならば、創造神の作った彫刻だと勘違いしたところです。
こんなに美しい男性を目の前にしたら、あの癖が出ちゃうかも。
人見知りでイケメン耐性ゼロの私の『逃げる』癖。
でも、もう皇太子の婚約者となっている身です。そんな恥ずかしい真似は出来ません。
死にそうな顔を無理に、精一杯の笑顔に作り変えて微笑みました。
あれ?
思ったより平気だったわ。
今までなら、気絶していた筈ですが、大丈夫でした。
私は落ち着いて挨拶が出来た。
「コート夫人、お客様がいらしたのですね。初めまして、私はこちらで刺繍を習っているアルルーナ・マイヤーです」
男性は目を見開く。そして、何も言わず訳の分からない微笑みを浮かべ、じっと私を見詰めるだけ。
ええーっと・・?
こちらが挨拶したのに無視ですか?
しかも、笑ってるって薄気味わるいんですけど・・。
この場合の対処の仕方は習ってなかったですわ。
じゃあ、いいです。失礼な人に構っている時間は私にはないもの。
せめて、結婚するまでにはラインハルト様の名前だけでも刺繍できるようにならないといけません。
まだ、文字にならない刺繍。
本来、名前とその家紋を象徴する刺繍もいれるそうなのですが、家紋はもう諦めてます。
なので、時間がない私は軽く会釈をして、刺繍を始めようとその男性から離れた刺繍台に座った。
そのうち必死に刺繍をしていた私は、男性の存在を忘れていた。
「へえ、私を見てそんな態度を取る女性がいるなんて新鮮!」
あれ、彫刻が喋った?
そうだ、人間だったわ。
えーっと、どういう意味?
「それは自分があまりにも美しいから飛び上がる程に驚いてほしかったという事かしら・・。それとも頬を赤らめた方が良かったのかしら?」
「・・・そう言われると、私がバカなナルシストみたいじゃないか」
「ああっ?!!!すみません!! 心の声が漏れてたなんて!! 申し訳ございません!!」
しまった!! まるで小説のような自信たっぷりの台詞に驚いて、うっかり声に出ていたわ。
「つまり・・・本心なんだ・・」
さっきまでの自信に満ち溢れていた男性の眉がハの字に下がる。
「あの、私イケメン耐性がなくて、鍛えているうちに斜め上の技ができるようになったんです。それは・・」
「・・・・それは?」
ナルシストイケメンさんがゴクッと喉を鳴らし、前のめりで尋ねる。
しまった。別に技なんて無かったわ。でも、このままだとナルシストイケメンさんを傷付けちゃうわ。なんか適当に言っちゃえ!!
「心頭滅却すれば火もまた涼し作戦で、私の視界からイケメンを消す事ができるようになったんです」
こんな嘘バレるかな?
バレるよね?
「なるほどね。私の美しさに耐えきれず、私という存在を消したんだ」
ナルシストイケメンさんは、再び優雅に足を組み替えて、格好をつける。
ああ、信じてくれたわ。
プライドを傷付けなくて良かった良かった。
彼の為にああ言ったが、実はエディーお兄様や、ハル様を見ていたら、いつの間にかイケメンを見ても平気になってたみたい。
カルロもかなりのイケメンだったわ。そうだ第二近衛騎士団のミュラ・ホークさんも女性の人気が凄かったわ。
「あの、私の事消し過ぎて見えてない?」
ナルシストイケメンさんが、私の目の前で手を右左右左と揺らす。
「ああ、すみません・・ほか・・」
他の事を考えていたと言えば、またナルシストイケメンさんは勝手に傷付くので止めました。
「あの、ところでコート夫人・・こちらの方は?」
ナルシストイケメンさんでは、呼び名が長いのでそろそろ本当のお名前を知りたいです。
「ええ・・こちらは・・」
コート夫人が言い淀むと、それを察した彼が自己紹介を始めた。
「ああ、美しい女性を前に自己紹介が遅れたね。私はコート夫人の祖母方の遠縁でレオンだ。宜しくね」
レオンさんが右手を差し出した。
えっとこれは間違いなく、握手ですよね。
私も右手を出して、握手をした。・・つもりだったのですが、くるっと手首を返されて手の甲にキスをされた。
「お美しい姫君にお会いできて光栄です」
とさりげなくキスをし、その手を放さず上目遣いに私を見やる。
その顔から目が放せない。目を見開きじっと見てしまった。
いえ、正しくはレオンさんの耳に光るピアスに目がいったのですが・・・。
レオンさんは「見惚れたの?」と尋ねる。
「ええ、そのピアスの石はターコイズですね。しかもその石は貴重なオルドー産のものですよね!!」
レオンさんの笑顔が固まった。
私の手を放すと、少し遠ざかる。
何か悪い事を言ったのかしら?
素敵なターコイズブルーのピアスだったのですが・・・。
オルドーとはオルドー中立国の事です。
多くの州を持つシュヴァルツ帝国が治めるダカール大陸にあって、帝国に属さない国です。
西にシュバルツ帝国、東南にリッカルダ王国東北にテダマラ属州とその間に挟まれたオルドー国。
乾燥地帯が多い国ではあるが、戦闘能力が高く、他の帝国にも属していない。
そのオルドー産のターコイズは、このシュバルツ帝国では滅多にお目にかかれる物ではないはず。
「ははは、ターコイズなんてどこでも取れるよね? これはオルドー産ではないよ」
レオンさんの固い笑い声が響く。
「いいえ、間違えませんよ。ターコイズの産地は乾燥地帯が多く、どこでも取れるわけではありません。それに、あなたのピアスのターコイズは少し緑色を帯びています。これはオルドー産の特色ですわ」
どうだ!!とばかりに力説をしてしまいました。
だって、この私が石を見間違う訳がありませんもの。
「・・・君は宝石が好きなの?」
レオンさんの私を見る目が観察物を見るような冷たい眼差しに変わっていた。
「宝石と言うより・・私は石が好きなのです」
「・・・いし・・?」
「そうですわ、如何なる世界でも石は一緒なのです。玄武岩、安山岩、流紋岩、それに含まれる二酸化ケイ素の量もほぼ一緒・・・興味深いですわ!!・・・ハッ」
やってしまった。
すぐに熱くなってしまい、ベラベラと喋ってしまった。
「ふーん、君の知識がテダマラ属州を救ったと言われているが、本当だったみたいだね」
「テダマラ・・・そう言えば変成岩を見せて頂き、話が盛り上がったような気がしますが・・救ったと言うのは大袈裟です」
帝国の支配している州は多く、どこも繁栄できる多くの黄金の種を持っている。
私にできるのは、その種の育て方をお教えするだけです。
「君は自分の価値を分かっていないのかい?」
おかしな事を言う方です。私の価値なんて決まってます。
「私の価値は、『2』と言ったところでしょうか?」
私の答えに満足がいかないレオンさんが不機嫌になる。
「『2』って何?」
美人な方の凄む顔は怖いので、さっさと答えます。
「私一人では所詮『2』の能力です。でも私に力を貸して下さる人の力が100なら倍の200になり、そしてもっと多くの人が手助けしてくれると更に多くなります」
「なるほど、謙遜じゃなく本気でそう思っているんだ・・。」
もちろんです。
ハル様のような能力が二人なら、1000×1000となるでしょう。
少し前までなら、人と向き合ってお話すら出来なかった私。
『2』の能力も盛り過ぎです。
だから、「謙遜じゃなく本心です」と頷く。
するとさっきまで美の女神のような中性的お顔だったレオンさんが、男性的な雰囲気になる。
そして、急に立ったレオンさんに私は手を掴まれた。




