04 エディックは想う(1)
母が亡くなってから笑ったのは、いつぶりだろう。
私は、先ほどのアルルの可愛らしい様子を思い出していた。
それからベッドの上に座り、今までの事を振り返った。
そう、本当に始めからだ。
優しい母・・・。
いつも微笑んでいた母。
母は町で見染められた父と、恋に落ちたと言っていたが、父の方はそうではなかったのでは? と私は思っている。
当時、父は他に気位の高い妻がいた。
どうやら、その妻との間には子供がおらず、母にその後継ぎを産まそうと思っていたのだ。
だから当然、そこに愛はなかった。
現に母が身籠ったと同時に、長年子を成せなかった彼の妻が身籠ると、彼は母を捨てるように家に来なくなったと聞いている。
父はパンを買うだけの最低限のお金を母に支払っていたが、それだけでは全く足りなかった。
母は乳飲み子を抱えながら、働き、なんとか細々と町で暮らしていた。
しかし、父からの送金はどんどん少なくなっていく。
私は母との二人だけの生活は、貧乏だったが楽しかった。
貴族の父の存在は聞いていたが、見たことのない父に、会いたいという感情が湧くはずもない。
明るく元気だった母が、私の10歳の誕生日を迎えてから、急に体調を崩した。
長年の無理が祟ったのだ。
その頃は父からの仕送りは既になくなっており、母の薬代は買えない。
そのうち蓄えも底をつき、その日の暮らしにも事を欠くようになる。
私は子供でも雇ってくれる所で、僅かな小銭を稼いでいた。
その日も寝ている母を残し、貰った小銭でパンを買って帰ると、母は一人静かに逝ってしまっていた。
悲しさ、一人になってしまった不安、寂しさが一気に襲ってくる。
呆然としていると、誰が連絡したのか分からないが、その日の夜、父と名乗る人物が私を引き取りにきたのだ。
この日を境に、私の地獄のような日々が始まる。
父の正妻ビオンダは、私を見るなり、金切り声で罵倒した。
「ショーン!!なぜ連れて来たの? ああー嫌だ! 泥棒猫の息子と一緒に暮らすなんてゾッとするわ! この子をこの敷地に住まわせたいなら使用人部屋にして頂戴!!」
ショーンと呼ばれた父は、妻に媚びへつらう。
「・・勿論だ。君の言う通りにするよ」
父はズタ袋を扱うように、私をビオンダのいる部屋から慌てて引き摺り出した。
「ああ、お前のせいでビオンダの機嫌が悪くなるのは目に見えているのに・・・引き取らないといけないなんて・・・」
ブツクサと文句を言うこんな男に、母がなぜ引っ掛かったのかと悔しくなった。
これが私の父親なのかと、情けなくて涙もでない。
きっと母は騙されたんだ。
父は使用人の相部屋に私を押し込むと、さっさと出ていった。
その後すぐに執事が来て、父の尻拭いをするように、周りの使用人に私の出自を話して、これから使用人の一人として働いてもらうと説明をしていた。
執事は私に、父がビオンダのブルネイ伯爵家の婿養子であり、揉め事は起こせば父のためにならないから気をつけろと忠告する。
私も行き場がない身の上だから、自分から騒ぎを起こす気はなかった。
だがその夜、私の異母兄弟のベンジャミンが、わざわざ使用人の部屋にいる私を揶揄うためだけにやってきた。
「お前がお父様をゆすっていた女の息子か。やはり見た目は女みたいだな。その綺麗な顔で、男も女も騙して来たのか?」
ベンジャミンが言い終わらないうちに、私は殴り掛かっていた。
「お母様はゆすったりしていない!お前に何が分かるって言うんだ!」
一発殴り、もう一発と言うところで私は頭に強い衝撃を受けて、ベンジャミンの横に転がった。
使用人が止めようとして、木の棒で私を殴ったのだ。
飛んで来た父に、ベンジャミンは仲良くしようと言ったのに、私がいきなり殴り掛かって来たと泣きながら訴えると、父はそれを鵜呑みにして、私だけを罰した。
そのせいで、三日間食事を与えられなかった。
毎日、ひたすら働かされたが給料はない。
それどころか、他の使用人には新年の休暇に帰る家があるが、私にはなかった。
使用人達が嬉しそうに実家に帰るのを、羨ましげにいつも見送るしかない。
他に帰る場所が無いのだから・・・。
こんなに面白くもない家だったが、私にも唯一の楽しみがあった。
図書室の掃除だ。
母から文字を教わっていたお陰でここの本を掃除をしながら読むことが出来た。
昔、母に寝る前に話してもらった『リューゾーの冒険日記』がこの屋敷の図書室にあった時は、心が踊った。
母はこの本の3話しか覚えていなかったが本には15話まで掲載されていた。
図書室に来る度に、少しずつ色んな本を手に取る。
社会と経済、歴史、ありとあらゆる本をランダムに読んでいった。
自然と知識は、確実に私の中に蓄積されていく。
ある日、ベンジャミンが庭で家庭教師の先生に講義をうけていた。
先日私が読んだ、この帝国の初代の政策を勉強中だった。
私は広い庭の草むしりをしていて、全部は聞いていなかったが、ベンジャミンは全く答えられていなかった。
そこで、ため息をついた家庭教師は、ふざけて同じ質問を私にしてきた。
「そこの君、シュバルツ帝国の初代がした政策を知っているかい?」
私は無視をするのも悪いかなと思い、草むしりの手を止めずに『属州に各省庁の設置』とぶっきらぼうに答えた。
すると、家庭教師はガタンと椅子を倒して私の近くにしゃがみ、私の名前を聞く。
この時はエディックとしか言わなかったので私を使用人と思った彼は、ベンジャミンの前で私を誉め称えた。
「使用人すら知っているのだから、もう少し勉強を頑張りたまえ」と発破を掛ける。
家庭教師の言葉が、ベンジャミンを苛立たせた。
そして、その日の晩に私はとうとうやってしまう・・・。
屋敷を半壊したのだ。
家庭教師に叱られたベンジャミンは、私が大切に持っていたハンカチをハサミで切り刻んだ。
それは母が私の為に刺繍をしてくれたたった一枚のハンカチだった。
「きったないハンカチだな。しかも下手くそな刺繍も笑えるな」
ベンジャミンは、私が飛びかかればすぐに取り押さえられるように、大きな男を伴っていた。
だから、私からの反撃はないと、強気でいる。
ザクザクと切られたハンカチ。
それを見た私は、怒りと一緒に強い力が湧き起こり、ベンジャミンも大きな男も屋敷さえも捻り潰したい衝動に駈られる。
もうどうなっても構わないと吹っ切ると、制御できない力に身を委ねた。
私の足元から、木々が生え出し『伸びろ』と唱えた。
その結果、屋敷の半分が大きな樹木に潰されていた。
幸いにもベンジャミンと大男やその他の人に怪我はなかったらしい。
私は力を使い果たし、力尽きて倒れた。
目を覚ました時には、牢に入れられて、腕にバングルが嵌められ、魔法は使えなくなっていた。
自分では取る事が出来なくて苛立つが、どうすることもできない。
一日に一度だけ食事が運ばれるが、パンにはカビが生えていた。
どうやらあいつらは、私を放置して弱らせて殺すつもりだろう。
座る力もなくなってきた時に、優しい顔の紳士が私を牢屋から出してくれた。
「私の家においで」
彼はそう言ったが、返事すら出来なかった。
でも、久しぶりに人に話し掛けられた事を、自分の都合のよい夢だと思いこんでいた。
紳士が私を運び馬車に乗せた。
次の記憶は、ふかふかの王様が寝るような大きなベッドに寝かされていた。
また次に起きると、女神様のような優しげな女性が私の顔を拭いている。
断片的な記憶を繋げる前に、何度と無く眠りに落ちた。
漸くベッドで座れるようになった私に、紳士と女神が話し出す。
「もう、命の危機は脱したよ。元気になって本当に良かった。もう少し遅ければ危なかっただろう」
紳士が私に言う。
「もう大丈夫よ。ここでゆっくり元気になっていきましょうね」
「あの、あなた達は誰ですか? それと・・・ここは?」
私が尋ねると、女神が紳士に話して良いのか顔を見る。
女神のかわりに紳士が答えてくれた。
「私は君の伯父のマクソンス・マイヤーだ。これが、妻のカトリン・マイヤーだよ」
女神は紹介されると美しい所作で頭を下げた。
義母のビオンダとは動きが全く違う。女神カトリン様は動きが優雅だ。
それにしても。この紳士と父は全く似てない。
本当に兄弟なのか?
信じられないと思い、紳士の顔を見ていると、私が他の事で心配しているのだと勘違いしたようで、詳しく説明をしてくれた。
「私には娘がいるが、彼女には結婚を強いようと思わない。だからエディック、君にこの公爵家を継いで欲しいと思ってるんだ。そして、将来君が誰かと結婚をしても、彼女を守っていってくれないだろうか? 親バカな私の願いを聞き届けて欲しい」
紳士と女神が頭を下げた。
「命を助けてもらった上に、公爵家を私なんかに譲ってもいいのですか? 私は・・その庶民だし・・魔法で父の屋敷を潰してしまうような危ない人間です・・」
「まあ!あなたは悪くないわ。悪いのはブルネイ家の人達、よ!」
女神は私を悪く言わない。
そればかりか、自分の事のように腹を立てて怒ってくれる。
「本当に旦那様には悪いけど、あなたの弟は最低だわ。自分の子供にこんな酷い仕打ちをするのだから!!」
「しかし、私は実際に魔法であの屋敷を壊して・・・」
ここで自分の腕にある筈のバングルがない事に気がついた。
「私の腕にあったバングルはどこに?」
私が焦ってバングルを探す。
この優しい二人を自分の怒りで、木に巻き付けてしまうかもしれない。
そう思うと自分が恐ろしくて、取り乱した。
「落ちつきなさい。君は大丈夫だ。あんな事になったのは、君のせいではない。君は自分の事で怒ったりはしない優しい子だ。いいかい、怒りは調整できるんだ。だから魔法の力も調整出来るよ」
「そうよ、あんなのは必要ないわ」
この人達は、私の力が怖くないのか?
自分でも怖いのに・・。
今度、もし魔法を使う事があるなら、この二人と彼らの娘の為に使おう。
こんなに優しい人達の娘なら、思いやりのある女の子に違いない。
「ところで、公爵様のご令嬢は何と言う名前なのですか?」
「ああ、まだ君の事を話してはいないのだが、体調がよくなったら紹介しようと考えていたんだ。
娘の名前はアルルーナだよ」
娘の名前を言うマイヤー公爵は、とても優しい顔をした。
でも、反対に名前を聞いた私の顔は固まったまま、動けなかった。
なぜなら、以前にお茶会で世に名だたる我が儘令嬢で、『令嬢帰し』と異名がついているウルリーケ・シリングス伯爵令嬢を、号泣させて追い返した『傲慢令嬢』という異名の恐ろしい女の子の名前を、聞いた事があったからだ。
その名前が、アルルーナ・マイヤー公爵令嬢だ。
どうして今まで思い出さなかったのか。
ベンジャミンの従姉妹だぞ。
優しいわけがない!
ああ、また同じことが繰り返されるのか。
意地悪をされても我慢して、誰かに訴えても自分の方が悪くなる。
あの地獄はどこに行っても同じなのか。
そう思うと急に優しく見えていたマイヤー夫妻が、恐ろしく思えてきた。
でも、ここしかいる場所がない。それならば、いつの日か公爵家を継いだ時、皆追い出してしまえばいい。
それまで大人しく、うまくやればいいのだ。
私は笑顔を顔に張り付けて、心にもない台詞をマイヤー夫妻に言った。
「アルルーナ様にお会いできる日を、楽しみにしています」