はじまっている。
一週間前から雨が続いていた。宿舎は田園の並びに位置しているため、窓を閉め切っても青臭い匂いが部屋に充満した。ヨウは窓辺に肘をついて、春雨にくぐもる景色を眺めていた。数日前までは新緑と春の花々が窓辺の景色を彩り立てていたが、今では鉛色の殺風景が広がっている。美しい花は長雨に打たれてすっかり腐ってしまった。
「勉強しないとなぁ」
ヨウは本気でそう考えていた。しかし、頭は一向に勉強に向かなかった。カビ臭い部屋に嫌気が差して、春先に閉ざした暖炉を開いた。湿気を飛ばすには熱を加えるといい。そんな思いつきで火を焚べてみたが、蒸し風呂のように息苦しくなるばかりで、間もなくしてバケツに汲んだ雨水を暖炉に投げ入れた。
「はぁ、なんでこんなにやる気が出ないんだろう」
独り言が口をつく。昨日も同じことを言った気がした。
「ギン、少しは俺に付き合ってくれてもいいじゃんか」
ルームメイトのギンは、魔術の勉強に余念がなかった。同じ部屋で寝泊まりしているのに、ギンはヨウよりも早く起きて学校に通い、ヨウが寝静まる遅い時間に帰ってきた。そのため、一日顔を合わせないこともざらにあった。ヨウはそれが不思議でならなかった。同じ部屋で寝泊まりしているのに、言葉を交わさない日があるものだろうか? 俺のこと避けているのか? そんなことを考える日もあった。
ヨウは窓辺に置いた椅子に座り直して、再び深いため息を放った。
「オーバーブルーでも行くか」
雨の日に外へ出かけるのは面倒だと思った。しかし、それ以上に色々なことを考えてしまうことが憂鬱だった。ヨウは雨具に袖を通して、深々とフードを被った。
★
「いらっしゃい。雨の日に珍しいね。学校は?」
玄関先で雨具についた雨を払っていると、中から声をかけられた。女店主は読んでいた新聞を隅に置いた。
「今はお休み中なんです」
「まだ夏休暇には早いだろうに」
「なんか、たまにあるみたいなんです。先生たちは魔導師ですから、国の行事やらなんやらで人手が欲しいときに、招集がかかるらしくて。そういう時は講義がお休みになって、生徒は束の間の安息を得るんですよ」
「そうかい。ちゃんと勉強はやってるんだろうね?」
「ぼちぼちですね」
「ちゃんと勉強しときなよ。じゃないと、私のようになっちまうから」
「どういう意味ですか?」
「そのまま意味さ。パン屋なんてものは、風が吹けば簡単に壊れちまう脆い商売ってことだね」
少年は彼女の言っている意味が分からなかった。女店主はのんきな彼の顔を見て、思わず微笑んだ。そして、ヨウが頼むよりも先にルボロンを紙に包んだ。
「50リッツだよ」
「え?」
「50リッツ」
彼女ははっきりとした口調で言った。少年は尋ねる。
「どうしたんだんですか? いつもの三倍くらい高くなってますけど」
「ん? あんた、知らないのかい? 一週間前から小麦が高騰してるのよ。あり得ないくらいにね。こんなに高くなったのは、はじめてのことだよ」
「一週間前ですか」
一週間前といえば、学校から臨時休講の通達があった頃であった。間もなくして、絶え間ない長雨に閉ざされて、ヨウは自室に引きこもった。そのため、小麦のこの字も聞かなかった。
「そうだったんですね……知らなかったです」
「学生はいいね。世間に頓着なくても生きていけるんだから。どうしたもんだか」
女店主は頭を抱えながら、何もない壁をじーと見つめた。彼女の言動からして、事態は思っている以上に深刻かもしれないと少年は考えた。そして、解せなかった先程の女店主の言葉の意味をようやく理解した。彼女が話したように、ヨウは小麦の値上がりの影響を身近に受けていなかった。とはいえ、世間が大変なことになっていたのに、何も知らなかった自分とその周囲の環境を不思議に思った。学校の食堂には毎日行っていたが、誰一人として世間の様子を語るものはいなかったし、パンを出し渋る給仕も見かけなかった。
「大丈夫……ですか?」
「この一週間は頑張ってみようと思うよ。でも、これが続くなら来週には休業だね」
「休業……ですか」
少年は驚いた。いくら小麦が値上がりしたと言っても、駅前のパン屋が休業するとは考えてもみなかった。トリアムに住んでるもので、オーバーブルーを知らない人はいない。味も知名度も悪くはなかった。
「そうですか……でも、なんでまた値上がりなんて」
「さぁね。問屋に尋ねても、はっきりとした答えは返ってこなかったね」
「問屋が分からないって、変な話ですね」
「ただ一つだけ分かることは……国が買い占めてるってことだけさ」
「国が?」
「国が農家からの買い上げ量を増やしてるんだってさ。それで問屋に入る小麦の量が激減しちまったみたいだそうだよ。そのせいで市井には微々たる量しか流れない。値段が上がるわけだ。なんで国が小麦を集めてるかなんて、知らないけどね」
「そうなんですね……」
女店主は、畳んであった新聞を再び開いた。
「世間はいつも通りに見えるのにね」
少年は憐れみを感じたが、どうしようもない現状において、励ましの言葉をかける気にはなれなかった。かといって、可哀想な女店主には優しい言葉が必要だと思った。しかし、ヨウは二の句を継げず、ルボロンを細かくかじり続けた。静かな店内に、サクサクと衣が砕ける音ばかりが響いた。
「おいしかったです。ごちそう様でした」
「はいよ。またね」
ヨウはお辞儀をして店を出た。そして、振り向きざまに
「また来ますね」
女店主は手をあげて少年の挨拶に応じた。
雨が降りしきる中、ヨウは駅の方へ歩き出した。用事はなかったが、部屋に閉じこもっていたせいで、世間の動きを知らずにいたことが少し不安になった。
駅の構内は、いつものように忙しなく行き交う人々の雑踏に溢れていた。ある者は眉間にシワを寄せながら、時計と新聞を交互に眺めている。またある者は、汽車が出発するまでの間に、一片の大きな紙につらつらと文字を連ねている。金の勘定をしているのか、懐から手形のような紙束を取り出して数えはじめた。これらの光景は、トリアムの日常そのものであった。
都会のいつもの装いに安堵した少年は、せっかく来たのだからと、汽車の出発を見てから帰ろうとベンチに座った。
ヨウははじめて汽車を見たときに、こんな大きな物が動くものかと大変驚いて、その夜はまともに眠ることができなかった。また、自分がそれに乗って都会に行くことが夢物語のように感じられた。汽車を見ると、その当時の興奮と感情が蘇ってくる。悪い気はしなかった。
すでに