はじまり
初投稿です。不備あったらすみません。
麗らかな春の道、車窓から差し込む柔らかい光が少年の頬を温めている。汽車は険しい渓谷の隙間を縫うように走りながら、黒い煙を青空に向かって吐き出していた。車輪の律動に意識を埋めながら、少年は窓外に広がる美しい景色を眺めるともなしに眺めていた。日の当たる険しい山肌の斜面には春先の美しい花が咲き乱れ、高野蝶が蜜を求めて踊るように飛んでいる。長い年月を経て磨耗した山腹にはところどころ穿ったような穴があいている。そこには緑とも青とも言えない雨水が溜まり、空の色と混じりながら幻想的な光輝を放っている。車窓の隙間から流れ込む渓谷の匂いに少年は嘆息に似た息を漏らした。春の日差しに柔らかな緑が燻されて、それが甘い花の香りと混じりあって官能的な趣を呈している。忙しい都会と比較すれば、この長閑な絵は天国にさえ見える。もともと農家に生まれた彼にとって、自然は飽きるほど見慣れたものであったが、何度見ても心に穏やかな風を吹き込んでくれる自然の力を彼は愛していた。どんなに落ち込んでいても、どんなに嫌な思いをしても、春先の緑豊かな情景を見ている間だけは憂い影を潜めて、一時の安らぎを与えてくれる。都会へと向かう少年はそんな風に考えて、不安や悩みを美しい景色の中に隠しなから微睡んでいた。そんな一種瞑想にも似た彼の安らぎを、途中で乗車してきた初老の男性が不意に破った。初老は空いている席を避けてわざわざ少年と向かい合う席を選んだ。
「どちらまで?」
にこやかな笑みを湛えて、初老は少年の目を覗き込んだ。少年は喉もとまで込み上げたため息を飲み込んで「トリアムまでです」と愛想良く答えた。人付き合いが苦手な少年にとって、こういう話好きは得意じゃなかった。その上、汽車は長閑な田舎の山間をゆく。初老のこじゃれた服装からして、彼の行く先も都会の方角に違いなかった。長い旅の連れがこのおしゃべりな初老とあらば、若く人見知りな少年にとって、旅路は大いなる苦痛を伴うに違いなかった。
「トリアムですか、長旅ですね。お若いようですが……お名前をお伺いしても?」
「はい。学生をしております。ヨウと言います」
「どちらの学校ですか?」
「王立高等学校です」
「はぁ、それはすごい。トリアムの王立学校と言えば一つしかありません。あなたは魔導師を目指しているのですね」
初老は驚きながら笑顔を浮かべた。ヨウは痒くもない頬を掻きながら
「ええ、一応」と遠慮がちに答えた。
「どうしてこんな田舎に?」
「頼まれた荷物を受け取りに行ったんです」
「そうですか。それはご苦労様でしたね」
「今は春休暇で、実家に寄ったついでの頼まれごとなのでしたので、全然大丈夫です」
「なるほど、そろそろ新学期の季節ですね。私も昔、魔導師に憧れた時期があったのですが、才能以前にあの難解な幾何魔法陣学に打ちのめされまして門を叩く前に諦めてしまいました」
「幾何魔法陣学は難しいですよね。すべての基礎になるので必須ではありますけど、僕も勉強しなくていいならやりたくありません」
「あはは。現役の子でさえ難しいのであれば私にはお手上げですね。あなたは魔導師になったあと、どちらの分野にお進みになるのですか?」
ヨウは彼の質問に口を閉ざした。そして、二度と会うことのない彼に真面目な返事をする必要はないと思いなして、工法士ですと適当に答えた。工法士は魔法を扱う職業のうち、彼らの住まう国では最も人口の多い職種であり、最も人々の生活に近く、初老の問いに対する最も無難な返事であった。
「工法士ですか。私も工法士さまのお作りになった鍋を持っております。あれはいいですね。少ない火力で分厚い肉がすぐに焼けてしまうのですから。高い買い物でしたが、私たち家族の生活の質も上がり、大変重宝しております。我々の住むハイツ王国は工法士さまが優秀です。戦後の基盤を作ったのも工法士さまの働きのおかげでしょう」
「そうですね。僕も立派な工法士になって皆さまのお役に立てるように努力いたします」
心の中で「あーあ」とぼやきながら、不器用な少年は初老に破られた自然という慰みを諦めて、彼の話相手に徹した。揺れる車輪の律動がいつのまにか喧しく感じられて、初老と別れたあとも、少年は悶々としながら頬杖をついた。
「まったく、嫌な話をしたなぁ。トリアムにいない時くらいは魔法のことなんて考えたくなかったのに」
トリアムに近づくに連れて、都会らしい密度の高い街並みが眺められた。高台を走る汽車から見える人々は忙しそうに歩き、帽子が飛ばないようにと鍔に手をかけて走る者もいる。路の隙間に落ちる陰はいつにも増してどす黒く見え、遠くの煙突から伸びる黒煙は春曇りの地平線を濁している。数時間前に見た渓谷の風景を天国と評した手前、ここは地獄と言わなければ収まりがつかないような気がした。そして、わざわざ地獄に向かう自分の不合理さを鼻で笑った。
少年はトリアムの駅に着くと、そそくさと荷物をまとめて汽車をおりた。春とは思えない冷たい風が足もとから薄いコートを揺らす。ヨウは大きな背伸びをしたあと、駅前のパン屋〈オーバーブルー〉に寄って、ルボロンと呼ばれるパンを手に取った。
「15リッツだよ」
小太りの女店主はヨウの顔も見ずにぶっきらぼうに言った。トリアムに住む人々は冷たい人が多いと良く言われる。この女店主も都会の女に相応しい冷たい陰を瞳に落としている。しかし、ヨウは麻でできた小銭入れを取り出して、躊躇いもなく「お久しぶりです」と仏頂面に声をかけた。すると、ようやく客の顔を見た女店主は少し驚いた表情を浮かべたあと、口角に笑みを浮かべた。
「久しぶりだね。最近見なかったから学校辞めちゃったんじゃないかと思ってたよ」
「春休暇で実家に帰ってたんです」
「そうかい。そいつは良かったね。ルボロンが食えなくて寂しかったろ」
「そうですね。今日は絶対ここで買って食べるって決めてたんです」
ヨウは人見知りであり、できるだけ他人との関わりを避けている。しかし、この人は大丈夫だなと思うなり、人懐っこく距離を縮められる人間だった。ヨウは他者と接する際、常に訝しむ瞳をもっているが、その瞳に優しい笑みが萌すと、小さな子どものような無邪気さが少年の表情に宿った。女店主は足繁く通う少年に気まぐれでサービスをしてあげた時、その笑顔を見てすっかり彼を気に入ってしまった。
「そいつはどうも。また来なよ」
「是非、また来ますよ」
ルボロンは豚と野菜の餡を小麦で薄く包んで高温で一気に焼き上げたもので、田舎にはない都会の複雑な味がする。去年、はじめて都会に出たヨウはこれを食べて以来、毎週必ず一度は口にしないと気がすまないほど虜になってしまった。特に駅前のパン屋の味付けが好きで、近くに用のある際は必ず立ち寄っている。
ヨウはルボロンを頬張りながら、美しい石畳の上を歩きつつ、花の代わりに鼻腔を刺激する鉄や油の臭いを嗅いで、都会に戻ってきたなとしみじみ思った。汽車の上でトリアムを地獄と評しながらも、好きなパンを口にしながら、豪奢な都会の街並みを歩くことが決して嫌いじゃなかった彼は、久々の級友との再開に想いを馳せて、口角に笑みを滲ませた。
「ギンはどうしてるかなぁ。きっと、春休暇中もずっと勉強ばかりしてたんだろうな」
独り言を呟いていると、宿舎方面行きの路面電車が折よく向こう3メートルのところで停まった。宿舎までは歩いて行ける距離であるが、長旅で少々草臥れていた彼は、たまにはいいかと考えて、錆びた手すりに手をかけた。電車に乗ると、席には身なりの良い都会の紳士と淑女が行儀良く座っていた。どこかに座りやすそうな席はないかと目を巡らせると、後部座席に見知った顔があった。ヨウは思わず息を飲み込んでその場に固まってしまった。見知った顔はヨウに気づくと席を立ってスカートを軽く払った。そして、薄青い髪を靡かせながら少年のところまで笑みを浮かべつつ歩いてきた。そのタイミングで電車は次の停車場へと動き出した。
「久しぶり」
「ひ、久しぶり。アウル。えっと、その……」
「ん?」
ヨウは頬を少し赤らめて、真っ白になった頭から気の良い言葉はないかと必死に考えた。少女はそんな彼の顔をまじまじと見つめながら優しく微笑みかける。
「実家帰っていたんだよね。ヨウ君は確か、アルバート地方だっけ?」
「う、うん。ちょうど今、帰ってきたところなんだ。アウルは?」
「私は本屋さんに寄った帰り」
「そっか……その、アウルは春休暇中、どうしてたの?」
「うーん、特に普段と変わりなかったかな」
「実家には帰らなかったの?」
「うん。私のうちは放任主義だから、帰ってもあまり構ってもらえないし。ずっとトリアムにいたよ」
「そうなんだ。俺も実家に帰らなくてもいいと思ってるんだけど、親が休暇中は絶対に帰って来いって言うんだ」
「仲良しなんだね。ちょっとうらやましい」
「そうかな? 家に帰ると、あれはどうだ、これはどうだとか、いちいちうるさくてさ」
「あはは、心配なんだよ。ヨウ君のこと。遠いところからトリアムに来てるんだから」
「度が過ぎてるよ。妹もうるさくてさ、私も将来魔導師になるんだって言っちゃって。俺に魔法を教えろって言うんだ。教えるの面倒なんだけど、意外と筋が良くてさ、俺が小さかった頃よりも勉強進んでるんだ。嫌になっちゃうよ」
「そっか、なんだか楽しそうでいいね」
アウルはヨウから視線を外して窓の外を眺めた。ふと、彼女の横顔がヨウの目に寂しく映って、彼女にとって楽しくない話題をしてしまったと手に汗を滲ませた。ヨウはアウルの家庭に複雑な事情があることを以前の会話からそれとなく察していた。仲の良い家族の話はきっと彼女の脳裏に寂しい思いを引き起こしたに違いない。
「そう、なんだ。何か気分転換できるもの、あればいいね」
「まぁ、魔術の勉強も忙しいから、それはそれでいいの。私、あまり魔術得意じゃないから」
「そんなことないよ。アウルは一級生だよ? アウルが得意じゃないなら、僕のような四級生は何て表現すればいいのか分からなくなっちゃうよ」
「ううん。得意じゃないのは本当なの。でもね、その分、いっぱい勉強するんだ。小さい頃から、ずっとずっと勉強……息が詰まっちゃうくらい」
彼女は困ったように笑いながら、ヨウの瞳を覗いた。ヨウは堪らず目を逸らして
「そう、だよね。一級生だし、生半可な努力で入れるクラスじゃない。すごい勉強が必要なんだよね。それに比べたら俺なんて全然で、春休暇中は家の手伝いなんかしちゃって、勉強あまりしてないんだ。才能もなし、努力もしない。あーあ、ため息が出ちゃうよ。どうせ2年生の編成試験の結果も、四級のままなんだ。見なくたって分かるよ」
少年は自虐的に振る舞うことで、いくらかでも彼女の慰めになればと思った。しかし、彼女は閉口したまま薄い笑みを浮かべるばかり。ヨウは何か言葉をかけなくてはいけない焦燥感に煽られたが、何を言っても駄目な気がして、終いには彼も黙り込んでしまった。
沈黙はしばらく続いた。二人は隣合って窓の外を静かに眺めた。ちょうど賑やかな広場に差し掛かって、楽しそうな人々の声が車内に響いた。曇った空の隙間から陽光が差し込むと、往来は灰の中から甦ったかのように鮮やかな色彩を取り戻した。広場は一週間前から花市を開いていた。種々の美しい花が広場の上に咲いている。ヨウはそんな光景を眺めていると、「あっ」という音を聞いた。声にもならない声であったが、真隣から聞こえたような気がして、ふと横を見てみるとアウルがヨウの顔を見つめていた。
「あれ」
「あれ?」
「うん。ほら、気分転換の話。さっき、ヨウ君言ってたよね」
「え? あ、うん。何かないかなって」
「あった。一つ、あったよ」
「何?」
彼女はニヤリと右の口角をあげた。彼女は人と接する時、いつだって笑みを絶やすことはない。しかし、その笑顔は周囲に対する礼節以上の意味を持たないことを少年は早い時期に気づいていた。ただし、彼女の右のほっぺたが上がる時だけは、彼女の言動に本心が宿ることもヨウは知っていた。そんな彼女のいつもの癖を見て、少年は内心ほっとした。
「ルーベル展。来週、王立美術会館で開催されるんだ。それで、ルーベル伯爵が所持していた歴史的な文化財が多く展示されるの」
「そうなんだ。アウルはそういうの好きだもんね」
「そう。そうなの。でね、ルーベル展ではアダリットの魔術書も展示されるんだ。アダリットだよ。ヨウ君も知ってるよね?」
「知ってるよ。アウルから散々教えてもらったから。二千年前の大魔導師だよね」
「うん。でね。なんと、なんとだよ。展示される魔術書の中に〈星薙ぎの一振り〉があるの! 神各魔法の魔術書の原書だよ! 普通お目にかかれないんだから」
ヨウは全く歴史に興味を持たない人間であるが、彼女の楽しそうに話すその顔が好きで、関心がないにも関わらず、関心のあるように装った。特に、アウルは神各魔法と呼ばれる古い魔術書に強い関心があり、その素晴らしさについて何度も同じ話を彼にした。
「へぇ、すごい! 神各魔法の原書か。一度は見てみたいなぁ」
「うん。でさ、ヨウ君は来週空いてる?」
「え?」
「来週だよ。一緒に来てくれるんでしょ?」
ヨウは自分の耳を疑って、思わず彼女の顔をまじまじと見た。アウルはまるで子どものように輝かせた目を彼に向けている。宝石のような深く青い瞳に捕らわれた少年は、すっとんきょうな声を出しながら、無意識のうちに足を一歩うしろに下げた。
「え、え、え? 俺?」
「そうだよ。人の息抜きを心配してくれたんだし、つき合ってくれてもいいよね?」
「ぜ、全然いいけど……」
「よし。じゃあ、来週の春の日、十時にオーラン広場で待ち合わせ。いい?」
「ああ、うん。いいよ。いいよ。もちろんいいよ」
少年は彼女と学校以外のところで会ったことがなく、今回の路面電車での偶然が初めてのことであった。何とか平静を保とうしているが、彼の心臓はアウルの些細な言動で大きな脈を打った。彼女と会話をする一瞬一瞬が彼にとって大きな刺激であるのに、外で会う約束ができたというのは、ヨウにとって一大事であった。
「良かった。一緒に来てくれる人がいて。みんな神各魔法に興味ないんだもん。あのロマンが分からないんだよねー」
「あはは。今じゃ芸術的、歴史的な価値ばかりが話されて、内容については議論されないもんね」
「そうなんだよ。術式配列とか、幾何魔法陣とか、もっと研究されていいと思うんだけど、研究家の人たちは昔の人が書いたただの理論書であって、実際には使えるものじゃないって決めつけちゃうんだもんなぁ。確かに、神各魔法に必要な魔力量は人が扱える量を遥かに越えちゃっているんだけど」
「難しいね。実際に使われたっていう記録は残ってないし」
ヨウは彼女と会話を続けつつも、頭は既に来週の約束でいっぱいになっていた。彼女との話も実のところあまり耳に入ってこなかった。幸いにも、浮わついたヨウの反応に、アウルが不自然さを感じるよりも前に、電車は王立高等学校近くの駅に到着した。宿舎の異なる二人はここで別れなくてはならなかった。
「じゃあ、またね」
「うん。また」
手短に挨拶をしたのち、ヨウは彼女の後ろ姿に手を振った。その姿が生け垣の角を折れて見えなくなると、少年は蛙のように大きく飛び跳ねた。そして、慌ただしい様子で自分の宿舎方面へ駆けた。大きな手荷物や長旅の疲れなどお構いなしで、少年は心の奥底から沸き上がる興奮のままに帰り道を走り抜けた。
「ゆ、夢だ。きっとこれは夢だ」
ボソボソと何度も呟きながら、人前を憚らずに、ニヤけた顔で何度も往来を跳んだ。曇り空はいつしか晴れて、春の温かい光が辺り一面に降り注いでいた。