1 用心棒バサラ 7
「ここでよろしいですか?」
「ああ。大丈夫だ」
運転してくれた黒澤さんにしばらくここで待機するよう伝えると、俺は黒塗りの高級車から降りた。
辺りは冷たい夜風が吹き付けていて、昼間より肌寒い。
工業地帯は一日の役目を終えているからか、殆ど物音というものを発していなかった。
俺は一瞬だけ目を閉じて、辺りの空気に身を任せる。
――西か。
俺は瞬時に風向きを感じ取って、サクが囚われている場所の当てを付け始める。
工業地帯の構造的に、サリン類の臭気を発する工場は場所が限られているはずだ。
それを鑑みると、その付近の廃ビルというものも限られてくる。
もしくは付近に自動車の類があれば、恐らく連中の車だろう。
俺は軽く走りながら、辺りを周回し始める。
工場の構造を見つつ、該当する場所を絞り込んでいく。
そして、それに風向きを掛け合わせると――
すると少し先の前方に、黒塗りのセダンが止まっているのを発見する。
ビンゴのようだ。
俺はすぐさまセダンが止まっている廃ビルに潜入しようか、一度戻って態勢を立て直そうかと一瞬迷ったが、約束の八時まであまり時間もない。
逆に車まで下りて来られると厄介なので、今回は援軍なしの単独で突入することを決める。
普通なら、とんでもなくプレッシャーのかかる場面だろうが。
俺はなんとなく、懐かしい感触を覚える。
まるで自分の故郷に帰って来たかのような。
きっとそれは、長らく用心棒をやって来た職業病というものだろう。
俺は少し笑って、すぐさま廃ビルに侵入していった。
廃ビルはだいぶ前の段階で廃棄されたようで、内部は荒廃を極めていた。
もとは何かの事務所だったんだろうが、机や椅子、紙の類がばら撒かれていて、足の踏み場に困るくらいだった。
しかしここにサクと連中がいる可能性は高いので、物音一つ立てることは許されない。
俺は呼吸音にさえも気を配りながら、奥へ進んでいく。
この建物は四階建てのようだが、俺が誘拐犯で隠れるとするのならば、もちろん一階ではない。
こういう犯罪に手を染める者は、一番安全な場所を選ぶはずだ。
そうなると経験上一階と四階はない。
すると二階か三階なわけだが、取り敢えず両方捜索してみるしかない。
俺はまず二階に入ってみたが、物音というものが一切なかった。
部屋は荒れ果てているだけで、最近まで人がいた気配というものもない。
俺は小さく息を吐いて三階へ向かおうとしたが、そこで何か物音が聞こえた。
素早く壊れかけた机に身を隠すが、誰もいない。
警戒を続けていると、また物音が響いた。
その音は上階から響いているようで。
恐らく誰かの足音だろう。
俺は足音から何人いるか推測しようとしたが、サクの話だと三人以上いると言っていた。
そう考えると各個撃破した方が安全だが、上階の構造がわからない以上、不意の多対戦も思考に留めておくべきだ。
俺は程よい緊張感に身を委ねながら、三階へ向かった。
三階の踊り場から、奥の廊下を覗き込む。
日が落ちていてあまり良くは見えないが、それでも廊下に一人男がいるのはわかった。
あの位置的に、恐らく奥にサクがいるんだろう。
だがあのように警備しているということは、あそこからしか侵入はできないということか。
下手に時間もかけられない。
俺は瞬時にそう判断すると、わざと踊り場の壁を手の甲で叩いた。
コンクリ剥き出しだからあまり大きな音は出ないと思っていたが、欠陥工事だったのか壁の内部はスカスカなのようで、案外大きな音が響いた。
「なんだ?」
廊下の奥から声が聞こえる。
「どうした?」
「何か物音が」
「確認して来い、一応な」
「お、おう」
予想通り、男の一人が確認に来るようだった。
俺は階段の踊り場に身を潜めて、その一人が来るのを待った。
すると待つまでもなく、男の一人が顔を出す。
俺は遠慮も何もなく、助けを呼ばれないように口を塞ぎながら、男の首を締めあげた。
男は懸命にもがいていたが、完全に後ろを取られていたため、すぐさま昏倒する。
俺は男を踊り場に横たえて、彼が持っていた拳銃を奪い取る。
流石に発砲はしたくないが、念のためだ。
俺は異変を感じ取られないうちに踊り場から移動して、今倒した男が守っていた場所まで近づいた。
「おい、何かあったのか?」
部屋の奥から声が響く。
「おかしいな。聞こえてないのか」
「いや、階段はすぐそこだし、聞こえてるはずだ」
「――何かあったかもしれんな」
断定はできないが、声的に残りは二人だ。
それならば、瞬時に制圧することができる。
「確認に行く。お前はこの女を見ておけ」
「ああ」
そうして、足音が一つ近づいてくる。
「おーい、だいじょうぶ――」
部屋の入り口まで来たところで、俺は合気道の要領で男を部屋から引きずり出した。
「え?」
そのまま身体を軸に反回転させ、彼の顔面を壁に叩きつける。
腕を不快な感触が貫いて、男はすぐさま地面に倒れ込んだ。
「なんだ?! 何者だ!」
部屋の奥から男の声が聞こえるが、俺は構うことなく自分の身を奴に晒した。
部屋は元仮眠室のようで、いくつかのベッドが配置されていた。
そこに転がされたサクと、拳銃を構えた一人の男。
「貴様! 一体何をした!」
「バサラ!」
サクはその顔を輝かせて、こちらに笑顔を向けてくれた。
「助けに来たぞ、お嬢様」
俺は少しずつサクの方へ近づいていく。
それは男の方に近づいているのも同義で。
「と、止まれ! 撃つぞ!」
男は手を震わせながら、こちらに拳銃を向けていた。
俺はさして興味もなかったが、男の方に向き直ってやる。
「撃てるのか、お前に」
「う、撃てるさ!」
「じゃあ撃てよ」
「バサラ!」
「大丈夫」
俺はゆっくりと男の方に近づいていく。
男はひっ迫した表情を浮かべて拳銃をこちらに向けていたが、やはり撃つ気配はない。
そして、俺は彼の目の前まで到着して、溜息を吐く。
「銃も撃てないような奴が」
俺は瞬時に屈みこんで、
「誘拐なんてするんじゃない!」
俺は回し蹴りを男の顔面に炸裂させていた。