1 用心棒バサラ 6
「ただいまー」
玄関の扉を開けてそう呟くが、もちろん返事はない。
鍵を閉めて奥の部屋に向かうが、ベランダから覗く空はもう暗くて、日がとっくに沈んでいることを知らせていた。
俺は溜息を吐いて、繁華街のスーパーで買ってきた総菜をちゃぶ台の上に置く。
結局、俺はサクとヨシノさんの依頼を断ってしまった。
それは仕方のないことなのだが、やはり脳裏には罪悪感が残ってしまう。
きっとあの二人も、何か困っていたんだろう。
元用心棒として、困っている人間を放っておくのは理念に反することだが、辞めてしまった以上しょうがないとは言えた。
だって、俺はもう普通の高校生なのだから。
少し前とは違って、もう非日常に飛び込む必要なんてない。
俺はもう、頑張らなくていいのだ――。
俺は手洗いを済ませて、取り敢えず買ってきた総菜を平らげることにする。
ちゃぶ台の前に座って、割り箸を割ろうとしたところで、
部屋に設置してある固定電話が着信を告げた。
耳障りな音に顔をしかめて、俺はすぐに立ち上がって受話器を取った。
「宗教勧誘はお断りですよ」
「あら、バサラくん! 良かった出てくれて!」
電話の相手はヨシノさんだった。
というか、バサラくんって呼び方、なんだがモミジと違ってくすぐったいな。
「もっと悪質な勧誘でしたね。それでは」
「バサラくん! 話を聞いてください! 大変なんです!」
「大変?」
どうせまたあの手この手で呼び出して、俺に用心棒の依頼を受けさせるつもりだろう。
「サクお嬢様が攫われたんですよ! ちょっと散歩に出てくると行ったっきり、警備の人間も倒されてしまって……」
「はぁ」
少し違うかもしれないが、俺はまたヨシノさんが演技をしている可能性を考えた。
しかし、なんとなく彼女の口ぶりから言って、冗談には聞こえない。
俺は用心棒という仕事をしていたからか、人の感情には機敏に反応できる。
だからヨシノさんが嘘を言っているとは思えなかった。
「どうか助けて下さいませんか! もしかしたらあの人たちかも……」
「あの人たち?」
「――いいえ、なんでもありませんわ。バサラくん、お願いできませんか」
そのように懇願されて、俺は少し考えてしまう。
俺は用心棒を辞めたんだ。
だからヨシノさんの願いを聞き届ける義務はない。
しかし、俺は思った。
“あの少女”がどう思うのかを。
きっと、助けてやって欲しいと考えているのではないか。
自分と同じような境遇の人間を、救って欲しいと。
「……」
俺は深く思考の海に沈んで、ヨシノさんの頼みを聞き届けることにした。
「わかりました」
「バサラくん!」
「詳しい状況を教えてください。今から誘拐場所に急行します」
そうして、俺は取り敢えずサクの屋敷に赴くことを決意した。
屋敷に到着してみると、多くのボディガードと思しき男たちが慌てふためいている様が目に入った。
その中にヨシノさんを発見した俺は、彼女の方へ近づいていく。
「バサラくん! お待ちしていました!」
ヨシノさんはわたわたと、こちらに走り寄ってきた。
「状況は?」
「今のところ、ウチのボディガードたちに捜索させています。しかしまだ何の手がかりもなく……」
警備の連中もやられたと言っていたし、手練れの可能性が高い。
「散歩の時を狙われたらしいし、前から目を付けられていたっぽいな。それと十五の女を抱えて逃げれるはずないから、車で移動しているのは確実だ」
そうなると少し厄介だ。
そもそも用心棒の役割とは、このような状況下に陥らないようにすることだ。
しかしこのように目標を連れ去られてしまっては、ある意味八方塞がりと言わざるを得ない。
「相手の目的はわからないが、狙った犯行である以上もしかしたら身代金の要求があるかもしれない。ヨシノさんは取り敢えず屋敷で待機していてください」
「染井さん!」
すると、ヨシノさんの背後からボディガードらしき黒服の男が現れた。
「どうしましたか?」
「犯人グループからの連絡です!」
「ヨシノさん」
俺が目配せすると、ヨシノさんは緊張気味に頷いた。
「俺に策があります。俺に出させてくれませんか」
「――わかりました。バサラくんに一任します」
頷いたヨシノさんの肩を安心させるように軽く叩いて、俺は屋敷の中へ入っていった。
廊下に設置されている待機状態の受話器を持ち上げて、耳に当てる。
「変わったぞ。警備責任者の相沢だ」
もちろん偽名だが、こういう時は名前を名乗らない方がいい。
蕪木という名前は珍しいし、もしかしたら勘付かれる可能性もあるのだ。
「そうか、お前の仕える佐倉家の一人娘、サクは預かっている。こちらの要求に応じれば、無事に返してやろう」
「それで、要求は?」
「身代金二億円を要求する。受け渡し場所はこちらが指定する。それとサツに連絡の一つでも入れてみろ。佐倉サクはすぐにでも殺す、わかっているな?」
「了解した。受け渡し場所は?」
「世田谷プリンスホテルだ。一階のホールで受け渡しを行う」
「わかった。しかしこちらからも一つ要求がある」
「何? 貴様、立場が分かっているのか?」
背後からヨシノさんの心配そうな目線を感じるが、大丈夫だと目配せする。
「そちらにサクお嬢様はいるか?」
「ああ、いる。それが?」
「本当に生きているのか知りたい。電話に出してもらおう」
「ほぅ? 下手な真似をしたらわかっているな?」
「理解している。こっちにもお嬢様の声を聞きたい人がいるんだ」
「まぁ良いだろう。よし、連れてこい」
そう言って、電話の先からは物音が響く。
先ほどの電話状況で、オンフックでないことは確認している。
サクとの通話の際に変えられてしまう可能性もあるが、その時はその時だ。
ふと物音が止んで、寒がるような息遣いが聞こえる。
「サクか? 大丈夫か?」
「! その声は!」
「しっ! 良いか、俺の質問に“うん”か“ううん”で答えろ」
「――うん」
「相手は三人以上か?」
「うん」
「今、その場所がどこかわかるか?」
「ううん」
「ホテルっぽいか?」
「ううん」
「そうか――廃ビルか何かっぽいか?」
「――うん」
そうなると、恐らく辺りは暗いのだろう。
廃ビルの可能性が高いと、この辺でも場所は限られてくる。
「そうだな、何か匂いはするか?」
「! うん!」
「それはそうだな――サリン系の臭いか?」
「うん! うん!」
「わかったもう大丈夫だ。助けに行くから待ってろ」
「――うん。待ってるね」
そう言うと、また耳障りな雑音が入った。
「もう十分だろう。いいか、約束の世田谷プリンスホテルに午後八時。一分でも遅れてみろ、大切なお嬢様の首が飛ぶからな」
「わかった。すぐに向かうから安心しろ。お嬢様の命に代えられるものはない」
「良い心がけだ。それでは、また時間になったらこちらから連絡する」
電話が切れたのを確認して、俺は受話器を静かに置いた。
「バサラくん! どうでしたか?」
振り返ると、ヨシノさんだけでなく他にも黒服の男たちが不安そうな表情を浮かべていた。
俺は連中の要求を一通り説明して、
「場所の特定ができました。ここから南にある小さな工業地帯の廃ビルです」
「そこまでわかったんですか?」
「そもそも、この手の輩は人目に付くことを嫌います。そうなるとある程度自然監視の少ない場所を選ぶはずです。この辺で考えられるのは工業地帯の廃ビルくらいですよ。ないとは思いましたが、一応受け渡し場所のホテルの可能性もあったので、聞いただけです」
「なるほど……」
まぁしかし、かなり検索範囲を絞り込むことができた。
「車、出せますか?」
「はい! 黒澤さん、お願いします!」
そう言うと、一際大柄な男がぬっと前に出てきて、こちらを手招きした。
「バサラくん、一応我々も身代金受け渡しの準備を進めます」
「構いません。俺は完全に別動隊ということで」
そう言って黒澤という熊のような男に付いていこうとするが、
「待ってください、バサラくん!」
「? どうしました?」
振り返ると、ヨシノさんや他の黒服たちが畏まったような姿勢で直立していた。
「どうかサクお嬢様を、よろしくお願いします」
そのように言って、全員が頭を下げた。
「――必ず連れて帰ります。それでは」
それだけ言い残して、俺は黒澤さんと共に外の車へ急いだ。